誰もが二流三流。登山家・服部文祥が突きつける「人生と向き合う覚悟」

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「好きに生きるには覚悟がいる」。街を見下ろす丘の上、あちこちに動物の骨や毛皮が散らばる自宅で、サバイバル登山家・服部文祥は都市生活者に伝える。私たちにとって本当に必要なものは何か。それを知るところから働き方は変わる、とも。

私たちと少し違った生き方をする人たちに話を聞き、これからの働き方を探る「アウトサイダーの労働白書」。第1回は、食料を現地調達し装備を極力廃した「サバイバル登山」を実践する服部に「自分らしく生きる術」を聞いた。

「アウトサイダーの労働白書」一覧
服部文洋(はっとり・ぶんしょう)登山家。作家。山岳雑誌『岳人』編集者。1969年横浜生まれ。94年東京都立大学卒。オールラウンドに高いレベルで登山を実践し、96年に世界第2位の高峰K2(8611m)登頂。国内では剱岳八ッ峰北面、黒部別山東面などに冬期初登攀(とうはん)が数本ある。99年から長期山行に装備と食料を極力持ち込まず、食料を現地調達する「サバイバル登山」を始める。2016年に第5回「梅棹忠夫・山と探検文学賞」受賞。2018年に「三島由紀夫賞」候補。
―最近「サバイバル登山」は行きましたか?
この間は電気製品を使ったので厳密には「サバイバル登山」のルールから外れるけど、写真家の石川竜一くんと北海道の山に登りました。

そこで石川くんが、狩猟で獲ったシカの頭をふたつ持って帰るって、空港に生と腐りかけのものを持ち込んだんだけど、乗り継ぎの大阪の空港で引っ掛かっちゃったらしい。(石川竜一氏は沖縄在住)
―大阪までは行けたんですね。
大阪からは佐川で自宅に頭を送ったみたい。
―腐ったシカの頭も送れるんですか。匂いがもれそうですけど。
乾いてたから大丈夫じゃない? あとで「無事に沖縄に頭ふたつ着きました」って連絡がありました。
―今回の登山で新しい発見はありましたか?
やっぱりシカの脳みそと目玉はうまい、の再確認。あとは腹子(ハラコ)。鉄砲撃ちが表に出さない食べ物はおいしいですよ。われわれにとっては当たり前でも、世の中に出すとギョッとされるというのは何でなんですかね。

最近は漫画の「ゴールデンカムイ」のおかげで、うまいゲテものもドン引きされることが少なくなった気がするけど。
―それでもまだ「気持ち悪い」っていう人もいます。
そうですね。まあ、鉄砲撃ちでも肉以外は食べないという人も多い。理屈で考えれば可食部位は全て食べたほうが良いに決まってるんだけど、不気味に思う人の気持ちも分かる。

最近は「真実を知りたい」って猟に同行して獲物をさばく様子を見たがる人も増えました。でもその後に猟師の免許を取ったって人はひとりもいないですね。
■「うちの次男ね、高校辞めたんです」
―働くまでのルーツとしての服部さんの生い立ちを教えていただけますか。
うちの親は昔の安保世代で、どちらかというと「共産主義者」でした。母親はちょっと絵を描く人で「最高の人間は芸術家なんだ」って人だった。

子どもの頃は母親の影響もあって「自分も芸術家になりたい」という思いはありましたね。ただ、僕は絵の才能はなかったので、表現の方法として山登りを選びました。自分にクリエイターとしてのダイレクトな才能がないから「まずは自分を高めよう」と山登りを始めたわけです。
―大学では山登りに明け暮れて、そこから一応、一般的な企業に就職しようと考えたんですよね?
うん。そこが僕の限界ですね。「社会人というのは大きな会社、上場している企業に就職して、平日は毎日会社に通うものなんだ。それがまともなんだ」っていう価値観を蹴飛ばすことができなかった。そうした考えを社会から強く叩き込まれていたから。
―働き方の選択は、教育が大きく影響してしまうと思います。
うちの次男ね、今日もあっちにいますけど、高校辞めたんです。「俺、辞めたいんだけど」って言われたとき、僕は「自分で決めたんならいいよ」って答えました。

同世代の親なら「よくそんな無責任なことが言えるな」って思うかもしれない。でも、自分の子どもを平均的なレールに乗せたい理由を、親は一度考えたほうがいいですよね。それを考えず「大学に行ったほうがいいんだ!」「企業に就職しなさい!」「安定的な生活をしなさい!」って勧めるのは無責任だと思う。

僕からすると、最終的な目標を考えないで生きるほうがよっぽど怖い。次男はそこにどうやら気付いて行動した。すごいですよ。

いい高校、いい大学に行って、いい企業に勤める。その価値が本当に良いことなのかどうかは、今かなり多くの人たちが疑問に思っていますよね。「生きるってなに?」「幸せってなに?」「働くってなんだ?」「生物ってなんだ?」って根本的なことを、みんなが考え始めた。
―そうした意識の変化に社会の仕組みが追い付いていない部分もあります。
社会をつくってきた人たちって、成功してカネ持ちになった人たちだから。「カネもうけに意味はない」とは思えないですよね。客観的な視点や根本的な疑問がなければ、自分の「成功例」をベースに、自分の子どもにも似たような道を勧めるのは当然でしょう。
―逆に進む答えがはっきりしていれば、平均的な進学や就職にこだわる必要はないと。
高校、大学に行って就職すれば、多少リスクは低いかもしれない。でもその程度ですよね。そっちを取って本当にやりたいことを捨てる意味をどこまで考えているのか。

僕自身は、はっきりと何がやりたいっていうのがないまま大学に行った人間だから強くは言えません。でも山登りに出会って、文字表現の世界にも多少はなじんできたつもりです。
―好きな仕事を選ぶと不安定になることもしばしば。大げさにいえば「死」に近付きます。サバイバル登山で常に死と向き合ってきた服部さんから見て、そのあたりはどう感じますか?
「死ぬってことは、生きているから死ぬ」わけです。じゃあ、本当に生きているのかを死に近付いて検証する必要がある。ある程度まで納得できる人生を歩めなかったら、それはもう死んでるのと同じじゃないのかな、って僕は学生の頃に考えてました。

「そんなことしたら死んじゃうよ」ってえらそうにアドバイスする大人もいたけど「じゃあ、アンタたち生きてんの?」っていつも思ってた。常に死んでいるような人生なら、それは生きていることにはならない。

最近思っているのが「死ぬのは本当に悪いことなのか」ということ。もちろん死にたくはないですよね。だけど、かたくなに否定するのはどうなんですかね。

さらに誤解を恐れず言うなら、ひとりの人間の命は地球より重いって言葉はウソですよ。そんなことあるわけない。
■「自分らしく生きる」覚悟
―死というリスクを恐れる気持ちが、結果としてレールに乗る人生を選ぶのでしょうか。
あとは結局、カネなんじゃないかな、と僕は思いますけど。
―カネ。
みんなが「自分のやりたいことをやります。もうからなくても生活できればいい」「残業なんかしたくない。私は9時5時でしか働きません」と言い出したら、国が安定しなくなって停滞も起こる。

これまで国は「便利でカネがあることがいいこと」と提唱してきたでしょう。みんなが自分らしく生きはじめたら、そりゃ国は慌てますよ。国力が落ちるんだから。それに、みんなが本当に不安定や停滞を受け入れる覚悟があるのかも疑問です。
―スーパーは夕方までしか開いていないのに、みんな幸せそうだという他国の話も聞きますね。
日本のコンビニは間違いなくやり過ぎ。あれは便利だけどなくてもいいサービスは全部やめたほうがいいんじゃないかな。北欧とかは、その辺をうまくバランス取って高い税金でうまく国がコントロールしているようですね。

さっきも言ったけど、労働時間を減らしたら国力が下がって、おカネもなくなって、わかりやすいレジャーも減る。治安も悪くなるかもしれない。「自分らしく生きたい人」がどれくらい覚悟を持ってるのかな、と正直思います。
―過剰な発展と「自分らしく生きる」は両立できない?
「私はこれ以上働きません」「給料減らしますよ?」「それでいいです」っていう覚悟があるか。「カネ減ってもいいです」って行動を取る人が増えたらいいですよね。

「給料下がってももうひとり雇って労働時間を減らそう」とか、「俺が奇数の日に出勤するから、お前は偶数の日出ろよ、その代わり給料半分ね」とシェアして、余った時間を自分のために使う。もしくはダイレクトに食べ物をゲットするために使う。あるいは、これまでお金を払って他人に頼んでいたことを自分でやるとかね。
■仲間っていうのは、なかなか得がたい
―一方で働き方に自由度が増してくると、その分、成果主義になってきます。
成果主義がうまく機能したら、素晴らしいよね。でも、日本の社会ではうまくいかないと多くの人が思ってる。だから結局、机に座っているだけで給料がもらえる。
―日本で成果主義にしたら二極化するという話もあります。できる人とできない人がはっきりと分かれてしまうかも。
有能な人からすれば、そりゃ成果主義がいいですよね。よくアリの2割は忙しく働いて、6割は適当に働いて、残りは何もやってないという話がありますね。労働者も会社からそう思われているんじゃないですか。

あと成果主義にしても、徹底的な個人能力至上主義だと「それって会社じゃなくていいじゃん。フリーでやれば」になります。直接成果が見えない仕事もたくさんあって、誰かをサポートしたことに対して評価する制度も必要になってくる。

パーティーを組んで山登りするなら、強いヤツがたくさん荷物を持って、弱いヤツは軽い荷物で、ってします。山登りもそういう世界です。最初は平等に荷物を持つわけだけど、そのままだと結局パーティー全体の成果が下がるだけ。だったら、弱いヤツの荷物をみんなで分担して持って、みんなで移動したほうがいい。

僕なんかはわりと体力があるほうで、いっぱい荷物を持たされて不満を持ってた。バテたヤツに「何やってんだよ」みたいなことを口にしていました。そうすると、真面目な後輩に「違いますよ、世の中そういうものじゃないですよ」って諭されて、「そっかぁ、世の中そういうものじゃねえかぁ〜」って(笑)。
―でも結局、服部さんはソロがメインになっているような…。
まあ、僕がソロクライマーになっていく理由のひとつがそこですよね。ただ登山のコンビって、1+1が2になる必要はなくて。1+1が1.1、もしくは1.2になるなら組む意味があるんですよ。ちょっとでも上に行けるなら仲間と手を組む意味がある。

力を合わせることでお互いが高まるほどの仲間っていうのは、なかなか得がたいですよね。仕事でもそうですけど、もしそういう仲間がいたら大切にしなきゃダメです。

あとは、たとえ組んで0.4になったとしても「アイツ、しょうがねぇな」って人間関係の潤滑油になっている場合だってあるでしょう。逆に全員が有能だったらぶつかりますよ。いろんな人がいて世の中が回っている。

もちろん努力や才能は正しく評価されるべきだと思うし、「助け合うのは素晴らしい」という考えを根本的に否定したい気持ちもあります。仙人になって、山にこもって、社会とはまったく関わらずに生きていきたいという思いもどこかにあるけど、そこまで厭世家ではないので。まぁ、バランスかなぁ。
■8割は「考えるのが面倒くさい」?
―服部さんはいま、雑誌「岳人」の編集部で働いていますが、仕事はどんなペース配分ですか? 雑誌の校了後に10日の休みを取って山にこもるとか。
そうですね。定期的におカネをもらっているのは「岳人」で。その月刊誌がメインで人生が回っている。月末に校了して、月の頭がある程度はヒマなので、その間に山に入ります。
―服部さんは契約社員ですが、「岳人」の母体である(アウトドアメーカーの)モンベルには正社員もいますよね。そうした人たちから、服部さんはどのように見えているのでしょうか。
「あの人は特別だ」って思われているんじゃないかな。僕はあんまりかしこまったのが好きじゃないから、ざっくばらんにやっている。もちろん仲は良いですよ。でも「服部さんだから許されてるんだろうな」ってみんな思ってるかもしれない。山に登ったり、文章を書いたりとか、いわゆる副業が認められているのって社員にはほとんどいないから。

社員にも山ヤやクライマー、カヌーイストとか、本気でアウトドアの活動をしている人が多いんだよね。そういう人たちに「もっとガンガン休まなきゃダメだよ!」ってすごく言ってるけど。僕なんかは、有給休暇をだいたい2カ月くらいで使っちゃう。その後は欠勤して、山に行ってます。
―休みを取りにくい空気、というのも日本企業ではしばしば見られます。なぜだと思いますか?
なんですかね? 「あいつら休みやがって!」「お前、もう帰るの?」みたいな感じで、社員がお互いに足を引っ張り合うのは前の会社でありました。僕としては「協力してみんなで帰って、それぞれ好きなことやろうぜ」と思うんだけど、実際には……なかなか難しい。いつ辞めてもいいよ、って覚悟があれば自由に動けるんじゃないですかね。

ただ仕事を与えられて働きたい人もいると思うんですよね。「考えるのが面倒くさい」「みんなと一緒に合わせているほうがいい」って人も結構たくさんいるはず。8割はそうだと思う。
■「何をしたらいいか分からない」は裕福な悩みかも
―働く前の教育の段階で、自分から動く訓練をするのも大事ですよね。それなら「何かおかしい」と思う人が、2割以上に増えるのでは。
そうは言っても先生も大変ですよ。新卒なら20代から人に何かを教えなければいけないんだもの。確かに今のところ、現代文明に生きる人たちにとって「教育が最善の方法」となっていて、その発想はおおよそ正しい気がする。

でもねぇ…教育で「自由な精神」みたいなものをうまく教えてやるのはムリですよ。もし学べたらかなりレアケース。「いい先生に当たりましたね」って感じ。
―そうなると、家庭での教育も大事になってきます。
それこそ、さっき話した「子どもの中退を認められるかどうか」っていうことです。仕事を与えられて「そのほうがラクだ」って思ってきた人、「生きるとは何か?」ということを客観的に考えることをしてこなかった人たちが親になって、子どもに「自由に生きろ!」と唱えて子どもに伝わるのか。大きなリスクを負って好きなことをした実体験がないわけですから。

それぞれが「なぜこれをやるのか?」と考えなきゃダメなんだろうけど…。「Why?」を考えるのって、結構つらいんですよね。それに意欲のない人からやる気を引き出すってできるのかな、とも思う。

うちの子どもは一緒に鉄砲撃ちに行ったりしていて、それなりに感じたり考えたりしているのかもしれないけど。結局、親が自分の人生を自分が納得するように生きるべく進む。それを子どもに見てもらって判断してもらうしかないのかも。ルールは教えることができるけど、意欲は教えられない。

だから、もし今「何かおかしい」「自分の力で生きていきたい」って本気で思う人がいたら、その時点でかなり重要なことに気が付いていると思う。感じる自分に自信を持っていいんじゃないでしょうか。

気付いてしまったらもう戻れないけど。あとは今のまま苦しむか、行動して苦しむか。
―どちらに行っても苦しいですね。
ただね、うれしい苦しみと、苦しいだけの苦しみがあるから。死ぬときに「こっちで良かった」って思える道を進んだほうがいいでしょうね。
―今って「好きなことが分からない」という人も多いと思うんです。
みんなそうですよ。何かひとつを選び出すのは怖い。
―好きなことが見つからないから動けない。動けないからモヤモヤしてイライラもたまって……。
時間だけが過ぎていく。もちろん1億2千万人全員が、何か一芸に秀でているっていうことはないです。
―凡人はどう楽しむべきですかね。
うーん。「凡人であることを受け入れる」ことなのかな。というか、ほとんどの人が凡人ですよね。何をやっても二流三流。それでも動くヤツは動く。例えば、プロサッカー選手になれない人はそれでもあきらめずに運営する側に回ったりして。

「何をしたらいいか分からない」って、ものすごく裕福な悩みですよね。ひと昔前はほとんどが農民で「村で一番足が速い」程度の自己表現しかない。そう考えると、今は可能性が広がっています。

ただ、それはそれで怖い。だって自分の能力の限界と向き合わなくちゃいけないわけだから。それに「これだ!と決めて進んだけど、実は好きじゃないし才能もなかった」ってことだってあるかもしれない。やってみたら自分より何でも上手にできるヤツがいたというのが現実でしょう。上には上がいるから。
―それでも進む価値はある?
僕はあると思う。

企画・インタビュー・文=森田浩明
写真=西田周平
デザイン=桜庭侑紀
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