挫折を経て、僕の居場所はここなんだと思えた。俳優・鮎川太陽、10歳からの軌跡を辿る

10歳で芸能界デビュー。アイドルグループに所属しながら、2004年にはドラマ『3年B組金八先生』の第7シリーズに主要キャスト・小塚崇史役として出演。この作品で、鮎川太陽は芝居の魅力に目覚めた。

しかし約3年間のブランクや事務所移籍ののち、ようやく踏んだ初舞台で感じたのは、大きな挫折だった。それでも、3年ぶりにスポットライトを浴びて、「自分の居場所はここだ」と胸に刻む――。

舞台に挑戦し始めてからおよそ10年。『最遊記歌劇伝』シリーズ、舞台『黒子のバスケ』など、話題の舞台に途切れることなく出演し続けている。順風満帆に見えながらも転機の連続だったという、波乱の役者人生を振り返る。

撮影/宮坂浩見 取材・文/江尻亜由子
ヘアメイク/谷口祐人
※この取材は、『ヒプノシスマイク-Division Rap Battle-』Rule the Stage -track.2-の中止が決定される前に実施されました。

生まれたときから大きかった。というか「長かった」

芸能界デビューは10歳のときですよね。芸能界に入りたいと思った理由から聞かせてください。
僕自身は入りたいと思ったことがまったくないんですが、うちの母が、もともと芸能界に入れるつもりだったみたいで。小さい頃から、赤ちゃんモデルみたいなこともやってたらしいんですよ。僕は記憶がないんですけど。

幼少期から塾に行ったり習いごとが多かったんですが、その延長線上でダンスとかもやっていて。そこから気づかぬうちに、習いごとのひとつみたいな感じで芸能界に入っていましたね。
ダンスまで…。周到に準備がなされていたんですね(笑)。他の習いごとというと?
水泳とか、ミニバスケットとか、たくさんやってました。ただ、小学5年生でこの世界に入って、それまでの記憶がほとんどないんですよ。友達も普通にいたと思うんですけど、今でも名前を覚えてるのはふたりくらいで。
印象に残っている学校行事などもありませんか?
一輪車に乗ってた記憶しかないです(笑)。休み時間になると、ダーッと校庭に向かって、自分がいつも乗る一輪車を取って、ひたすら校庭を走ってたっていう(笑)。
鮎川さんといえば、舞台映えする188cmの長身が素敵ですが、子どもの頃から背は高かったですか?
生まれたときから大きかったらしいです。大きかったというか、「長かった」って(笑)、母親から言われてます。並ぶときもいちばん後ろでしたね。
当時、モテた記憶はないですか? モテてますよね、きっと(笑)。
いや、どうだったんだろう…。男子よりも女子の友達が多かったのは覚えてるけど。幼稚園のときは外で遊ぶよりおままごととかを女の子と一緒にやるタイプで、「外で遊ぶのとか、めんどくさい」って感じだったんですよ(笑)。

芸能界に入ってからは、モテたのとは違うけど、けっこう見られるようになったっていうのはありました。見られたくもないのに(笑)。当時は「○○の番組に出てたよね」みたいに言われるのもイヤだったから、「見ないで!」ってずっと思ってた(笑)。
見られる職業なのに、「見ないで」って(笑)。
陰キャラでしたね、かなり(笑)。中学校の半ばくらいまではずっと女子の友達が多かったんだけど、今度は男友達ばっかりになりました。「男子と絡まなきゃいけない」と思って。今は、男女(の友達)両方多いですけどね。

環境を一新したときも、芸能界を辞める選択肢はなかった

アイドルとしての音楽活動がメインだったと思いますが、お芝居をしたい!と強く思ったキッカケは?
14歳の頃に、ドラマ『3年B組金八先生』(第7シリーズ、2004年放送。以下、『金八先生』)に出演したことかな。ただ、芝居への興味自体はその前からあったと思います。事務所の先輩が主役で出演されていたら「いいな、自分も出たいな」と思ったし、『金八先生』のオーディションも自分から出たいと言ったものなので。
「第8回日刊スポーツ・ドラマグランプリ」の最優秀新人賞を受賞されるなど、『金八先生』での演技は評価も高かったですよね。
新人賞のこと、よくご存知ですね!

あれはやっぱり作品が有名だし、題材も題材だったし。自分の力というより、作品の力でだとは思うんですけど。でも、いただいたトロフィーは今でも実家に大切に飾ってありますね。
当時、お芝居していて楽しいなと思うのはどういうところでした?
それが、当時は全然楽しくはなかったんです。受かったのはうれしかったんだけど…。実際やってみると、憧れていたものとは全然違いましたね。
どんな部分が違ったのでしょう。
たとえば舞台なら、稽古をするじゃないですか。テレビドラマであれば、セリフを覚えたりリハーサルをやったり。でも正直、稽古って何のためにやるんだろう、みたいに思っていて。

自分が観ていたのは舞台の本番や放送されたドラマだけだったから、その前の作る過程を知らなかったんですよね。「俺は、ただ出て演じたいんだ」って思ってたから、稽古や準備がすごく大変なんだなと思ったことは覚えてますね。
では、そういう準備の必要性を実感したのはいつ頃ですか?
『金八先生』の1話が終わったあと……とかではなく(笑)、全話終わったあとですね。当時の事務所はダンスや歌の活動がメインだったので、他の事務所の同世代たちと一緒に演じるのは、『金八先生』が初めてで。当時は(共演者に)濱田岳くんとかもいて、すごく差を感じたんですよね。そこから刺激を受けて、「ちゃんとやらなきゃ」とか「もう一度演じたい」と思うようになりました。
2007年に活動を休止し、別の事務所へ移籍されました。環境を一新したのには、もっと本格的に俳優業をやりたいという気持ちもあったのでしょうか?
それがいちばん大きかったかもしれないですね。当時、僕の中に「芸能界を辞める」っていう選択肢は少しもなかった。16歳だったんですけど、何年か先のことを考えたときに、俳優として仕事をしていくっていう選択肢を明確に捉えられるようになったんです。
俳優として輝きたい、と。
もちろん、アイドルの道に進む選択肢もあったと思うんですよ。当時の社長は、ありがたいことに「ずっといていいよ」と言ってくださっていたし。ただ一方で、自分はここにいてはいけないな、というふうにも感じていて。
そう思ったのはなぜですか?
今選択しないと、人生後悔するなと思ったんです。当時はグループを組んでいたんですが、僕は自分ひとりだけの力で勝負したいと。そこから、俳優という道を選びました。

帰ってこられた――“終わり”を経て、再びステージへ

2011年に舞台『タンブリング』に出演。新体操の練習も含めて、まるで部活のようなハードな稽古だったと聞きます。これをキッカケに舞台出演も増えていったように思いますが、この作品での思い出を聞かせてください。
新しいスタートには輝かしいイメージがありますけど、僕が俳優という道を選んだときには、そういうことはまったくなくて。それこそ、悔しい思いをたくさんしました。

「若いから」とか「初めてだから」っていうのが通用しない世界。でも、小学生の頃から芸能界にいても、僕には“演技歴”はほとんどなかったから。
どういうことが悔しかったんですか?
自分のスキルと他の方のスキルに、だいぶ距離を感じたんですよね。セリフ覚えの速さ、立ち回り、泣くのか笑うのか怒るのかという演技の振り幅――すべてに経験の差を感じました。僕にとっては初めての舞台に等しかったし、マネージャーさんも稽古には来ないので、ひとりだった。水田航生くんなど同い年がいたのは救いでしたが、彼には俳優としての経歴がありましたし。

結果、セリフを削られたり、先輩からいろいろ注意を受けたり。体力的にも大変で、僕はアクロバットをやる役柄ではなかったんですけど、みんなと一緒に半年前くらいから稽古してたんですよね。普通は1ヶ月半前くらいに始まるけど、ケガの危険を伴う舞台なので、入念な準備が必要で。

会場も大きくて、東京から名古屋、大阪、凱旋が東京国際フォーラム、かな。よく覚えてるな(笑)。……っていう長いスパンだったので。それも含めて、いろいろありましたね。
『金八先生』の頃はハードな練習や準備に驚いていた鮎川さんも… 。
俳優として初めての舞台だから、毎回やる気満々で行ってました(笑)。ただ「これやるぞ、あれやるぞ」っていろいろ計画してたのに、全部空回りして。でも稽古終わりにみんなで飲みに行くときは全部参加してたし、絶対につぶれないようにしてました。
それはなぜですか?
キャストとも、スタッフさんとも、いち早く打ち解けようと思って。お酒をたくさん飲んでも酔わないようにして、気を張ってたんですよね。まぁ、そこからお酒も強くなったんですけど(笑)。
そういった稽古期間を経て、初めて『タンブリング』の舞台に立ったときの気持ちは、覚えてますか?
これ、すごくいい質問ですね!(笑)

本番前に劇場入りするじゃないですか。ステージに上がったときに、あのスポットライトが本当に懐かしくて。舞台に立つまで3年間のブランクがあったので、「帰ってこられたな」という感情になったというか。今思い出しても泣きそうになるくらい、うれしかったですね。

1回アイドルとしての終わりがあったから、そのときは、もうこれは見ることができない光景なのかなと思ってたんですよ。涙でにじんで、光もぼやけて見えなくて。だからその反動もあったかもしれない。一度気持ちが落ちてた時期があったからこそ、舞台からの光は違って見えた。

「自分がいる場所はここなんだ」って思えた。忘れないようにしようと、胸に刻みましたね。
演技の出来栄えについては、覚えていますか?
出来栄えについてはもう…(苦笑)。うまい人たちが多かったから、キャスト10人としてランク付けしたら、絶対に10位だと思ってます(笑)。「コイツには負けてねぇ」っていうのはなかったです。

ただあの経験があったからこそ、人に聞いたり、吸収したりする力を得ることができたと思ってます。あそこで「あ、できるな」とか思っちゃってたら、伸びしろはなかったかもしれない。新しい事務所に入ったときに「入って3年は大変だから」と言われていたこともあって、がんばろうと思えました。

慣れ始めた頃に……『最遊記歌劇伝』で迎えた、新たな試練

『最遊記歌劇伝』では沙悟浄を演じられていますが、初演当時から根強いファンを獲得し、今年も新作が上演されたほどの人気シリーズです。印象深いできごとはありますか?
「(事務所を移籍して)3年間はがんばろう」と思っていた中で、ちょうど3年経って慣れ始めてきた頃に出会った作品です。2.5次元はこれが初めてではなかったんですけど、原作のある舞台をやるにあたって、ここでもかなりの挫折をしましたね。
そうなんですか?
やはり普通の役を演じるのと、もともといるキャラクターを演じるのとでは、だいぶ違って。調べることや考えることも、そのぶん多いんですよね。もともとアニメを観ていたので、そのイメージが強くて、すごく寄せようとしてたんです。

でも自分の年齢とかスキルが全然そこに追いついてなくて。アニメ版の沙悟浄の声は平田広明さんなんですけど、平田さんとの差もたくさん感じてしまった。いっぱいケガもしましたし、「あぁ、またイチから始まった…。新たな試練が来たな」って思いましたね。
今では、鮎川さんのキャリアを代表するハマり役と言えると思います。
今では悩みはないんですけど、2作目くらいまでは全然落ち着かなかったですね。なんかしっくり来ないというか。わかってきた感じはしたけど、まだ上がある。上があるってことはまだだし…と。でも、最新作(『最遊記歌劇伝 -Oasis-』)は、後悔することなくできたかなと思います。
久しぶりに『-Oasis-』でみなさんと再会して、いかがでしたか?
衣装もウィッグも錫杖(しゃくじょう)も、すべてが懐かしくて、また戻ってきたんだなって。見知った顔を見るたびにあの世界観を感じて、楽しくやることができました。

最新作はアクションがほとんどなくて。逆に、芝居に重きを置くようになったので、うれしかったですね。もともと芝居もありましたけど、この作品でも芝居だけで勝負できるんだって。

今はもう、「めんどくさいこと」が好きになっちゃった

今まで数々の舞台で活躍されてきましたが、転機となった作品を挙げるなら?
もう転機、転機ばっかりで。何があるかな……。『タンブリング』もそうだし、『最遊記』もそうだけど、主演の舞台とかかなぁ。やっぱりそこから、リーダーシップを意識するようになったので。
座長として、どんなことを心がけていたんですか?
座長というのが、当時はすごく重く見えてたんです。もともと『SHOCK』(堂本光一さん主演のミュージカル作品)とかに出ていて、そういう背中を見ていたので。別に稼いでるわけじゃないのに、楽屋に差し入れしなきゃ!ってがんばったりとか(笑)。
でも、とても意気込みを感じます。
あとは、自分の役以外のセリフもすべて覚えました。ひとつの作品でも、20種類の役から学べたら、20役ぶんの成長ができるなって気づいて。「こういう感情かな」「こういうふうに話しかけるんだな」とか、いろいろ見えてくるんですよね。

そこから台本の意味というか、演出家さんの意志というか、そういうのも考えるようになりました。「演出家さんの視点なら、この役はここに立たせるな」「これは奇妙な役だから、上手の高台から出てくるな」みたいに。それまでは自分のことだけだったんですけど、俯瞰して全体を見られるようになりましたね。
俳優さんの中にも脚本・演出をされる方はいらっしゃいますが、鮎川さんも将来的には挑戦してみたいですか?
演出に関しては、お話をいただいたこともありました。ただ当時は「もう少し役者として経験したほうが」と思って。今は、僕としてはやれるんだったらやりたいですね。たぶん、寝る間も惜しまずやると思います。
たくさん挫折も味わった、と先ほどお話されていましたが、そういうときは、どのように乗り越えてきたのでしょう?
もう、がんばるしかない!(笑)この業界って逃げられないというか、やるしかないんです。勝手なことをしたらたくさんの人に迷惑をかけるし、損害を出してしまうから。だから、メンタルをどれだけ強くできるか、というところなんですけど。

僕はてっぺんを掴むために、みんなに負けずにどんどん新しいことに挑戦していきたい。「待つだけじゃなく取りに行く、作る!」っていう考え方になりましたね。
それが、全員ぶんのセリフを覚えて、いろいろな角度から見てみたり、ということなんですね。
もうね、「がんばりましょう」なんですよ。毎日「がんばりましょう」って思ってる。ははは! これしかないですよ、もう。
外で遊ぶのもめんどくさいと言っていた少年が(笑)。
そう!(笑)今はね、めんどくさいことが好きになっちゃったんです。とくに今みたいに(新型コロナウイルス感染防止のために)稽古がない時期が続くと、フラストレーションが溜まってきて。「早く稽古したい! セリフ覚えたい! みんなに会いたい!」って思います。

いとこから『ヒプマイ』のことを聞き、すぐにチェックした

では、5月に上演予定の『ヒプノシスマイク-Division Rap Battle-』Rule the Stage -track.2-についてのお話も聞かせてください。鮎川さんは神宮寺寂雷を演じますが、もともと原作はご存知でしたか?
もちろんです。僕のいとこが『ヒプノシスマイク-Division Rap Battle-』(以下、『ヒプマイ』)が好きで、すぐにチェックしましたね。
どのような印象を持ちましたか?
これは絶対に舞台化したらおもしろいなって思いました。ラップをやったことがないから、(出演できる)自信があるかないかもわからなかったんですが。
ラップの練習はもうされているんですか?
『ヒプマイ』の曲は聴くようにしてるし、ラップという世界にもなじめるよういろんな楽曲に触れてます。ただ、(寂雷)先生のラップとは違うので、聴いて慣れるようにしてる、くらいですね。

ありがたいことに、原作の『ヒプマイ』で声優を務めている木村昴くん(山田一郎役)とは同い年で、前から仲良くさせていただいてるんですよ。だから、「マジでわかんないから教えて!」「全然教えるよ!」とやりとりしましたね。
寂雷先生のラップは難しそうですよね。
そうなんです。普通のラップとテイストが違いますから。あとは(寂雷の声優を務める)速水奨さんの声の質感とかニュアンスを聴き込んでいますね。
声はやはり、できるだけ寄せるようにするんですね。
そうしたほうがいいと思ってます。僕もいち原作ファンですから。他のコンテンツでも、原作を無視してその役者として演じられても「いやいや」って思ってしまうので。

原作ファンの方を大事にしたいから、声だけでなくビジュアルや振る舞い方も、“似せる”のが難しくても“寄せる”、ということはつねに意識しています。

嫌いな相手ほど、めちゃくちゃ仲良くなれるんです

では、今年3月に発売された1st写真集『LinQ』のお話を。鮎川さんから撮影の内容や衣装についてリクエストされたことはありますか?
ひとつもないです。演じる作品で、原作があるものに関しては絶対的なこだわりがあるけど、それ以外の自分を世に出すときには、何もこだわりがなくて。衣装も写真の選定も「おまかせします」と。
ロケ地が箱根なのも、スタッフさんからの提案ですか?
そうです。僕は「はい!」ってイエスマンでした(笑)。

撮影は大変でしたね、天候があまりよくなくて。毎日雨が降って、やんだら撮って、そのあと曇る、みたいな。天気予報では晴れてたのに、撮影日が近づくと曇りの予報がずれ込んできたり。普段は晴れ男なんですけど、「鮎川雨」に改名しようかなって思ったくらい(笑)。
それは晴れ男だという鮎川さん史上では、珍しいことですよね。『LinQ』というタイトルは、どのように決まったのでしょうか?
タイトルは僕から提案しました。僕は「縁」をいちばん大切にしているんです。写真集を出せるのもファンの方々あってこそだし、仕事ができるのも、関わってきたスタッフさんや事務所のおかげ。過去の経緯がすべて“つながって”今になっている、というところから決めました。
『Link』ではなく、あえて4文字目を「Q」にしているのは?
おしゃれになるから? ……いや、「自分への問いかけ」っていうことにしておきます!(笑)
舞台挑戦から10年目。ご自身も次のお誕生日で30歳を迎えられますが、お仕事をするうえで大事にされてきたことは何でしょう?
以前は作業のように考えていたんですけど、今は1つひとつに価値を見出して、「しっかりやり遂げる」ということをつねに意識してますね。全部なあなあになってしまうと、何も得られないので。

あとは人が大好きで、ご縁が多い世界でもあるから、人との関わりを大事にしたいなって。人間だから嫌いな人もいるんですけど、僕、嫌いな人ほど仲良くしようとする傾向があって。
それはスゴいですね。
前に「あいつ嫌い、ないわー」って家で話してたら、母が「またまた。どうせ仲良くなるんでしょ」って。言われてみると、たしかにそうなんですよ。最初嫌いだったヤツのほうが、普通に仲良かったヤツよりも仲良くなる。それが理解できてからは、嫌いな人のところにも行くようになりました。
「嫌い」というより、「気になる」ということだったんですね。
そうかもしれませんね。だから今は、人に対して偏見はもたないようにしています。何があってもすべて受け入れるし、たとえ賞味期限が切れたものでも食べる!(笑)

鮎川太陽をもっと知りたい! 一問一答コーナー

「やっぱり」。あと「全然」もよく言いますね。
チャームポイント…。目かな?
舞台を拝見していると、脚の長さも印象的です。
脚もよく言われますね。高校生の頃は、長い長いって言われてるだけだとアレだなと思って、キックボクシングをやってました。アクションにも使うから蹴りをキレイに見せたくて。
カーボンのヒーター。ずっと電気ストーブだったんですけど、電気代が高くて買い換えたんです。

ある稽古場でスタッフさんが持ってきてくれた遠赤外線のヒーターを「ぽかぽかするな、これいいな…」って、ずっと思ってて(笑)。それでこの冬に買いに行きました。ファンヒーターの比じゃないくらいあったかい!
少年マンガばっかり読んでますね。『BLEACH』とか『NARUTO-ナルト-』とか『HUNTER×HUNTER』。
ずっとベッドにいますね。出たいのに、出られない(笑)。ベッドの上でゲームするし台本読むし、テレビも観るし。以前はソファしか置かなかったんです。ベッドはなかった。
えぇ!?
ひとり暮らしですが、実家で寝ることもできるので。だから自分の家では「俺は仕事に生きるんだ、ベッドはいらない!」と(笑)。でも全然疲れが取れないなと思ってベッドを置いたら、もう離れられなくなりました(笑)。
よく言うのは「大和撫子」。受け入れてくれる、器の大きい人が好きです。もうひとつは、尊敬できる人。尊敬できないと、俺はたぶんダメなんですよね。あとは、気を使える人かな。

この中なら、リスペクトできることがいちばん大事で。仕事に対しても、「自分がこれをしたいから、ここにいるんだ」っていう意志を持っている人が好きですね。
最近は寂雷先生のスタンプ!「涙目の患者(クランケ)」か、「余儀はない 私は揺るがない」のどちらかです(笑)。
(即答で)オムライス! 母が作ったオムライスですね。それ以外は食べません。
何か隠し味が入っているとか?
わからない(笑)。でも、ウマいんです!
鮎川太陽(あゆかわ・たいよう)
1991年1月18日生まれ。東京都出身。B型。2001年からアイドルグループの一員として活動し、2004年にはドラマ『3年B組金八先生』第7シリーズに出演。所属事務所を移籍後、2011年からは舞台を中心に活躍。主な出演作に舞台『機動戦士ガンダム00-破壊による再生-』、『最遊記歌劇伝』シリーズ、『プリンス・オブ・ストライド THE LIVE STAGE』シリーズ、舞台『黒子のバスケ』シリーズ、ゲーム『アルゴナビスfrom BanG Dream! AAside』など。1st写真集『LinQ』が発売中。

サイン入りポラプレゼント

今回インタビューをさせていただいた、鮎川太陽さんのサイン入りポラを抽選で3名様にプレゼント。ご希望の方は、下記の項目をご確認いただいたうえ、奮ってご応募ください。

応募方法
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受付期間
2020年5月8日(金)18:00〜5月14日(木)18:00
当選者確定フロー
  • 当選者発表日/5月15日(金)
  • 当選者発表方法/応募受付終了後、厳正なる抽選を行い、個人情報の安全な受け渡しのため、運営スタッフから個別にご連絡をさせていただく形で発表とさせていただきます。
  • 当選者発表後の流れ/当選者様にはライブドアニュース運営スタッフから5月15日(金)中に、ダイレクトメッセージでご連絡させていただき5月18日(月)までに当選者様からのお返事が確認できない場合は、当選の権利を無効とさせていただきます。
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