サッカージャーナル編集部です。先週のアトランタ五輪プレイバック:「28年の壁」をこじあけた日本、そして「マイアミの奇跡」に引き続き、元川悦子氏によるオリンピック過去3大会の振り返りコラムを掲載いたします。今週は、シドニー五輪についてのプレイバックです。

記事提供:
速報サッカーEG http://sp.soccer24.jp/


◆赤鬼・トルシエと若きタレント集団との格闘。〜シドニー五輪代表立ち上げからワールドユース準優勝、1次予選突破まで〜

 1996年アトランタから2012年ロンドンまで5大会連続で五輪出場を果たした日本サッカー界だが、過去4回で1次リーグを突破したのは1回しかない。中田英寿(当時ローマ)、柳沢敦(当時鹿島)、中村俊輔(横浜FM)、宮本恒靖・稲本潤一(ともに当時G大阪)ら傑出した才能がズラリとそろった2000年シドニー五輪代表である。

 このタレント軍団は、2002年日韓W杯を率いたフランス人のフィリップ・トルシエ監督が1から積み上げたチームだった。トルシエは軍事教練のような練習を課したり、選手を怒鳴りつけるなど、植民地主義者のような振る舞いをする「奇人」であった。しかし、ユース→五輪→A代表と順序立ててチームを作る手腕には長けていた。シドニー五輪本大会の代表も楢崎正剛(名古屋)、森岡隆三(当時清水)、三浦淳宏(当時横浜FM)というオーバーエージ3人を加えた「事実上のA代表」。指揮官が狙ったメダルは取れなかったが、その成果は翌月の2000年アジアカップ(レバノン)で優勝という形になって表れた。下から土台をしっかり作ることの重要性を彼は示したのである。

 とはいえ、トルシエのチーム作りは波乱含みのスタートだった。そもそも彼は欧州で目立った実績がない。アフリカでは「白い呪術師」と呼ばれたものの、手腕が未知数なのは確か。そんなフランス人にいきなり「規則」と「規律」を強要され、「フラット3」という未体験のシステムを叩き込まれた選手たちは驚きと戸惑いを隠せなかった。

 そんなやり方をされれば、反発が起きて当然だ。いきなり不穏な空気が流れたのが、最初の国際大会となった1998年アジア大会(タイ・バンコク)だ。韓国、クウェートなど強豪ぞろいだった2次リーグで敗れたこともあり、本職のトップ下ではなく左サイドに回された中村俊輔が不満を露にした。さらに1998年フランスW杯出場経験のある小野伸二(当時浦和)も意味不明の途中交代を繰り返され「これまで自分がやってきたサッカーを削り取られる気がする」と爆弾発言。選手たちの指揮官への不信感は一気に高まった。

 このトルシエが1999年4月のワールドユース(ナイジェリア)を目指していたユース代表監督を兼務するすることが決まったのだから、小野や高原直泰(当時磐田)らの戸惑いは容易に想像できる。そんな選手たちの感情などお構いなしに、トルシエは自分流を推し進めていく。1998年秋のアジアユース(タイ・チェンマイ)ではボランチで活躍した酒井友之(当時市原)を右アウトサイド、攻撃的MFだった本山雅志(鹿島)を左アウトサイドへコンバートしたのを皮切りに、大胆な選手起用を次々と見せたのだ。ボランチが本職の中田浩二(鹿島)を左ストッパーに据え、アジアユースではBチーム扱いだった小笠原満男(鹿島)と遠藤保仁(当時京都)をレギュラーに抜擢するなど、斬新な采配にはみなビックリさせられた。

 赤鬼によって再構築されたチームはナイジェリアで快進撃を見せる。1次リーグはカメルーン戦での逆転負けから始まったが、続くアメリカ、イングランドに連勝して1位通過を果たす。ラウンド16以降はポルトガル、メキシコ、ウルグアイに劇的な勝利を重ね、気づいてみればファイナリストになっていた。ムードメーカーの播戸竜二(当時G大阪)がトルシエの物まねをしてチームを盛り上げたり、指揮官が彼らを孤児院に連れて行ってアフリカの貧しい子供たちの実情を伝えるなどピッチ外での交流も進み、トルシエと選手たちの間のわだかまりも完全に消え去っていた。決勝ではシャビ(バルセロナ)率いるスペインに0−4の完敗したものの、2位という結果に彼らは大きな自信を得た。

 帰国後の取材対応で小野が「この監督の下でならやっていける」と言い切るなど、彼らには強い信頼関係が生まれた。トルシエもナイジェリア組への寵愛を隠さなかった。となれば、宮本、柳沢、中村俊輔ら年長者グループもウカウカしてはいられなくなる。双方のライバル意識の高まりもチームにいい相乗効果をもたらした。

 そのエネルギーが爆発したのが、1999年6〜7月に行われたシドニー五輪1次予選だ。香港ラウンドでは初戦のフィリピン戦を13−0で圧勝したのを皮切りに、ネパールに5−0、マレーシアに4−0、そして香港に4−1と圧倒的な力を示した。トルシエは毎回のようにメンバーを入れ替えるだけでなく、動きが悪ければすぐに下げ、試合中でも怒鳴りまくる。オーバーアクションともいえる行動で選手に刺激と危機感を与え続けたのだ。

 その際たる例がマレーシア戦である。まず動きの悪かった稲本がわずか22分で下げられ、ハーフタイムには中村俊輔が衆人環視の中で罵倒された。「お前らの負ける顔が見たいよ。自分勝手なプレーをするんじゃない。だったら1人で25点取ってこい!」と凄まじい勢いで罵られた俊輔は、目を真っ赤にしながら後半を戦っていた。

 俊輔がターゲットになったのは、彼がトップ下のポジションへの強いこだわりを隠さなかったからだろう。1次予選前のJヴィレッジ合宿でも「俺はクロスマシーンじゃない。左サイドをやるくらいならマリノスに帰った方がまし」とまで発言していた。にも関わらず、トルシエがトップ下で起用するのはナイジェリアで日本を準優勝に導いた男・小野伸二だ。2人は絶妙のハーモニーを奏でていたが、どうしても俊輔は納得できない。トルシエはマレーシア戦のハーフタイムにそんな10番を諌めるつもりだったのだろう。この時は俊輔が引く格好になったが、この火種はずっと残り、最終的に2002年日韓W杯のメンバー落選につながってしまう。当時の彼はそんなことは知る由もなかったが……。

 香港ラウンドでは、もう1つ大きな出来事があった。エースFWと見られた柳沢が4試合ノーゴールに終わったことだ。負傷で辞退した高原の代役として招集された吉原宏太(当時札幌)や平瀬智行(当時鹿島)が次々とゴールを重ねる傍らで、柳沢はチャンスを外しまくった。本人は「自分が点を取らなくても、チームとして点を取って勝てればそれでいい」という定番のコメントを繰り返していたが、重圧を感じていたのは間違いない。

 その柳沢が日本ラウンド初戦・ネパール戦でやっと得点を挙げた。日本は9−0で勝利し、本人もようやくプレッシャーから解放されたのだろう。その晩、彼は羽目を外しすぎてしまう。当時交際中だった女性タレントの梨花と合宿を抜け出して食事に行き、その姿を写真週刊誌に抑えられ、クラブへ強制送還されてしまったのだ。2日後のマレーシア戦に彼の姿はなく、チームも物々しい雰囲気に包まれた。が、南米選手権(パラグアイ)のためにチームを離れていたトルシエに代わって五輪代表を率いていた山本昌邦ヘッドコーチが何とか選手たちを試合に集中させ、4−0で勝利。チームは窮地を乗り越えた。

 次の香港戦に2−0で勝って最終予選進出が決定し、7月4日の1次予選最終戦・フィリピン戦は消化試合となった。通常なら主力を休ませ、出場機会の少なかった選手にチャンスを与えていいはず。しかしトルシエは主力の出場にこだわった。代表は活動できる期間が限られているから1試合もムダにしたくないという思いがあったのではないか。

 その思惑が裏目に出て、まさかの「悲劇」が起きてしまった。

 東京・国立競技場は蒸し暑く、生温い空気に包まれた。いくら若い選手たちでも、中1日のゲーム4試合も2度も続けたら、疲労がたまるのは当然のことだ。そんな最中の前半31分、小野がフィリピンのDFの強引なタックルをまともにくらった。苦渋の表情を浮かべ倒れ込む彼は微動だにしない。そのままタンカで運ばれ、スタジアムを去っていった。

 翌日、発表された診断結果は「左ひざ内側側副じん帯断裂」。全治3カ月の重傷だった。これで10〜11月の最終予選は出場不可能となり、小野を攻撃の中心に据えてきたチームに大きな誤算が生じてしまう。トルシエも頭を抱えたに違いない。しかし、彼はそこで引き下がる男ではなかった。選手たちも脅かせるような大胆な手を打ったのだ…。

◆中田英寿合流で起きたチームの化学変化 孤高の人に認められた中村俊輔

 小野伸二(当時浦和)の左ひざ内側側副じん帯断裂から1カ月半が経過した8月末。トルシエ監督率いるU−22日本代表が再びJヴィレッジに集結した。久しぶりの合宿で選手たちが意気揚々としていると思いきや、どこか不穏なムードが流れていた。それもそのはずだ。フランス指揮官がイタリア・セリエAのペルージャで活躍する中田英寿を招集する決断を下したことで、多くの選手が「この先、どうなるんだろう…」と不安を抱えていた。

 その筆頭が中村俊輔(横浜FM)だ。桐光学園時代にベルマーレ平塚の練習に参加した際も、98年2月に岡田武史監督率いる日本代表のオーストラリア合宿で初招集された時も、俊輔は中田に相手にされなかった。話し掛けられることもなく、親しく接してもらえなかった。その記憶が強烈過ぎたのか、「ヒデさんが来るとチームの和が壊れるかもしれない」と発言。突出した人間の合流を恐れていた。酒井友之(当時千葉)も「僕は自分から打ち解けられる性格じゃないし…」と困惑し、平瀬智行(当時鹿島)も「ヒデさんのパスは厳しそうですね」と顔を曇らせる。“孤高の人”はチームを壊しかねないほどの多大なる影響力を持っていた。

 それでもトルシエは小野不在のチームに彼が必要不可欠だと判断。9月の韓国との親善試合(東京・国立)で初招集した。しかし年下の選手とのコミュニケーションが苦手な中田は自分から溶け込もうとしない。そんな彼と若手の橋渡し役を務めたのが、キャプテン・宮本恒靖(当時G大阪)だった。93年U−17世界選手権(日本)をともに戦った頃からこの男を知る同い年の宮本は、積極的に話しかけ、パス回しに参加させるなど、献身的にサポートして見せた。その努力が功を奏し、中田はいきなり強烈な存在感を発揮することに成功する。

 この日韓戦での中田のパススピード、正確なキック、シュートへの意欲は間違いなく「異次元の世界」だった。1ランクも2ランクも上のパフォーマンスを目の当たりにした選手たちは目が覚める思いだったに違いない。加えて、トルシエが採った中盤の構成も成功した。稲本潤一(当時G大阪)と遠藤保仁(当時京都)のダブルボランチを中田の後ろに並べ、右に酒井、左に中村を配置する形は予想以上に機能。永遠の宿敵に圧勝し、最終予選に向けて大きな手ごたえを得る。「中田合流でチームが崩壊するのではないか」という危惧は瞬く間に氷解し、トルシエも選手たちも大きな自信を手にした。

 翌10月から最終予選がスタート。カザフスタン、タイと同組に入った日本は、1位にならなければシドニー五輪切符を得られない。「アジア3枠を全て日本が取れる」とさえ言われていたタレント集団だけに、普通に戦えば全く問題ないと見られたが、やはりどんなトーナメントでも入りは難しい。しかも99年10月9日の初戦はアウェー・カザフスタン戦。決戦の地・アルマトイはこの2年前、98年フランスW杯出場を目指していた日本代表がアジア最終予選を戦い、加茂周元監督が更迭されところである。終了間際の同点弾に若かりし日の川口能活(当時横浜M)が「バッカじゃないの」と吐き捨てた因縁の場所で、若きジャパンがどう戦うか注目されたが、選手たちは動じなかった。ピッチの悪さなど環境に気後れすることなく、まず中田が前半のうちにミドルシュートで先制。終盤にも中田のCKから稲本が追加点を奪い、2−0でしっかりと勝ち点3を得たのだ。

 続く17日に行われたタイとの第2戦(東京・国立)は、初戦快勝の原動力となった中田が不在。その影響もあり、やや厳しい序盤を強いられた。相手のベタベタのマンマークに苦しみ、思うようにゴールを奪えない。前半を0−0で折り返した時には、スタジアム全体が嫌なムードに包まれた。しかし後半開始早々、平瀬が貴重な先制点を奪う。不振の柳沢敦(当時鹿島)がメンバー落ちを強いられる中、高原直泰(当時磐田)と2トップを組んだ彼は、最終予選を通じて大ブレイクした。この日の2点目も彼がもたらしたものだった。そして高原が3点目をゲット。この五輪代表では負傷続きで出遅れていた黄金世代のエースも、このゴールでようやく覚醒した。結局、日本は3−1で勝利したが、タイとの実力差は明らかだった。日本の若年層の目覚ましい成長を印象づけた彼らは、シドニー行きに王手をかけた。

 迎えた11月6日の第3戦・タジキスタン戦(東京・国立)は五輪連続出場の懸かる大一番。トルシエは再び中田を呼び戻し、満を持して大勝負に挑んだ。

 実はこの試合直前、中村俊輔は祖父の死に直面していた。が、大事なゲームがあり、合宿を離れるわけにはいかない。いつも自分を理解し、応援してくれた祖父のために、どうしても目に見える結果を残さなければいけない。誇り高きファンタジスタは、普段にも増して闘志を燃やしてピッチに立った。

 だが、日本は信じられないことに、前半のうちに先制を許してしまう。GK曽ヶ端準(鹿島)が精いっぱい伸ばした手も届かず、0−1のビハインドを背負ったまま、折り返すことになる。その展開に中村はいら立った。

「このままじゃ、最終戦のアウェー・タイ戦で予選突破を決めることになってしまう。そんなの嫌だ」と彼はハーフタイムに強く思ったと言う。トルシエも1次予選・香港ラウンドにおけるマレーシアのように、凄(すさ)まじい勢いで彼らを鼓舞してきた。そんな指揮官に力を見せつけるためにも、もはや逆転するしかない。

 後半途中、トルシエはもう1つの手を打った。この日は控えに回っていた高原を切り札として投入。高原・平瀬の2トップに変更した。そして1・5列目に中田を置き、左サイドに入っていた中村をその後ろの真ん中に移動させたのだ。この「超攻撃的布陣」がズバリ的中し、平瀬がゴール。ついに同点に追いついた。

 そこからは中村のワンマンショーだった。終盤の逆転ゴールは、中村の超ロングパスを平瀬が合わせたものだった。その視野の広さ、精度と技術の高さは俊輔ならでは。本人もこれまでやったことのないほど派手なガッツポーズをして見せた。

 終了直前の3点目は彼のFKから生まれる。中田がいる場合は通常、キッカーは彼だったのだが、この時は「お前が蹴れ」と譲られた。高校生の頃からまともに話もしてもらえず「孤高の人」に認められたのは、俊輔にとっても望外の喜びだった。だからこそ、このキックだけは一発で仕留めなければならない。次の瞬間、彼の左足から放たれたボールはゴールネットを確実に揺らしていた。

 祖父に最高のはなむけとなるゴールを決め、さらには予選が始まってから悶々(もんもん)とし続けていたトルシエとの確執にも1つの答えを出した俊輔。さすがの彼も試合後のヒーローインタビューでは目を真っ赤にした。これが大観衆の感動を呼び、聖地・国立には「シュンスケ」コールがこだまする……。この数年後に日本代表のエースナンバー10を背負うことになる彼は、このシドニー最終予選でまた一歩、確実に階段を駆け上がった。

 劇的な逆転勝利でシドニー五輪出場を引き寄せた若きジャパン。消化試合となった第4戦、アウェー・タイ戦も確実に勝利し、4戦全勝で危なげなく最終予選を突破した。今回のロンドン五輪を含めて過去5会の五輪代表を見てみると、予選で全勝したのはシドニーだけだ。それだけ彼らがずぬけた実力を誇っていたということだ。そんなタレント集団には当然、メダルの期待がかかる。「1968年メキシコ五輪銅メダルを上回る結果を残せるのではないか」という声も高まった。トルシエ自身もそれを実現できると思っていたはずだ。しかし、現実はそう甘くはなかった…。

◆1次リーグの快進撃もむなしく、中田のPK失敗でアメリカに敗れ8強で散った日本

 最終予選から本大会までは10カ月の時間があった。トルシエは2000年から五輪世代の多くをA代表に引き上げ、2002年W杯の土台を着々と築いていた。23歳以上のオーバーエイジ枠使用もすぐに決断。8月には本大会登録18人が明らかにされた。楢崎正剛(当時名古屋)、森岡隆三(当時清水)、三浦淳宏(当時横浜FM)の23歳以上の3人が抜てきされたため、五輪世代からは15人だけ。最終予選の立役者である中田英寿(当時ローマ)、中村俊輔(横浜FM)らは順当に選ばれたが、1次予選・フィリピン戦での負傷から完全に立ち直っていなかった小野伸二(当時浦和)が落選。遠藤保仁(当時G大阪)や吉原宏太(現大宮)ら4人が補欠に回った。

 1次リーグは南アフリカ、スロバキア、ブラジルと同組。2位以内に入らなければ決勝トーナメント進出は果たせない。序盤2戦を確実にモノにする必要があった。

 南ア戦、スロバキア戦は豪州の首都・キャンベラで行われた。南半球の9月は真冬。真夏の日本からやってきた日本代表にとってコンディション調整は確かに難しかった。そんな影響もあったのか、初戦・南ア戦は序盤から押し込まれる展開となった。31分には失点を喫し、ビハインドも背負った。が、豊富な国際経験を持つ選手たちは簡単に折れなかった。

 前半終了間際、中村の精度の高い遠目からのFKを高原直泰(当時磐田)が押し込み、1−1で折り返すことに成功する。この1点がチームに勇気を与え、後半34分に決勝点が生まれる。左を突いた中田英が中央のスペースにスルーパス。これに高原が反応し、確実に2点目を奪ったのだ。

 2−1の逆転勝利から大会をスタートできた日本。次のスロバキアに勝てば、1次リーグ突破が濃厚になる。トルシエは右サイド・酒井友之(当時市原)に代わって三浦淳宏を先発起用。その三浦がリズムを作った。前半は0−0だったが、後半に入ると指揮官は柳沢と酒井を交代。中田英を1・5列目に上げ、中村をトップ下、三浦淳を左サイド、酒井を右サイドに入れる大胆な采配を見せる。これがはまり、後半22分に三浦からのクロスに中田英が頭で合わせてゴール。ついに均衡を破る。7分後には中央をドリブルで持ち込んだ高原からパスを受けた稲本潤一(当時G大阪)が2点目を挙げた。終盤にミスから1点を失ったものの2−1で勝利。これで予選突破決定かと思われたが、ブラジルが南アに敗れたことで、全ては第3戦に持ち越された。

 ブリスベンにおけるロナウジーニョ(当時グレミオ)やアレックス(当時フラメンゴ)を擁するブラジルとの決戦を控え、日本は大きな問題に直面した。中田英と森岡という攻守の要が出場停止になったのだ。森岡の代役は最終予選のキャプテン・宮本恒靖(当時G大阪)がいるから良かったが、問題は中田英のトップ下。トルシエは左サイド起用にこだわってきた中村俊輔の抜てきを決意する。

 チーム発足以来、ポジションに強い不満を抱いていた中村にとって、これは千載一遇のチャンスに他ならなかった。この試合で世界に通用するところを見せれば、頑固な赤鬼の考えも変わるかもしれない……。そう意気込んでピッチに立った彼だったが、開始早々、相手エース・アレックスに先制点を奪われ、焦りと困惑を覚えた。

 早い時間帯にリードしたブラジルは余裕を持った戦いぶりを見せる。俊輔は自由にボールを持てず、創造性も発揮しきれない。いら立ってサイドに流れてはみるものの、やはり相手のゴール前は堅い。ここまで2戦で見せたような流れるような攻撃が影を潜めた日本は、スコアこそ0−1だったが、ブラジルに完敗を喫することになった。「ヒデさん、ダメでした」。

 試合終了直後、俊輔が中田英に言ったのはこのコメントだったという。トルシエは本人には何も言わなかったようだが、これを機に彼をトップ下で使う機会がめっきり減ってしまう。このブラジル戦のアピール失敗も、2002年日韓W杯落選につながる大きなターニングポイントになったといえる。

 痛い黒星を喫したが、何とかグループ2位を確保。ついに決勝トーナメント進出を決める。しかも準々決勝の相手が優勝候補のスペインでもナイジェリアでもないアメリカだったから、トルシエも選手たちもトルシエも喜んだに違いない。「フィジカルに強いアメリカは要注意」と見る者はいたが、日本の4強入りは実現可能だった。

 決戦の地・アデレードは、1998年2月にフランスワールドカップへ挑む岡田武史監督率いる日本代表がキャンプを張った土地。ハインドマシュ・スタジアムは、柳沢敦(当時鹿島)が記念すべき国際Aマッチデビューを飾った思い出の場所だ。1次リーグでノーゴールだったからこそ、今度こそ結果を出したいと本人も意気込んでいたはずだ。

 2000年9月23日の現地はよく晴れ、18時30分のキックオフ時の気温18度と絶好の条件に恵まれた。日本の先発はGK楢崎、DF森岡隆三、ボランチ・稲本潤一、左サイド・中村俊輔、トップ下・中田英、2トップに柳沢と高原という最強布陣。4−4−2のアメリカはFWウォルフ、攻撃的MFオルブライトらに警戒が必要だった。

 前半は相手のプレスもそう厳しくなく、日本は主導権を握ぎれた。中田英や俊輔がボールを持つ時間も多く、何度か決定機も作れた。森岡率いる日本のフラット3も完成度が高く、簡単には破られなかった。

 そして30分、日本は待望の先制点を挙げる。俊輔のFKが相手に当たり、彼は再びクロスを入れる。これに反応したのがファーサイドにいた柳沢。ヘッドをたたき込んだ彼は派手なガッツポーズを見せつける。1次予選での規律違反、最終予選での不振を乗り越えた彼は喜びを爆発させたかったのだろう。

 1−0で折り返した後半、アメリカは4−3−3に変更し、サイド攻撃を徹底してきた。前半から左の中村が上がることで、右の酒井は大きな守備負担を強いられていたが、その負担は一層重くなる。中村の方も運動量の多いアウトサイドで体力消耗が著しかった。そこでトルシエは三浦淳宏(現神戸)を入れ、三浦を左、中村をトップ下、中田英を前線に移動させたが、すぐに流れを引き戻せない。そして後半23分にウォルフに同点弾を決められてしまう。

 それでも屈しないのがタレント軍団の日本だ。同点弾から4分後、酒井が力を振り絞って深い位置まで上がり、折り返したマイナスのボールをエリア内に詰めていた中村が受けてゴール前に浮き球のパスを送る。これを合わせたのが1次リーグ2得点と絶好調の高原。2トップそろい踏みで日本はベスト4進出に王手をかけた。
 残り時間は15分。これを耐えればメダルの可能性は一気に高まるはずだった。しかし右サイドで奮闘していた酒井の体力は限界に達していた。アメリカは肉弾戦を仕掛けてきて、日本は5バック状態を余儀なくされる。守備崩壊は時間の問題だった。そんな時、楢崎が鼻骨骨折の重傷を負ってしまう。そして後半終了間際、酒井がウォルフをエリア内で引っ掛けた。レフリーは無情にPKを宣告。これを10番のベガナスに決められ、延長戦突入を余儀なくされたのだ。

 しかし日本に余力はなかった。選手たちはもはや満身創痍(そうい)。気力だけで戦っている状態だった。何とか相手の猛攻をしのいで、PK戦にもつれこんだ時はラッキーだと感じた選手もいたかもしれない。

 ところが、守護神・楢崎は鼻骨骨折をしたままプレーを強行。通常の状態ではなく、1つもシュートを止められなかった。先行だった日本は俊輔、稲本、森岡が成功し、4人目の中田英のシュートが左ポストを直撃ししてしまう。全ての希望がついえた瞬間、中田英はうすら笑いを浮かべ、俊輔は下を向いたまま足早に去っていった。これだけの才能が集まりながら、4強にも進めないとは……。実に後味の悪い結末としか言いようがなかった。

 今回のロンドン五輪代表も、当時のシドニー五輪代表に匹敵するほどの攻撃タレントをそろえている。もしも香川真司(ドルトムント)や宮市亮(ボルトン)ら最強メンバーをそろえられるのなら、関塚隆監督が言う「メダル獲得」も現実味を帯びてくる。しかしながら、五輪本番の相手はスペイン、モロッコ、ホンジュラスという強豪ばかり。1次リーグを突破してメダルまで勝ち進んでいくことがどれだけ難しいかを、12年前のタレント軍団が如実に物語っている。トルシエという土台作りの名人と、個性あふれるメンバーが成し遂げられなかったことを、関塚監督と現在の若手が果たしてくれるのか……。きっと若い選手たちは当時のことを覚えていないだろうが、中田や俊輔が戦っていた当時をあらためて振り返ってほしい。そして何をすべきかを今から真剣に模索してもらいたい。


記事提供:
速報サッカーサッカーEG
http://sp.soccer24.jp/