プロレスに憧れたひとりの少年が、紆余曲折を経て本当にプロレスラーになった末、ロボット専用アパレル事業を始めるまでの話。

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「脈略はないんですよ。人生に脈略はなくて、その瞬間その瞬間にやりたいことって人間あるじゃないですか。それを一生懸命ただやり抜くだけ、みたいな感じでここまで来ました」と泉幸典さん。「こぼれ話」にしておくにはもったいない、熱い半生をどうぞ。

―泉さん、プロレスラーだったんですか…?
 プロレスの話は小学校3年生ごろにさかのぼります。プロレスブームが来たんですよ。金曜日の夜8時、ゴールデンタイム。タイガーマスクとか、長州力が全盛期のときでした。学校中でブームだったからあのときは同級生みんながプロレスラーになりたいっていう、そういう時代でした。でもみんな大人に常識を教えられて、変わっていくじゃないですか。僕はそれが変わらなかった。ていうか実は僕、当時プロレスを見たことがなくて。5歳のときから剣道とか居合道とか、武道をずっとしていて、放課後は毎日道場にいて、テレビを見れなかった。
―まさかの、見たことないパターンですか。
 でも学校中でプロレスがブームなわけじゃないですか。イメージだけで、「すごいかっこいいなあ!」と。週に一回、本屋さんに行って「週刊プロレス」を見て、止まってる写真のプロレスラーを見て、妄想で「このスピードで、こんな感じで、技をかける!」っていうのをずっとやってました。その中でもタイガーマスクという存在にすごく憧れて。コスチュームもあるし、かっこいいじゃないですか。覆面してるし。普段は普通の人で、マスクをかぶっているときだけ強くなる。僕にとっては現実にいるヒーローだったんです。「仮面ライダー」とか「ウルトラマン」は特撮だっていうのが子どもながらに分かったけど、タイガーマスクは実在した。その憧れてた気持ちは中学生になっても全然変わらず、自分はプロレスラーになれるんだと思い込み、まあ、中学生にもなれば、ばかにされるじゃないですか。笑われて終わるみたいな。でも僕は小中高、自分でトレーニングをし続けて。百科事典とかで。
―百科事典?
 当時、ダンベルとか持ってなかったんで。あるじゃないですか、家に百科事典。こっちの手に「昆虫大百科」。こっちには「動物のすべて」。そうやってダンベルがわりにしてました。二段ベッドの手すりの棒を抜いて、両側に新聞紙をビニールテープで巻き付けてバーベルにしたりもしてましたね。それを小学校、中学校と続けて鍛えて…鍛えてたって言えるんですかね?(笑)汗だくになりながら…ガリガリでした。それで、高校3年生のときに進路希望の話になるじゃないですか。そのときに、受験の一環としてプロレス団体の入団テストも受けました。
―本当に受けたんですね。
 プロレス団体には書類で落とされて、いたしかたなく高校に進学した感じです。それで高校3年生になって、大学進学のときに、また大学受験の一環としてプロレス団体を3つくらい受けて、それもあえなく落ちました。
―落ちる理由って分かっていたんですか?
 当時は身長が185cm以上とか、決まってました。今はないと思いますけど、その時は185cm以上だった。僕は身長が171cmしかないので、でも全く気にせずに、「ちっちゃくても特殊な才能を持っていればいける」と。自分は特殊な人間だと思い込んでたので(笑)身長は苦労と努力でカバーできると思って、今度は大学4年生になったときに就職活動の一環として団体のテストをいっぱい受けました。僕が大学生の頃には、小学生のときよりもプロレスの団体が増えてたんですよ。ゆえに、開く門が多くなるじゃないですか。「プロレスラーになる可能性がどんどん広がっている!!」としか思わなかったです(笑)こちらからすると小学校から目指してること変わらないわけですから。で、大学のときも全部入団テスト落ちて、結局普通のサラリーマンになるんですよ。
―何の仕事をされていたんですか?
 デパートのショーウィンドウを作る、マネキンの会社です。空間ディスプレイの仕事をしてました。
―なぜプロレスからの空間ディスプレイに?
 自分で何かをクリエイティブに生み出してそれを価値として提供できる仕事だったら楽しいなあと。その空間ディスプレイの仕事にいながらも、やっぱりプロレスが諦められなくて、年に一回入門テストを受けに行き続けてました。それで26歳、会社員4年目のときに福岡でプロレス団体が旗揚げされたんです。その団体を受けに行ったら、テストに受かった。それで脱サラして、26歳にしてプロレス団体に入門。だいぶ遅いんですよ。26歳っていったらもう普通は引退の年です。
―まさに初志貫徹…。受かった理由は何だったんでしょう。
 入門テストは、僕のときは確かスクワット2000回、インターバルなしで腕立て伏せ1000回、そのまま続けて腹筋1000回、そのまま2分のスパーリングを5回。基本ぼろぼろにするのが目的なんで、それをやり遂げさせるのが目的ではないんですよね。プロレスの厳しい世界の中で、今後こいつがやっていけるかを見てるだけで、そのものが課題じゃないっていうのがあとで分かるんですけどね。
―泉さんがぼろぼろになったときに、何かを見出されたんですかね。
 試験官からは常に「あきらめるか」「もうやめるか」っていうのばっかり聞かれるんですよ。体が動かなくなる、スクワットができなくなる。もうやめるのか、どうするのか、と言われるから、限界が来たら「すみません、もうできないです」とやめるでしょ。自分であきらめさせる決断をさせてるんですよ。僕は当然、そんなハードな課題なんてできないんですよ。筋肉がないから。体が動かなくなって、「もうどけ」と言われるけどぼくは動かなかった。やめるって言わなかった。「でもできてないから。腕立て伏せもう腕曲がってないから!」って言われるんだけど「できます」って。腕立て伏せの次はスパーリングじゃないですか。スパーリングはもう全身がけいれんを起こしてる感じなんですけど、それでもギブアップはせず、ボロ雑巾のようになって試験官に「どけ」「どけ」って言われても、「いやどきません」って感じでやってたら、何を言われても諦めない人は鍛えていけば一流になれるって思われたみたいで、採用。脱サラして、プロに行きました。
―憧れのタイガーマスクみたいに覆面をかぶったんですか?
 かぶりたかったんですよ。かぶるためにプロレス行ったんですけど…。脱サラして26歳でプロレスラーになったんで、脱サラした瞬間に、まだ練習生なのにテレビにいっぱい取り上げてもらったんです。会社も、辞める1ヶ月前には「やるんだったら頑張り」みたいになって。あと1カ月でサラリーマンを辞めるってときからテレビに密着されて。昼はサラリーマンで、夜は道場に練習に行って、来月には退職してプロを目指す26歳…みたいな特集番組が何回か作られたんです。そんな感じだから試合のときに、僕はまだ付き人の立場なんですけど、お客さんのおばちゃんとかが知ってるわけですよ。「テレビ見たよ、頑張りーね!」とか、言われてるうちにマスクかぶれなくなったんです。
―(笑)
 名前と顔が知られてしまったから、マスクかぶったら「なんでかぶったんよ!」ってなるんですよ。
―残念すぎます。
 マスクかぶらずに、衣装も、本当に下のクラスの試合だったんで、普通のじみーなものを履いてるくらいで。
―プロレスラーにはなったけどマスクをかぶる夢は叶わなかったと。
 そうですね。そんなプロレス生活を3年くらい続けて、けがをたくさんして。体が小さいので試合が終わったダメージが他の人より大きいんです。貰ったギャランティがほとんど体のメンテナンスに消えていきました。そうこうするうちに、「これ命削ってるだけだね」ってなって。スポーツ病院にずっと通ってたんですけど、その先生にも「もうすぐ下半身不随になるから、何を選択するのか考えて」って言われて。確かにしびれはあったんですけど、当時は筋肉があり過ぎてあんまり痛みを感じないんですよ。首の靭帯は切れてました。ぶちって。
―なんと。
 断裂はしてないけど切れてました。まばたきするのがすごく大変なんです。医者には靭帯が切れてるからだって言われるんですけど、気合で治るでしょ?って。
―気合で靭帯治りますかね?(笑)
 ほっといたら治るでしょ、って、その時代はほんとにバカやったから。
―今も体は鍛えてるんですか?
 今はなんにもしてない。目的があったから当時は頑張れたけど、それがなくなったら一切しないですね。今の僕は、もう豚バラ肉と焼き鳥でできてます(笑)脂身がだいぶ増えました。それでプロレスをやめて、ファイトマネーでしか飯食えてなかったので、やめたら次の日から生活できないじゃないですか。とりあえず福岡のハローワークに行って、「今日から働けるところで、家から通えるところで、給料が毎月もらえたらどこでもいい」みたいな。それが人間のためのユニフォームを作っている会社だったんですね。
―そこでユニフォーム。
 はい。そのユニフォームの会社が、ホテルとかレストランのスタッフのユニフォームを作るメーカーで。その会社に入ったのが17、8年前でした。
―えっ。あれ?
 はい。
―17、8年前ってことは…?
 僕、今年47歳です。
―全然見えない。30代って言われてもおかしくないです。
 なら、もうそのテイでいきます(笑)それで、そのユニフォーム会社に営業マンとして入って、9年くらい働いたときにリーマンショックが起こりました。業界全体が厳しい状況でしたね。そういう時期に僕が執行役員になったんですけど、不況もあってほとんど期待はされてない感じで。僕は執行役員になるなんて初めてだったから、マネジメントとかどうしたらいいのか分からなくて、それで「本読んで映画見て、人に話聞きに行ったらなんか分かるやろ(※泉さんは京都出身)」と思って、それを半年間くらい続けました。そこでたくさん本を読んだんです。ビジネス書は苦手なので伝記を読んでました。もう伝記読んで、毎日泣いてばっかりですよ。
―(笑)
 で、会社の戦略とか、マネジメントとか結局なんにも分からないままなんですが、スターバックスの本と、ディズニーランドの本を読んでえらく感動したので、「こんな会社になったら素敵やん?」っていうことを仲間に話して、みんなでその本を読んで「いいねいいね」って盛り上がって。田舎だから、当時は誰もスターバックスなんて行ったことがなかった。「スターバックスってこんなんなの?値段が高いだけじゃないの?素敵ね!」って。ディズニーランドだって、当時福岡に住んでいた我々からしたら海外旅行と一緒でしたから(笑)そういう会社に憧れて、社員同士でうれしいことがあったらメッセージカードを書いたりとか、そういうことを始めました。社内のコミュニケーションと、文化みたいなものを1年かけて構築していったんですね。販売方法に関しても、取引企業がどんなビックネームであれ、人間同士の付き合いができないと思ったら取引をしないと決めました。あと基本的にはコンペには出ません、と決めた。もう1社あるけどコンペに出ませんか、って言われたら、もう1社あるんならそちらで作られたほうが多分いいです、うちは安くもないし、早くもないので、と言って断りました。
―簡単そうに聞こえて、そう簡単ではない決断ですね。
 その代わり、うちでしか買わへん、っていうお客さんは、小さい会社のお客さんでもそこは丁寧にやる。そうすると取引してるお客さんは減るんですけど、いいお客さんしか残らない。友達でいうと親友しか残らない。今度は親友の紹介で親友が増えてくだけなので。一瞬売り上げは落ちたんですけど、親友みたいな取引先しかいないので、高売り上げのお客さんばかりになって。そうしたら、リーマンショックのあおりを受けていた業績が、けっこう短い期間で回復したんですね。
―おお!
 そのとき僕は、不況の大変なときに苦楽を共にした仲間に、もっと良い景色を見せたいと思った。このエネルギーを使って、新しい世界を見たくないか?って話をして。それで仲間に相談したのが、海外での挑戦をさせてくれないかっていうことでした。うまくいくかどうか分からないけど、やってみたいんだと。
―ユニフォームを海外に広めるということですか。
 ただ、当時は会社としては、あまり賛成されていない部分もありました。なので僕がひとりで行動することも多くなったけど、部下たちは「泉さんのやることだから面白いに違いない」って、見守ってくれていましたね。まず僕は、誰も袖を通さないまま廃棄される予定だった服を、インドネシアやカンボジアに寄付することを始めました。でも僕は疑問を覚えた。寄付した洋服はNPO法人が受け入れ先になるので、タダで車とかジープに乗せて、孤児院とか病院とか、道無き道を片道4時間くらいかけて持って行ってくれるんですよ。僕はタダであげてるから良いことをしているつもりだったけど、その間にはタダで動いてる人がいっぱいいて、それって本当に幸せなんやろかと、疑問を持って。
―なるほど。
それで次に僕は、「現地の人に商いを覚えてもらおう」と思って。日本の会社が向こうに行くと、ミシンとか手芸を教えることが多いんですよ。でも、女性で主婦だから手芸、というのも単純すぎると思っていて。しゃべるのがうまい人もいるだろうし、管理がうまい人もいるだろうし、いろんな人がいる中で、僕は商いを教えようと思った。タダで渡した服を市場で10円とかで売るというやり方を覚えれば、そのあと食材にしろなんにしろ、どこかから安く仕入れて売るっていう商売ができると思ったんです。でもそれもうまくいきませんでした。現地で動いてくれる人もボランティア集団なので、なかなか商売を教えるのが難しい。そのあとも1、2年は服を送り続けたんですけど、結局売らずに自分で着るだけになってしまって。あげるだけだったら、世界中の企業がやっている。僕は限界を感じました。もっとやり方があるはず、と思ったときに、日本のトレンド落ちした商品を寄付するという上からの立ち位置が、そもそもおかしかったと気付きました。
―考え方に方向転換があったんですね。
 はい、逆の方向に行きましたね。今度は、日本の最先端のユニフォームを海外に紹介しよう、と思いました。僕が勤めていたその会社の製品の、約70%がメイドインジャパンだったんです。うちのユニフォームは技術力も高いけど値段も高かった。高いコストのものを、安いファストファッションが人気の日本で売っている、それがミスマッチじゃないかと。その頃、独学の勉強に行き詰まって、ビジネススクールに行き始めるんです。半年かそこらで辞めるんですけど(笑)
―はい(笑)
 机上の空論だけじゃだめだなと思って。でもそのビジネススクールで、シリコンバレーで日本のお茶を広めた伊藤園の角野さんという人のことを知ったんです。すでにその人は日本に戻ってきていたので、メールをしたら会ってくれたんです。それで僕は角野さんに言いました。「あなたの記事を見てすごく感銘を受けました。日本のお茶みたいに、あれだけ文化が違うものを広められるんだったら、ユニフォームでもいけると思います。なので僕は日本のユニフォームを広めにシリコンバレーに行きます!」と。
―そしたら?
 笑ってました。
―(笑)
 かなり笑ってました。かなり変人扱いされましたね。でもそういうふうにして知り合った人たちに良くしてもらって、今の僕は支えられてます。シリコンバレーに行く前には、現地にいる人にもメールしまくりました。
―どのくらいメールしたんですか。
 そのときで200人くらいですかね。「米国 日本人」って検索したら、インタビュー記事がたくさん出るんですよ。そこに出ている人を片っ端からSNSで調べて、メッセージを送るんです。その人の記事をちゃんと読んで、今度シリコンバレーに行くのでお時間いただけませんかというのを200人くらいに送った。そしたら6人くらい会ってくれた。その6人は今も仲良くしていただいて…今考えるとひまやったんかなあ?(笑)平日の昼間に。
―その人たちを頼ってシリコンバレーに。
 1カ月半くらい単身でシリコンバレーに行きました。そのときに会った6人のうちのひとりの男性がたまたま僕のことを気に入ってくれて、グーグルとかフェイスブックの本社を車で回ってくれるんですよ。僕は「ほんまもんや、ほんまもんや」って言いながら記念写真撮って。「あれっ、俺こんなことしに来たんじゃないわ」と。危うく写真撮って満足して帰りそうになったんですよ(笑)やばいやばいと。それでその男性に、「日本のユニフォームをアメリカで広めたい」と話したら、その人がたまたまつながっていたのが〇〇(巨大IT企業)の、親日家の〇〇さん(めっちゃ有名な創業者)で。
―諸事情あって記事には具体的に書けないですが、いきなり大物ですね。
 「私のプライベートレストランの執事のためにそのユニフォームを買いたいです」って言われました。ユニフォームを納入したら、「今後おまえがアメリカでユニフォーム事業をするんだったら、ビジネスパスポートとしてこの導入実績を使っていいぞ」って言われたんです。つまり、アメリカの会社と取引するときに、俺の名前を出せばアメリカが受け入れてくれるぞ、嬉しいだろ?ってことなんですけど、はあ…その実績はいつ誰に言うんだろう?って感じでした(笑)
―インパクトが強すぎて。
 そんなすごい人、僕から遠すぎて、信じてもらえないですよ。そういうことがあった次の日に、伊藤園の、角野さんとは別の宮内さんっていう担当者とサンフランシスコで会うことができて、「昨日こうこうで…」と説明したらびっくりされて「それはとんでもないですね」って。僕、いまだに英語が一切しゃべれないんですけど…
―てっきり、ぺらぺらなのかと!
 今も2カ月に1回くらいの頻度でアメリカに行ってますが、英語がしゃべれません。英語がしゃべれないので、実績を作るっていうことの難度が高いんですよ、当然ながら(笑)ほとんどジェスチャーと雰囲気だけでユニフォームを導入していくんですけど、それにも驚いたみたいです。
―ジェスチャーで実績を作る。
 あとは笑顔と、「オッケー」「イエス」ですね。たまに痛い目に遭いますけど、たまに。注文したものが2個出てきたりとか。でもそれ以外はだいたい良いことが起きます。それで伊藤園の宮内さんに「何人か呼べるだけ呼ぶんでちょっと待ってくださいね」って言われて、待ってたらサンフランシスコにいる4人の日本人を呼んでくれて。その4人っていうのが、日本のお惣菜をサンフランシスコで広めたパイオニアである「DELICA」の岩田さん、Evernote会長の外村さん、J-POPサミットのプロデューサー吉田さん、ロボットファッションショー(※記事本体に記載あり)でもお世話になっている東京カルチャーカルチャーの河原あずさんでした。実はシリコンバレーにお茶が広まったのは、そんな現地の「レジェンド」とも言うべき日本人がアイディアを出して、角野さんがフェイスブックとかグーグルのエンジニアにお茶の配布をして、プレミアを付けた結果だったんです。
―作戦を練るブレーンたちがいたと。
 そのレジェンドのメンバーに対して、「お茶の事例に刺激されてユニフォーム屋さんがこっちに来たんですよ」って紹介された。アホやなあ、って言われましたけど、「昨日〇〇に納入したらしいですよ」って聞いたら「エー!」って。それで「来た来た、久々に面白いヤツ来た!」みたいになって、じゃあおまえどこにユニフォーム入れたいねん、ってその場でぐいぐい聞かれて。でも僕そんなアイディアないんで(笑)完全にお茶と同じパターンで「名だたるIT企業のスタッフに着てほしいです」とか言って。そしたら「ああいう企業ってみんなTシャツでしょ。高いユニフォームなんかいらないから、そんなとこ狙ってもだめだよ」と。でも僕それしかアイディアなかったんで「そっか〜、そうっすよね〜」って。そしたらレジェントたちがミーティングを勝手に始めて、ターゲットを絞ってくれるわけですよ。それで僕に発表されたのが、「IT企業のVIP行きつけのレストランはだいたい決まってるから、そのレストランを狙え」って。「すごいっすね!」と言いながら、いったい誰がどうやって狙うんかなあと(笑)
―(笑)
 とりあえず、レジェンドのひとりの岩田さん…岩田さんはのちに僕の師匠的存在になるんですけど、彼がやっている「DELICA」っていう店がサンフラシスコで有名だから、店の前で岩田さんがユニフォームを着てる写真を撮って、タグ付けしてフェイスブックにアップしろ、って言われたんですよ。そしたら問い合わせ来るよ、って言われたから「そんなわけないやろ」って思いながらアップしたら、1時間も経たないうちに3件くらいメッセージが来た。「まだこっちいるんですか?」「ユニフォーム販売するんですか?」みたいな内容の。
―早いですね!
 さっそく連絡をくれたお店の人たちと話したら、すぐ買いたいって言われて、ユニフォーム納入して。それから次に紹介された店に納入して。ほかにも現地の日本人の方の協力でお店を紹介してもらって、3回か4回それを繰り返したら、シリコンバレーに噂が広まったんですよ。日本のユニフォーム屋がリュックの中にお菓子とユニフォームを入れて、江戸時代の行商のように渡米してきた。IT企業のVIP行きつけの店にボンボン入れてるらしいぞ、体はパンパンやし、汗だくで、英語もしゃべれないし、あいつはなんなんだ?と。芋づる式にいろんな人が有名なレストランを紹介してくれるようになりました。そのたびに、「分かりました行きます」って。それ続けてったら、最初は「アメリカで日本のアパレルは無理だ」って言われていた現地の人から「トークショーしませんか」って話が来たり。しませんよ、こっちは英語しゃべれないんだから(笑)日本でも記事になりましたね。
―なんだかわくわくしますね。
 そのあとまたレジェンドたちの勧めで、今度はロサンゼルスの日本人を紹介してもらったんです。その人に「サンフランシスコではどんなやり方をしてたんですか?」って聞かれたんですが、僕は英語がしゃべれず、車もない。だから誰かに送ってもらって、一緒にいた人が代わりにプレゼンする横でへらへら笑いながら「グーッド」とか「イエース、グーッド」「ベリーエクセレントユニフォーム」とか言っているとだいたい決まるんです、と。
―それは泉さんの才能ですよ、もう(笑)
 僕が何時に、どこどこに落とされて、そしたら次はそこにラーメンメーカーのオーナーが僕を拾いに来て…ってそういうふうにやってました!って言ったら「え、それって今サンフランシスコで流行ってるやり方ですか?セールスマンのシェアリングサービス的な新しいやつですか?」みたいに言われて(笑)でもその人も、ハリウッドのVIPが通う店を、同じやり方で回ってくれました。
―どういうユニフォームを渡していたんですか?デザインとか。
 普通の白のシャツですね。初めは手の込んだ日本的なデザインユニフォームを提案してて、それもひとつの提案だとは思うんですけど、だんだんなんか…「人なんやなあ」っていうのに気付いて。始めは日本の商品を売りに行ってたはずなのに、向こうに行って人のつながりとかありがたみが分かってくると、この人たちはものを買ってるんじゃなくて僕のことを買ってくれてるんだと。僕が面白いから、その物語を買いたいだけで、たぶん商品は、今着てる白シャツで十分なんですよ。
―それでオーソドックスなシャツを配ってたんですね。
 あるとき、伊藤園の抹茶カフェのユニフォームコンペのために、ブルックリンに呼ばれたんです。寒いしブルックリンには友達もいないし、気が重かった。訪ねていったら、ブルックリンのそこは、まさかの社員がほとんどアメリカ人で。ちょっと僕は甘く見ていました。アメリカとはいえ日本の飲料メーカーだから日本人はいるはずだと。一応、通訳する人はいたんですけど、その人もアメリカ人の、日本語が話せる人で。
―プレゼン、やばいと(笑)
 これはやばいと。もうほとんどジェスチャーです。抹茶だから緑じゃないですか。緑だから緑のエプロン持ってったんですよ。アホみたいなプレゼンなんです。なんのとんちもない、小学生でもできる。「ジャパニーズグリーンティー、セイムカラー」って言ってました。聞いてる人たちが「分かってる、そうやんなー。それは分かってんねん」って顔してて。でも僕は必死に、「きれいなセイムカラー」みたいなことを説明して。みんな半笑いですよ。「この人が、シリコンバレーから紹介されたノリイズミなのか?」って感じで。
―本当にこの人なのか?って(笑)
 そう。で、なんやかんやあって、そのエプロンの採用が決まって。
―決まったんですか!本当に、泉さんの面白さゆえですね。
 それと同じ時間軸で、サンフランシスコのレジェンドたちから「日本のアパレルはどうするんだ?」って言われたんです。海外に出てきたのはいいけど、日本のこともちょっとは考えたらどう?って。そのとき僕はこう言いました。「実は僕、アイディアがあるんです。けどまだ誰にも言ってなかったんですよね〜」と。そう匂わせたけど、レジェンドたちは全然「なになにそれ、聞かせて!」ってならないんですよ(笑)
―そこ、切り込んでほしかったのに。
 「実はあるんですよね〜、まだ言ってなかったんすけどね〜、言いましょうか?聞きます?」って。「いやどっちでもいいけど(笑)」みたいになって、「じゃ言いますよ。そのかわりパクらんといてくださいよ!」って話をして。
―その内容が?
 人間のユニフォームに、コンピューターチップを搭載したいって話をしたんです。今もそうですけど、服のIoTは、心拍とか体温とか、服のインナーのデータを採るものが多い。僕は服の外の情報を感知するユニフォームを作ろうと思った。お客さんのクレームがバックヤードにリアルタイムで流れて共有できるとか、画像認識でリピーターかどうかを判断できるとか、GPSでどのスタッフがどの店舗に配属されてるか分かったりとか。結構いけると思ってたんですよ。前例がないことも調べました。そしたらレジェンドたちにきょとんとされて。「アイディアは面白いかもしれないけど、それ買う人いるの?」と。居酒屋とか安いところってアルバイトはだいたい大学生とかで、3カ月とか半年でやめる。そんな人たちにハイテクユニフォーム着させるか?逆にハイエンドなレストランになるとスタッフそのものが自分のホスピタリティーで人を感動させたいから、そんなものいらない。便利だったとしても、それをお金を出して買うオーナーがいないんじゃないの?と指摘されました。確かに、その通りだと思いました。それで凹みながら日本に帰ってきて。
―さすがの泉さんも凹んだんですね。
 声をそろえてそういうふうに言われて凹みましたけど、悲観的にはなりませんでした。自分の思考の順番を戻っていったんです。少子高齢化によってロボットとかAIが人間の社会の中に参入してくるっていうじゃないですか。僕はそれに脅威を感じていたのかもしれない、って思ったんですよね。例えば仕事ができる、できないの基準が、ロボットになってしまう。「ロボットは注文を間違えないのに、君は間違える」というふうに。台頭してくるロボットに対して、「人間はもっとすごい能力を持てる」というのを表現したかったので、ハイテクユニフォームみたいなものを考えたんだと思うんです。
―なるほど。
 その思考まで立ち返ったんですけど、冷静になると「ロボットが勝手に入ってました」って状況、あり得ないじゃないですか。「今日、会社来たら知らないロボットいて驚いてるんですよ」とか「突然山田くんがいなくなって、代わりにロボットが収まってるんですけど」みたいなことは実際には起きない。でも僕はロボットのことをどこぞやから侵攻してくる、押し寄せてくる、侵略してくるように捉えていました。
―人間 VS ロボットといいますか。
 現実には、ロボットは人間がお金を払って導入するものです。そう気付いて、ロボットと人工知能のことを調べ始めたんです。開発者や研究者の書いた文章を読んでいるうちに、彼らは人間の優れた知能や身体能力のことをすごく勉強していて、それを知った上で、その人間のはたらきの一部をロボットに託したりして、世の中の役に立つものにしようとしているんだと知りました。「社会に役立てたい」という人たちの思いがあることが分かったら、人間とロボットは対峙している敵じゃなくて、パートナーなんだというのが腑に落ちたんです。
―ロボットを見る目が変わったんですね。
 変わったと同時に、本当にロボットが人間のパートナーになって役に立つ時代が来たときのことを、強烈にイメージしてみたんです。学校に行ったら入り口にロボットがいて「おはよう」と言います。図書館の入り口にもロボットがいて案内してくれます。銀行に行ったらロボットがいて説明をしてくれます。レストランにもロボットがいて注文を取ってくれます。家に帰ってもロボットがいます。それをすごくイメージしたら、違和感があったんです。あれ?どれがどこのロボットか分からん、って。同じロボット同士だと、人間以上に顔に個性がない。見た目だけじゃ区別がつかない、と。そこから、ロボットにユニフォームを着せるという発想が出てきたんです。
―そうして、泉さんの今の事業につながるアイディアが生まれてきたんですね。遠回りのようで、泉さんの「社会を良くしたい」という思いは、タイガーマスクに憧れていた時代から今まで変わっていないようにも感じました。

(袋とじはこれで終わりです。記事本体に戻って、残りのインタビューをお楽しみください)