◆2002年アジア大会準優勝で自信を得るも、アテネ五輪アジア1次予選で「強烈な個性の不在」を浮き彫りにした山本ジャパン

 山本ジャパンが発足したのは2002年9月。釜山で行われたアジア大会が最初の公式トーナメントだった。指揮官はユース世代から日の丸を背負っていた大久保嘉人(当時C大阪)や森崎和幸(広島)、青木剛(鹿島)らに加え、Jリーグの舞台で急成長してきた松井大輔(当時京都)や鈴木啓太(浦和)らを起用した。だが、彼らは国際経験が非常に少なく、まだまだ未知数の存在でしかなかった。

 山本監督もそのあたりを大いに危惧し、彼らがどの程度できるかを把握するため、真っ先にJリーグ最強軍団だったジュビロ磐田と練習試合を組んだ。ところが、若きジャパンは藤田俊哉、名波浩、福西崇史、高原らに赤子の手をひねられるように0−7で惨敗してしまう。「このままでは到底、アテネには行けない」と指揮官も選手たちも危機感を募らせたに違いない。

 ゼロどころか、マイナスからのスタートとなった山本ジャパン。しかし、最初のショック療法が効いたのか、直後のアジア大会では粘り強い戦いを見せる。

 U−21代表で挑んだ日本はパレスチナ、バーレーン、ウズベキスタンと同組の1次リーグを苦しみながら突破。最大の山場となった準々決勝・中国戦を迎える。この試合ではキャプテンマークをまいていた青木が負傷欠場し、阿部勇樹(当時市原)が最終ラインを統率。相手の猛攻に耐え続けた。そしてワンチャンスから「浪速のゴン」の異名を取った中山悟志(当時G大阪)が決勝点をもぎ取ることに成功した。現在はJFLのVファーレン長崎でプレーする中山も、この頃は絶大な存在感を示しており、大久保や田中達也(浦和)以上の決定力を示していた。このアジア大会で得点王を取った彼が順調に伸びていれば、日本サッカーの歴史も変わっていたかもしれない…。

 日本は準決勝でタイを3−0で撃破し、決勝に進出。強豪・イランと覇権を懸けて争うことになった。「サッカーは足し算じゃなく掛け算。最初の試合に勝ったら10、次も勝ったら100になる。今は10,000くらいの持ち点があるけど、決勝で負けたらゼロになる。そういう厳しさの中で勝ってほしい」と山本監督は選手たちを鼓舞し、ファイナルのピッチに送り出した。

 そんなモチベーションアップの効果もあり、イラン戦は一進一退の好ゲームになった。が、負傷が癒えたばかりの青木をリベロに戻して阿部をボランチに上げる指揮官の采配が裏目に出てしまう。その青木と三田光(当時FC東京)がお見合いし、先制点を献上してしまったのだ。さらに青木のパスミスから2点目を奪われ万事休す。アジア王者には輝けなかった。山本監督は青木の潜在能力の高さを買い、キャプテンマークを託して精神的成長を促そうとしたが、彼は肝心な場面でミスを連発してしまった。この大会と2次予選のふがいない出来によって、青木は指揮官から見限られることになる…。

 そんな出来事もあったが、谷間の世代にとってアジア2位という結果は十分な成功体験となった。阿部や松井、田中達也、大久保らが十分戦えることも分かり、山本監督にとっては手応えもあったのだ。

 少し自信を付けた彼らにとって、次なる関門は翌2003年5月の五輪2次予選だった。相手はミャンマーで、2試合を日本で行うという変則ホーム&アウェイ方式。山本ジャパンは最高に恵まれた条件下にいた。しかし直前の親善試合・コスタリカ戦で芳しくない戦いをしてしまう。Jリーグで頭角を現してきた角田誠(当時京都)や根本裕一(当時C大阪)らを加えたメンバーで戦ったものの、決定力不足を露呈。角田のミスから失点を喫するなど新戦力加入効果かも薄かった。それだけに2次予選本番が不安視された。

 5月1日に東京・国立で行われた第1戦は案の定、固さが出てしまう。この日は角田や青木、森崎和、阿部、石川直宏(FC東京)、松井、大久保らを軸にした3−5−2で挑んだが、圧倒的にボールを支配しながらチャンスが作れない。アグレッシブさが欠けていたのは一番の問題点だった。後半に入ってから松井、大久保、途中交代の中山が得点し、3−0で勝利を挙げたものの、格下相手に恐る恐る戦っている印象ばかりが残った。アトランタ世代の前園真聖、シドニー世代の宮本恒靖のような強烈なキャプテンシーを誇る選手も不在で、チームとしての力強さが感じられなかった。

 そこで山本監督は、2日後に迫った味の素スタジアムでの第2戦に向け、大胆なメンバー入れ替えを行った。最終ラインでは三田に代えて茂庭照幸(当時FC東京)を起用。ボランチは森崎和に代えて鈴木啓太(浦和)を入れ、右サイドも石川ではなく徳永悠平(当時早稲田大)を起用する。そして重要なキャプテンマークも鈴木啓太に託した。山本監督は責任感が強くて周囲を鼓舞できる鈴木に「まとめ役」を期待したのだろう。

 彼はその期待にしっかりと応え、献身的にピッチを駆け回った。「僕は決してうまくないけど、泥臭い仕事をすることでここまで生き残ってきた。大事な2次予選だからこそ自分らしいプレーをしなければいけない」と話す鈴木のような選手が、ここまでの山本ジャパンにはいなかった。最終的には本大会メンバーから外れることになったが、彼がここで台頭してこなければ、日本は予選を勝ち抜けなかったかもしれない。

 泥臭さとしぶとさを併せ持つ鈴木に触発された他のメンバーも、ようやく闘争心を前面に押し出すようになる。先発復帰した長身FW中山もターゲットマンとして前線で体を張り、攻めに分厚さをもたらした。そして前半のうちに茂庭が先制点を挙げ、後半には大久保と代わった田中達也が2点目を奪う。ここからゴールラッシュが始まり、阿部、松井、石川が加点し、終わってみれば5−0。やっと本来の実力を出し切り、ミャンマーを圧倒した。

 アジア大会から2次予選までの山本ジャパンは、貪欲さや泥臭さの足りないチームだった。鈴木啓太が出てきてようやく雰囲気が変わってきたが、まだまだ高いレベルを追求する意識が低かった。前園、服部年宏(当時磐田)、中田英寿のように自分の意見をしっかりと口にできる選手がそろっていたアトランタ世代、10代の頃から高度な国際経験を積み重ねてきたシドニー世代に比べると、やはり「強烈な個性」が不足していた。

「このままでは五輪出場も危うい。チームに何らかの化学変化が必要だ」と2次予選を見た多くの関係者から厳しい意見も噴出した。山本監督も現実の厳しさを痛感し、新たな戦力を貪欲に探し続けた。田中マルクス闘莉王(当時水戸)、今野泰幸(当時札幌)、平山相太(当時国見高)といった戦力が加わっていくのは、そんな模索の末の出来事だった。