◆「谷間の世代」と揶揄(やゆ)されてきたメンバーが結束し、オリンピック出場権を勝ち取る

 アテネ五輪切符の懸かるアジア最終予選は2004年3月に行われることになった。日本はバーレーン、レバノン、UAEと同組。現在のような完全ホーム&アウェイではなく、UAEと日本での変則ホーム&アウェイ方式だった。予選だけで中東に3回も遠征したロンドン五輪代表に比べると、彼らは楽だったのかもしれない。

 2次予選のひ弱さでは到底、アジアを勝ち抜けない……。そう考えた山本昌邦監督は2の策を講じた。

 その1つが日本国籍を取得したばかりの田中マルクス闘莉王(当時水戸、2004年から浦和)の起用である。185 cm/82 kgの恵まれた体躯(たいく)に加え、仲間を平気で怒鳴れる強靱(きょうじん)なメンタリティは指揮官にとって大きな魅力だった。2次予選で鈴木啓太(浦和)が存在感を示したものの、それだけでは厳しい。指揮官が寵愛してきた青木剛(鹿島)も伸び悩んでしまい、最終ラインを託すのは闘莉王以外にいなかったのだ。

 もう1つの策が2003年ワールドユース(UAE)組の起用だった。エジプトや韓国を破る原動力となった今野泰幸(当時札幌)、平山相太(当時国見高)らを引き上げ、瞬く間に軸に据えたのだ。特に190 cmの長身を誇る平山への期待は大きかった。ストライカーのスケール感はすさまじかった。2004年2月のイランとの親善試合で派手なヘディンシュートを決めると「平山フィーバー」が瞬く間に沸き起こるほど。待望の大型ストライカーの出現に関係者も胸をときめかせたものだ。

 彼らを加えてUAEラウンドに乗り込んだ日本。初戦・バーレーン戦のメンバーは2次予選の時とは一変していた。先発はGK林卓人(当時広島)、DF菊地直哉(当時磐田)、闘莉王、那須大亮(当時横浜FM)、ボランチ・鈴木、今野、右サイド・徳永悠平(当時早稲田大)、左サイド・森崎浩司(広島)、トップ下・松井大輔(当時京都)、FW田中達也(浦和)、平山という顔ぶれ。大久保嘉人(当時C大阪)は不調でUAEラウンドは落選した。

 日本は成長著しいバーレーンに0−0とまずまずのスタートを見せた。続くレバノン戦で4点を奪って勢いに乗る。この得点者は田中、鈴木、途中出場の高松大樹(大分)と石川直宏(FC東京)。平山ら若い選手にポジションを奪われた高松は発奮したのだろう。最後のUAE戦でも貴重な先制ゴールを挙げる。ホームアドバンテージを武器に戦うUAE相手に「引き分けも仕方ない」と考えていた山本監督も歓喜の雄たけびを上げた。さらに田中も2点目を奪い、日本は2勝1分のグループ首位で日本に戻ることになったのだ。

 しかし、このUAE戦の時、選手たちは信じがたいアクシデントに見舞われていた。松井や平山、那須ら主力の大半が下痢と高熱を訴え、サッカーなどできる状況ではなくなっていたのだ。「現地の生野菜が原因」などと言われたが、最後まで原因は分からずじまい。アウェイでは何が起きるか分からないと彼らは痛感したはずだ。帰国後も体調不良はなかなか治らず、選手たちは不安な状態のまま日本ラウンドに挑むことになった。こういう時に頼りになるのが、UAEラウンド不参加選手たちである。指揮官は阿部勇樹(当時市原)と大久保、さらに2003年ワールドユース組の近藤直也(柏)も招集。彼らの力でダメージをカバーしようと試みた。

 ところが、日本は初戦・バーレーン戦(埼玉)で苦杯を喫する。ボール支配率は60対40、シュート数も16対5と内容は明らかに日本の方が上回っていた。が、高松と田中の2トップが相次ぐ決定機を外し、いら立つ展開の中、後半にFKから一発を浴びせられてしまったのだ。

 4試合終了時点での勝ち点は日本とバーレーンが7で並んだ。アテネ切符を得られるのは1位だけ。残り2試合の結果次第では世界舞台が夢と消える。「強烈な個性」の少ないアテネ世代ゆえに、このまま自信を喪失し、競り負けてしまいそうなムードも漂った。

 そんな時、宿舎に大きな紙が張り出された。そこに書かれていたのは、ミスターチルドレンの「終わりなき旅」の歌詞だった。

 難しく考え出すと、結局全てが嫌になって
 そっとそっと、逃げ出したくなるけど、
 高ければ高い壁の方が、登った時、気持ちいいもんな
 まだ限界だなんて認めちゃいないさ

 紙を貼った張本人はキャプテン・鈴木啓太だった。ここで負けたらこれまでの努力が無駄になる。何とかして前向きさを取り戻させたいと考えに考えた末の行動だった。本人は今でも「自分がやった」とは言っていないが、彼以外にこんなことのできる人はいない。その熱い思いをチームメートたちはしっかりと受け止めた。

 直後に行われた第5戦・レバノン戦(東京・国立)は最大の正念場。山本監督は満を持して大久保を起用し、勝負に出た。日本は鈴木に代わってキャプテンマークを巻いた阿部が直接FKから先制。後半に追いつかれるが、指揮官が信じて送り出した男・大久保が窮地を救う。2003年に日本代表デビューを飾ったエースが待望の決勝点を挙げ、日本はアテネ行きに王手をかけたのだ。

 迎えたラストのUAE戦。指揮官は平山、大久保、田中の「1トップ2シャドー」という大胆な秘策を実行した。これは練習でもトライしたことのないシステムだったが、勝負の懸かった最終局面でズバリ的中する。日本は那須の先制点を皮切りに、大久保が2ゴールと大ブレイクした。UAEラウンド落選の屈辱を晴らすかのように、彼は聖地のピッチで躍動した。

「UAEに行けなくて悔しかったんで、日本で調整して本来の自分を取り戻すように努力した」と話す男の目には光るものもあった。この姿を目の当たりにした山本監督も男泣きする。強烈な個性が少なく、国際経験も不足していたため、「谷間の世代」と揶揄(やゆ)されてきた彼らがかつてないほど結束し、勝ち切ったことを、指揮官は誰よりも喜んだに違いない。

 この6年後の2010年南アフリカワールドカップで16強進出の原動力になったのは、大久保や阿部、松井、闘莉王ら、この最終予選で闘争心を前面に押し出した面々だった。彼らがこの苦境を乗り越え、アジアの壁を突破していなかったら、南アでの成功もありえなかっただろう。この最終予選の重要性が今になるとよく分かるはずだ。