GEとの提携には大反対

入社初日に出した辞表は会社預かりのまま、1年が経過した。その間、会社からは「辞めろ」と言われるどころか、翻意させるための説得が繰り返された。

2年目にはとうとう「課長になりたくないか」と持ちかけられた。当時、28歳だったと思う。日立は工場プロフィットセンター主義だったから、工場権限で30前の若造を課長にすることもできたのだ。

「自分の役割はわかっています。ポジションで仕事をしているわけではないから、今のままで十分です」

地位や肩書に興味がなかったから断った。それ以外にも、「奥さんのホームシックは大丈夫か。提携先のGEに1、2年派遣しようか」などとあの手この手で説得されたが、こちらの気持ちが変わることはなかった。

GEとの技術提携に関しては、むしろ日立を辞める理由の1つになった。

当時は動燃(動力炉・核燃料開発事業団)も東京電力も「日立さんだけではちょっと」という感じでGEのお墨付きがなければ買ってくれなかった。だから福島第一原発のすべての原子炉はGEの設計なのである。

国産原子炉の開発に期待して日立に入った私としては提携には大反対で、「やめてくれ」と嶋井(澄、副工場長)さんに噛みついた。

「キミは英語が人一倍うまい。GEと提携しても先頭になってやってくれ」と言われたが、GEと交渉するために英語を身に付けたわけではないし、原子炉を勉強したわけではない。GEに学ぶつもりなら、GEに勤めたほうが手っ取り早い。実際、MITのクラスメートは何人もGEに入っていたし、クラスで一番に卒業した自分が彼らの風下に立つなんて冗談じゃないという気持ちもあった。

しかし、嶋井さん曰く、「キミはGEには行けないよ。互いに技術者を引き抜かない約束になっているから」

1979年のスリーマイルアイランド原発事故以後、GEの原子力事業部はメンテナンス部門を除いて閉鎖になっているから、GEに行かなくて良かったのだが。

英字新聞の求人欄

入社半年後、カミさんが日本にやってきた。その半年後の夏のことだった。

当時は火力発電のプラントでもGEのお墨付きが必要な時代だった。GEから火力部門のエンジニアが日本に派遣されて、我々のような日本人エンジニアには信じられないような立派な外国人住宅で暮らしていた。

そんなGEのエンジニアの奥さんの1人とウチのカミさんが友達になった。

彼らシャーマン一家は夫婦に娘1人の3人家族。海を見下ろす丘の上の“豪邸”に住んでいて、サマーバケーションは家族揃ってアメリカに戻るという。そこで、一夏の間、留守宅の世話を兼ねて我々夫婦が住むことになった。これも家内が直接交渉して手に入れた産物だった。

これが運命を大きく変えることになる。

シャーマン一家は『ジャパンタイムズ』を購読していて、夏の間も毎日届いた。社宅では新聞を取っていなかったし、英語に飢えていたカミさんはむさぼるように読んでいた。

ある日、私も何気なく新聞を手に取って読んでいたら、「Wanted」という求人コラムの「ケミカルエンジニア募集」の文字に目が留まった。

「これって俺のことだよな」

大学で応用化学を修めた自分を呼んでいるような気になって、募集広告に記載された番号に電話をした。

連絡先はいわゆるヘッドハンターだった。一度、履歴書持参で会って話をすることになり、仕事で都内に出たついでに連絡を取って待ち合わせた。

履歴書に目を通したヘッドハンター氏は「この履歴書なら、最近日本に進出してきた外資系の会社がいい。給料が結構いいみたいだから、先にそこに行こう」と言い出した。どんな会社なのかと聞いても、「私もよくわからない」という。ケミカルエンジニアの話はすっかり後回しで、促されるままタクシーに乗り込んだ。

「あなた新聞は何を読んでいるの?」

「新聞は取っていません」

「朝日と言いなさい。好きなテレビ番組は?」

「テレビは持ってないから見ません」

「じゃあNHKのニュースセンター9時ということで」

車中、面接の要領らしきレクチャーを受けているうちに、タクシーが到着したのは丸の内の馬場先門のある富士ビル。その10階にマッキンゼー&カンパニーの東京事務所が入っていた。

次回は「マッキンゼーの面接は『×』が4人」。6月11日更新予定です。