東大入試は、日本史の問題が魅力的です(写真:Mugimaki/PIXTA)

東京大学の二次試験で出題される日本史の問題(以下、東大日本史)では、「豊臣秀吉が刀狩令を出した」などの出来事を直接問うたり、人物に焦点を当てたりすることがありません。にもかかわらず、毎年ユニークな出題で歴史好きを魅了し続けています。

<人物>の面白さも歴史の面白さの一つであることは間違いありませんが、もう一つの側面としてあるのは、<なぜ?>を問う面白さ。ここに東大日本史の魅力があるのです。

『歴史が面白くなる 東大のディープな日本史 傑作選』の著者であり、東大日本史の面白さを知り尽くした相澤理氏が、実際の問題を取り上げながら解説します。

※本記事は『歴史が面白くなる 東大のディープな日本史 傑作選』の内容を抜粋し、加筆修正を施して再構成したものです。

東大日本史の入試にみる「攻め」の傾向

今から30年近く前、私が駆け出しの予備校講師であったころに出合った、忘れられない入試問題があります。その後の私と東京大学の日本史の入試問題との長きにわたる付き合いを運命づけたと言っても過言ではないでしょう。

とにかく、一般的な入試問題の枠には収まらない、「攻めた」問題なのです。どうぞご覧ください。

〈問題〉

次の文章は、数年前の東京大学入学試験における、日本史の設問の一部と、その際、受験生が書いた答案の一例である。当時、日本史を受験した多くのものが、これと同じような答案を提出したが、採点にあたっては、低い評点しか与えられなかった。なぜ低い評点しか与えられなかったかを考え(その理由は書く必要がない)、設問に対する新しい解答を5行以内で記せ。(以下略)

(1983年度・第1問)

この問題は虚構でも何でもなく、実際に出題された入試問題です。なんと、受験生の答案にダメ出しして、もう一度出題したのです。

東大日本史は、人名・年号の知識を問う空欄問題や、○×問題などはいっさいなく、時代の大きな枠組みや背景、史実どうしの関係などが、論述の形式で出題されます。それゆえに再出題も可能なわけですが、だからと言ってこの問題は「攻めすぎ」でしょう。

この問題で「東大日本史」の破壊力の一端を感じていただけたでしょうが、これで終わりではありません。同じ年の第2問はこうでした。

〈問題〉

……上記の文章中の二つの疑問は高等学校で日本史を学んだ誰もがいだく疑問であろうし、日本の歴史学がいまだ完全な解答をみいだしていないものであると思われる。この二つの質問のうち、下線部分の質問にたいして、歴史の流れを総合的に考え、自由な立場から各自の見解を8行以上13行以内で説明せよ。

(1983年度・第2問)

今度は答えのない問いです。ここで言う「二つの疑問」とは、一つは、中世には天皇の力が弱くなったにもかかわらず滅びることがなかったのはなぜか? もう一つは、鎌倉時代にのみすぐれた宗教家が輩出したのはなぜか?です。

言われてみればたしかに疑問に思うでしょう。とはいえ、それを「日本の歴史学がいまだ完全な解答をみいだしていないものであると思われる」と断ったうえで、入試問題として出題する意図は何なのでしょうか。

ちなみに、本問で引用されていた文章というのは、網野善彦『無縁・公界・楽』の一節です。歴史に詳しい方であるならば、網野氏の文章を入試問題に用いるということの“ただ事ならなさ”もご理解いただけると思います。要するにすべてが「攻めすぎ」なのです。

さすがに近年の問題は少し大人しくなってきたように感じますが、東大日本史はいつどんな問題を出してくるかわからないので心するようにとは、受験生に伝えているところです。

歴史を「覚える」から「考える」へ

こうした「攻めた」問題を通して東京大学が受験生に求めるのは、端的に言えば「考える」ことなのだと思います。先にも述べたとおり、東大日本史では知識のみを問う空欄問題や○×問題が一切出題されません。人名や年号を覚えるだけで満足するのではなく、時代の大きな枠組みや史実どうしの関係を考えて理解することが求められるのです。

それがよくわかる実例として、例えば、次の問いのなかには「考える」要素が盛り込まれています。

〈問題〉

護良親王は、鎌倉後期に絶大な権力を振るった得宗(北条氏嫡流)を、あえて「伊豆国の在庁官人北条時政の子孫」と呼んだ。ここにあらわれた日本中世の身分意識と関連づけながら、得宗が幕府の制度的な頂点である将軍になれなかった(あるいは、ならなかった)理由を考えて4行以内で述べよ。

(1997年度・第2問)

鎌倉幕府の将軍は、3代実朝で源氏の血統が途絶え、以降は摂関家・天皇家から迎えられた(摂家将軍・皇族将軍)ことは、高等学校で日本史を学んだ人、趣味で歴史に親しんでいる人ならよく知っていることでしょう。

幼少の将軍をお飾りとして立てることで、頼朝の妻である政子を出した北条氏が執権として実権を握ったことも、高校日本史では必ず教えるところです。北条氏、とりわけその嫡流である得宗は、他の有力御家人を排除しながら権力を独占しました。それにもかかわらず将軍とならなかったのはなぜか?という問いは、「高等学校で日本史を学んだ誰もがいだく疑問」と言えなくもないでしょう。あるいは、当然のこととして受け入れていたために、改めて問われると答えに窮するかもしれません。

詳しい解説は拙著『歴史が面白くなる 東大のディープな日本史 傑作選』(KADOKAWA)に譲りますが、問題文で言う「日本中世の身分意識」が手がかりとなります。中世の武士は天皇につながる血筋の尊いものを棟梁として仰ぐという、言わば「血筋のピラミッド」に縛られていました。源氏は清和天皇、平氏は桓武天皇を祖としますね。そうした中で、得宗は「伊豆国の在庁官人」、つまり田舎の武士にすぎません。自分たちと出自の変わらない得宗を、他の御家人が将軍として認めることはなかったでしょう。

また、護良親王(鎌倉幕府の倒幕を目指した後醍醐天皇の皇子)が「伊豆国の在庁官人」呼ばわりしているところからは、公家の人々の得宗に対する蔑んだ意識がうかがわれます。将軍(征夷大将軍)とは朝廷が任命する官職であり、「血筋のピラミッド」の底辺に位置する得宗を取り立てることは許せませんでした。つまり、得宗は、御家人からも朝廷からも認められず、「将軍になれなかった」のです。

どちらが答えるべき問いかという「問い」

ところで、問題文にはカッコつきで「(あるいは、ならなかった)」とあります。実は、こちらの問いに答えた〈別解〉も、予備校界では流通しています。


簡単に言うと、得宗は、天皇に任命されるという征夷大将軍の直臣としての制約を避け、あえて将軍とならないことでフリーハンドの立場を確保しようとした、という趣旨です。しかし、そう言えるのは将軍になることが可能な場合であって、そもそも「なれない」のに「ならない」理由を答えるというのは気が利いていません。

私は、この問題はどちらを答えても良いというのではなく、どちらが答えるべき問いか、ということも含めて受験生に問いかけていたのだと考えています。そのように、どこまでも抜け目なく「考える」ことを求める点にこそ、東大日本史の面白さも、学ぶべき価値もあります。

(相澤 理 : 厚胤塾)