1月15日、元Jリーグ専務理事の木之本興三さんが、うっ血性心不全でお亡くなりになられた。まだ68歳だった。ご逝去を悼み、謹んでお悔やみを申し上げたい。
 
 一言で言えば、サッカーのために自分の人生を捧げた男だった。
 
 72年に古河電工(現・千葉)に入団し、活躍していたが、腎臓の病気のため現役を退いた。その後は、日本サッカーリーグの事務局に入り、Jリーグの発足に尽力した。
 
 人工透析の治療を受けながら仕事を続け、Jリーグの常務理事や専務理事、日本協会の強化推進本部副本部長といった要職を歴任したけど、03年に健康上の理由で第一線を離れた。あまり表舞台には立たなかったけど、日本サッカーの成長を支えた、‶影の主役″と呼んでもいいだろう。
 
 Jリーグを立ち上げようとした時には、反対意見もあったという。それでも、彼には確固たる理念があった。ブレない信念があった。

  当時はまだ、日本はワールドカップに一度も出場したことがない。ライバルの韓国は、すでに世界の舞台で戦っている。日本代表を強くするためには、アマチュアのままではなく、国内リーグのプロ化が必要だと、その想いで力の限りを尽くした。
 
 20代で難病を抱えてからは、大変な毎日だったと思う。それでも、彼に会うたびに思ったのは、サッカーが刺激になっていたということ。日本代表が負けたり、内容が悪かったりすると、必ず僕のところに電話がかかってきて、「どうなっているんだ!」と。
 
 ピッチの中だけでなく、サッカー界を取り巻く様々な事柄を気にしていたし、とにかく頭からサッカーが離れない。そんなキャラクターが、ここまで長生きできた理由なんじゃないかな。底なしのサッカー愛が、病気と闘うエネルギーになった。
 
 おそらくは、今際の際までサッカーのことを考えていたはずだよ。
 周りの人間に裏切られたりしたこともあっただろうけど、彼は紳士だから、不平や文句を言わなかった。辛いことにめげないで、故郷の千葉に帰って「出直すんだ」と。
 
 僕も千葉に行ったり、いくつかのイベントで一緒になったり、食事したりと、ずっと懇意にしてきた。彼が入院することもあって、お見舞いに行けば、すごく喜んでくれてね。僕の来日40周年のパーティーには、車椅子に乗って来てくれたよ。
 
 少し古い話になるけど、木之本さんがJリーグにいた時に、僕はあいかわらず“辛口”だった。それだけに、当時は僕も木之本さんからあまり良い印象を持たれていなかったようだけど、よく知るテレビ局のプロデューサーが間を取り持ってくれて、一度、食事をすることになったんだ。
 
 そこでゆっくりと話をしたら、「本当にサッカーを考えている男じゃないか」と褒めてもらったんだ。僕の記事をよく読んでくれていたみたいで、その内容によっても、電話がかかってきたりもしたね。
 
 柔軟に物事を考えることができて、見本にすべきところがたくさんあった。もっとも、病気との闘いやサッカーのために惜しみなく頑張る姿を見るにつけ、僕には到底真似できないと痛感した。
 
 身体は相当しんどかったと思うけど、頭の中はいつだってクリアで、たくさんの面白いアイデアを口にしていた。協会やJリーグの中にいる人たちよりも、よっぽどサッカーのことを考えているように感じたよ。
 木之本さんが手がけたJリーグも、今季でちょうど25年目を迎える。開幕に向けて、各クラブは補強を進めながら、新たな編成を組み、続々と始動している。
 
 今季は3年ぶりに1シーズン制が復活するけど、2ステージ制だった時期は、木之本さんもいろいろと思うところがあったようで、すごく心配もしていた。今季は、ある意味、本来のしかるべき姿に戻るわけで、それを彼が見ることができなかったのは、僕としても悔しいよ。