失敗よりも怖いのは、歩みを止めること――回さないタオルと、若旦那の決意。
「ギターを弾きながら歌ってみて気づいたんです。タオルを回せないじゃん!って」。湘南乃風の代名詞とも言える「タオル回し」は、溢れるパッションを伝える道具でもあった。回さなくなったタオルの代わりに、長い髪をバサッと揺らしている。「そのために髪の毛を伸ばしたんです」。
グループとしてのメジャーデビューから15年、ソロ活動をスタートしてから7年の月日が流れた。ビジュアルも音楽性も大きく変化し、「湘南乃風の若旦那」という看板に収まりきれなくなった現在の音楽活動は、本名の新羅慎二名義で行っている。
近年は役者としても活動しており、12月には人形浄瑠璃・歌舞伎作家である近松門左衛門の代表作をフラメンコで表現する舞台『Ay曽根崎心中』に歌い手として参加する。
変化を恐れず前へと突き進むその姿勢の原点を探るべく、少年時代から現在までの軌跡を辿った。
「素手でタイマンだ!」強いヤツがいたら挑みたかった
- 自伝的漫画『センター〜渋谷不良同盟〜』にもあるように、若旦那さんは少年時代に不良グループにいらしたんですよね。
- 僕は不良といっても、青春漫画みたいな感じで。「素手でタイマンだ!」みたいな価値観の中で過ごしてたんですよ。単純に力があり余っていただけで、ひねくれてたとか、世の中を斜めに見てたとか、非行に走ってたとかじゃなくて。ただ単に強いヤツがいたら挑みたい、みたいな。
- 武道的な感じだったんですね。
- そうそう。だから体の大きいヤツとか、気合い入ってるヤツとかと街中ですれ違ったら「なんだよお前、俺の街に何しに来てんだ」みたいな。そういうのが楽しかったんですよね。で、喧嘩したら意外に仲良くなっちゃったりして。
喧嘩して警察にお世話になったこともありました。「でも別に俺、友だちがカツアゲされたから取り返しに行っただけなんだけどな」って。 - 自分としての正義はあった。
- そう、正義はあった。「法律では悪いんだよ」って言われるけど「法律では、でしょ!?」みたいな。
ただ、そうやって漫画みたいな世界で生きてきた中で、周りがだんだんきな臭くなってきて。相手が武器を持ち出したり、深刻なダメージを受けるヤツが出てしまったり。そういう喧嘩が増えてきて、なんか違うなと思い始めたんです。 - それは、武道的には楽しめないですよね。
- どっかイカれてるヤツが正義、みたいになってきて。「ここが自分の居場所ではないな」と薄々感じている中で、下克上を食らったわけです。「先輩、気合い入ってないんだったら、イキがんないでくれますか?」みたいな。で、「あぁ、俺はお前らみたいに気合い入ってないから、引退するよ」と言って。
- 不良の道をそのまま進まなかったのは、そういう理由があったのですね。
- ただ、引退するとなると、街に出れないってことになるので。ルール的に。
- 街に出られない?
- それまで遊んでた街に出ると、「引退するって言ったのに、何でまたイキがりに出てきてんだよ」みたいな因縁をつけられるので。家の近くで遊ぶようになったんだけど、「やることないなぁ」ってときに、近所に美大受験予備校があることに気づいたんです。「無料体験」と書いてあって、「暇だし、無料ならやってみようかな」って。そこの扉を開けたのが、アートへの入り口でした。
勉強が大事とは思わない。それでも学校に通う意味って?
- 近所の美大受験予備校へ。扉を開けた向こうで待っていたものは?
- ガチャッて扉を開けたら、部屋の真ん中に女の人が裸で立っていたんです。
- あぁ、裸婦のデッサン。いきなり、びっくりしますね(笑)。
- でしょ。「こんな世界があるんだ」って。当時、高校生でしたけど、あんな長時間、女の子の胸を見ていても許されるってさ、そうないですよね。おっぱい見ながら、自分なりの、女子のそれを触ったときの感覚を思い出したりして。そういうのを絵に表現することが楽しくなっちゃって。すんなり不良の道から美術の道へ入れたんです。
- そのまま入会されたんですか?
- 即入会しました。そこの先生と仲良くなって、週末に先生の家に遊びに行って、夜な夜な絵の話をしたり教えてもらったり。その数年後、美大に入学したんです。
- 武蔵野美術大学造形学部と中央大学法学部に入学されてますよね。学校の勉強は、もともと得意だったんですか? 不良グループを抜けたあとに猛勉強されたのでしょうか?
- 勉強はね、不良しながらもできてたんですよ。なんか自慢みたいになっちゃうからあんまり言いたくないんだけど……なんか、できたんですよね。問題を解くのが楽しかったんです。
- 苦労して受験勉強した、という思いはなく。
- ないですね。遊びの延長みたいな感じで。数学もパズルみたいな感じで解けましたし。……この手の話はイヤミっぽくなっちゃうのでこれ以上はちょっと勘弁してください(笑)。
- ご自身の経験を振り返って、若者に対して「勉強は大事だよ」みたいなことを伝えたいですか?
- 勉強が大事、とは思わないですね。苦手だったらやめればいいじゃん、くらい。ただ大人になって思うのは、座る練習、定時に行って定時まで座っていられるような体づくりっていうのは、すげぇ大事だったんだなって。僕自身が、じっとしてられないんですよ。これはあんまりよくないなって思うんですよね。
学校の勉強ができなくても頭の回転が速い人っていっぱいいますから。それより、どんなことが起きても即座に対応できる“アドリブ力”こそ、身につけておいたほうがいいと思います。 - アドリブ力を身につけるためには?
- 僕は格闘技が好きだから、格闘技をやりなさいって言ってるの。どうパンチが飛んでくるか、相手の次の行動を読んで、その力を使ってどうカウンターを入れるか一瞬で判断することを求められるから。
まぁ、スポーツは全部そうですよね。サーフィンならどういう波が来るかわからないし、テニスならどういう球が来るかわからない。だから、スポーツはやっておいたほうがいいんじゃないかなと思いますけどね。
「何にもなれない自分が怖かった」人生を一からやり直すことに
- 若旦那さんの進路としては、美大を中退し、次に入学された中央大学法学部を中退。その後、就職活動はされたんですか?
- してないです。その頃は司法試験を目指していました。自分が芸術肌なのか頭がいいのか、やってみないとわからないから。一番頭がいい人が受ける試験が司法試験だと勝手に思い込んでいて、挑戦してみたいなと。数年間、図書館や家にこもって勉強ばかりしていた時期がありました。
まぁでも、全然ダメでしたね。東大生の足元にも及ばない。それでもう一回、自分の人生を一から立て直したいと思ったんです。過去に不良だったこととか、美大に行ってたこととか、いろんなことを全部脱ぎ捨てて。どこでもいいから知らない土地に行きたくて、そしたら湘南にたどりつきました。 - なぜ湘南だったのでしょう?
- 自分の住んでた路線が小田急線で、小田急線の終点は江ノ島。当時の自分にとっていちばん遠い場所が、江ノ島だったというか。それで湘南にたどり着きました。
- 遠くに行きたかった?
- そう。その時期は自分のこと、本当に嫌いになってたというか。いろんなことを目指して、行動していたものの、うまくいかなかったり、すぐに飽きちゃったり。このまま自分は何にもなれないのかなって……。
「将来何になりたいの?」って聞かれるのがすごく怖かった。「お前どうするの?」って言われても、自分にもわからないわけですよ。親戚の集まりに行っても「お前はすぐあきらめるし、何にもなれないよな」ってバカにされて。対人恐怖症というか、人とどうしゃべっていいかもわからなくなって、部屋から出られなくなって……。いわゆる引きこもりですね。 - そんな時期があったんですか……。
- でも、これじゃダメだなと。全部捨てて、一から全部やり直したくて、湘南に行くと決めたんです。
- そのことをご両親に伝えたのですか?
- おふくろには、「期待に沿うような息子ではございませんでした。すみませんでした」って謝りました。不良時代から苦労をかけてましたから。警察や学校に呼び出されるたびに、おふくろの髪が白髪になっていくのがわかるんですよ。悪いな、と思いながら好きにやってたし……。
「夢とか、何になりたいとか、いろいろあったけど何にもならなくてもいい?」「このままでは自分のことを嫌いになっちゃうから、全部捨てて湘南に行っていい?」って。そういうことを言った覚えがあります。 - お母さまの反応は?
- 「ご苦労さま、がんばったね」って。おふくろはわかってくれていたんだと思います。それで、湘南での生活を始めることになったんですよね。
レゲエの本場ジャマイカで、自分の使命が降りてきた
- 湘南に移り住んだ後、どんな生活を送っていたんですか?
- サーフィンやってバイトして、音楽を聴いて。それまでの自分とはまったく別な感じ。で、ちょっとずつ友だちが増えてきて、街に受け入れてもらえるようになって。
居酒屋でバイトしていたんですけど、バイト先のおじちゃんに「人が来ないの、どうしたらいいかな」って相談されて「レゲエバーにしちゃえばいいじゃないですか」って言って。内装とか全部、自分で変えてレゲエバーにしたんです。そこからレゲエミュージシャンとかが来るようになって。 - スゴい、改装が大成功したんですね。
- 結局しばらくしたら、つぶれるんですけどね(笑)。店がつぶれたことで、やることがなくなっちゃったから、ミュージシャンとしてスタートすることになるんですけど。
- 音楽を始めたきっかけは、レゲエバーのお客さんに「歌ってみなよ」「曲を作ってみたら?」と言われたことなんですよね。
- そうです。当時たまたまレゲエが好きで聴いていたら、「作ってみれば?」って。「そんな簡単に作れるの?」「作れるから」って。そしたら本当に簡単にできちゃって(笑)。それからすぐにジャマイカに行きました。
- レゲエの本場で、学ぼうと?
- 日本でレゲエやってるヤツらが嘘くさく思えちゃって。ジャマイカ人の真似してるだけじゃないのかなって。で、何を歌ってるのか、ジャマイカに見に行きたいと思ったんです。そしたら、今の活動の原点になるものすべてに出会っていくんですよね。
- たとえば、どんなことですか?
- ジャマイカで会った人たちは、みんなの心の葛藤を歌っていました。何でこの街は貧しいのかっていう現状を歌にしていたり。そして歌で手に入れたお金を、その街の子どもたちのために使っていた。循環してたんですよ。それが、すげぇカッケーなと。自分にもやるべきことがあるんじゃないかと思って、日本に戻りました。
- 自分の使命を見つけた?
- 社会への憤り……たとえばさっき言ったように、自分はカツアゲされたお金を返してもらうために行っただけなのに、傷害罪でつかまりそうになるとか。あのときに「お前にはお前の正義があるよな」って寄り添ってくれる大人がいたら、ヤクザになっていったヤツらもいなかったんじゃないかな、と思うと。自分のやるべき使命は、誰にも理解してもらえない、マイノリティの理解者であること。そういうのがジャマイカに行って、スコーンと降りてきて。
- その思いが湘南乃風での音楽活動につながるわけですね。
- あと印象的だったのが、ジャマイカで「お前はここに勉強しに来てるかもしれないけど、ジャマイカ人がやる音楽がレゲエだから。日本人がやってもレゲエにはならないんだから、お前はお前の国の音楽に誇りを持て」と言われたこと。それで洋楽一辺倒から抜け出して、尾崎 豊、ザ・ブルーハーツ、サザンオールスターズなどの音楽から影響を受けてきた自分を大事にするようになりました。
「若旦那」に合わせた生き方になっていることに気づいて
- その使命に導かれるように、湘南乃風を結成。『睡蓮花』や『純恋歌』などのヒット曲を生み出し、多くのファンを抱え、デビュー15周年を迎えた今、新羅慎二名義での活動を開始されたのはなぜですか?
- 「若旦那」っていう看板の中でやるのが、ちょっと限界だなって。今はもう全然違う音楽をやってるし、見ての通り長髪だし(笑)。ぐりぐりのパンチパーマから長髪になって、若旦那っていう名前のままだと「どうしたの」「何がやりたいの」って、また言われちゃう。そんな生産性のない会話、僕は嫌いだし。だったら、若旦那じゃない本名の新羅慎二でやろうと。
- 音楽性の変化に伴い、ビジュアルも変わってきた?
- 髪の毛を伸ばしたのは、ギターを弾き始めたから。ギターを弾き語りしていて気づいたんです。タオル回せないんだなって。
- たしかに!(笑)両手ふさがってますもんね。
- そこからですね、髪が欲しいなって。弾きながら、髪をバサッとさせたいっていう。こう頭を動かすことで、パッションを表現できるから。そのための道具ですね。
- とても前向きな変化ですが、ファンの中には戸惑う人もいたかもしれません。周りの目って、気になったりしませんでしたか?
- そこはやっぱり、ありましたよ。「結局何がやりたいんですか?」ってバカにしてくるヤツもいたし。でも「新羅慎二でやる勇気を誇りに思う」って言ってくれる友人もいた。僕は自分自身が誰からも束縛されなく、自由にいられる場所を求めているので。それが新羅慎二だったんでしょうね。
- 2017年のドラマ『下剋上受験』以降、役者としても本格的に活動。12月12日〜20日には、近松門左衛門の代表作『曽根崎心中』をフラメンコで表現する舞台『Ay曽根崎心中』に歌い手として参加する。プロデュース・作詞は阿木燿子、音楽監督・作曲は宇崎竜童。「九平次の声にぴったり!」と、阿木・宇崎から直々に出演のオファーを受けた。
- ここにきてお芝居を本格的に始めたのは、どういう経緯があったのでしょう?
- 音楽をやっていく中で「自分の歌じゃなくて人の歌を歌いたい」って、意識が切り替わった時期が3年前くらいにあって。大きな転機だったんですよ、それは。
- 何がきっかけだったんですか?
- 限界ですよね、自分の歌を歌うことへの。世の中の不条理を歌っていたはずなのに、「こういう歌を歌いたいから、あえてそっち側の人生を生きている」自分がいて。虚像とか虚構に向かっていたんです。
- 歌で嘘をつかないために、生き方自体を曲げてしまっていた。
- そう。「若旦那ってこうでしょ?」って。ファンがこういう音楽を求めてるから、こういう生き方をする、みたいな。そこが苦しくなってきて。
自分の歌ではなく、人の歌を歌いたいと思うようになりました。それからですね。人の気持ちを知るために役者の仕事を始めました。勉強です。壮大なプランニングですけど(笑)。
やってみなきゃわからない。立ち止まりたくないんです
- 役者の世界に飛び込んで、実際にお芝居に挑戦してみて……いかがでしたか?
- もうね、表現がすべて変わった。すごくプラスでした。舞台『Ay曽根崎心中』で九平次を歌うのも、まさにそのたまものですよね。歌と芝居が同化していく感じで。
- フラメンコのダンサーとして九平次役を踊る矢野吉峰さんがいらして、その心情の部分を若旦那さんが歌で表現されるんですよね。阿木さん・宇崎さんから直々にオファーがあったと伺いました。
- いや、もうめっちゃ舞い上がりました(笑)。伝統芸能に触れられる機会があって、大先輩で憧れの宇崎さんと阿木さんがいて。そこで今自分がやっている、芝居と歌が融合されたものを表現できるっていうのはもう、「来た!」と思いました。「2018年はもう、これに賭ける」と。
- プレッシャーというよりは、早くやりたい、という気持ちのほうが大きいですか?
- そう、ね……。プレッシャーはありますけど。あんまり(会場の新国立劇場がある)初台のほうを見ないように生活してます(笑)。
- 稽古はいかがですか?
- 降りてきましたよ、九平次が。哀しい男だなって思いましたね。自分が親しんできた音楽でいうと、ブルースの世界ですね。哀しい、人間のダメなところをあえてやっちゃう、みたいな。やらざるを得なくて、あえて悪役になったんだろうなとも思えたし。
- ポップスとは違うフラメンコのリズム、習得できましたか?
- まだまだ、です。さっきも手を叩いて拍子を取ってましたけど、どこが区切りなのか、わからないんですよ。適当にやってんじゃないかなって思うくらい難しい(笑)。でも、よーく聴いてると小節がある。
- フラメンコの魅力とは?
- 僕が感じているのは、グルーヴ。すっごく気持ちいい。ちょっとしたエクスタシーを、毎回感じられるんです。何も知らなくてもパッションを感じられて、思わず掛け声を掛けたくなると思う。フラメンコに触れたことのない方にも、ぜひこの熱さを感じてほしいです。
- 楽しみにしています。きょう、こうしてお話を伺っていると、若旦那さんは自分がやりたいと思ったら、それが初めての場所であっても不安があっても、まず飛び込んでみるんですね。
- まず飛び込んでみて、ダメならやめるっていうやり方しかできないんですよ。あれこれ頭では考えられない。やってみないとわからない。
- 失敗したら落ち込むだろうな、と飛び込むことを躊躇する人のほうが多い気がします。
- いや、僕も落ち込みますよ。落ち込むし、バカにもされるし。けど、単純なんだと思います。やってみて「ダメだったね」って言うしかないんですよ(笑)。そこに巻き込んじゃった人には「すみません、ダメでした」って謝ります。
でも、立ち止まりたくはないな、と思いますね。常に楽しいことをやっていたいんです。
- 若旦那(わかだんな)
- 1976年4月6日生まれ。東京都出身。A型。2003年に湘南乃風メンバーとしてデビューし、2011年からはソロ活動を開始。役者、ラジオパーソナリティやイラスト、絵画など幅広く活動し、ムコ多糖症候群患者の支援活動、自然災害被災地の支援活動も行う。2018年11月に本名である新羅慎二名義でミニアルバム『夢の向こう側のレジスタンス』をリリース。2018年12月24日に東京MUSICASAにてワンマンライブ『THE ACOUSTIC in Christmas2018』を、2019年4月に新羅名義では初となるコンサート『桜の咲く頃に生まれた僕ら』を開催予定。
出演作品
- 『Ay曽根崎心中』
- 12月12日(水)〜12月20日(木) @新国立劇場中劇場
- 近松門左衛門が描いた究極の愛の物語をフラメンコで踊り表現する衝撃作。
- 九平次のカンテ(唄)で初出演。
- http://sonezaki.jp/
ライブドアニュースのインタビュー特集では、役者・アーティスト・声優・YouTuberなど、さまざまなジャンルで活躍されている方々を取り上げています。
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