中山雅史を日本代表に押し上げた“継続する力”「欲張らないとダメ」

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日本が初めてワールドカップに出場した1998年フランス大会で、唯一のゴールを記録したのが中山雅史だった。そんな歴史的な得点を挙げた中山だが、最初はプロになるつもりなどなく「ヤマハ発動機」に就職したのだという。

中山が大学を卒業したとき、日本サッカー界は嵐の前の静けさに包まれていた。だがすぐにプロ化の波が押し寄せ、Jリーグが発足し、みんな否応なく飲み込まれる。中山とて例外ではなかった。

ところが中山が就職したヤマハ発動機はJリーグ発足メンバーから漏れてしまった。そんな中で、何が中山を突き動かしたのか。ずっとうまくなり続けた秘密は何か。そして中山に幸運をもたらしてくれた歌は何だったのか。

インタビュー・文/日本蹴球合同会社・森雅史
写真/神山陽平:Backdrop デザイン/桜庭侑紀
中山雅史(なかやま まさし)
1967年生まれ。静岡県出身。ヤマハ発動機(ジュビロ磐田の前身)から在籍しチームに貢献した。日本代表として98年、02年のW杯に出場。現在は、J3・アスルクラロ沼津で現役を続行しながらサッカー解説者としても活動している。

「社員かプロか」中山に迫られた選択肢

これまでいろんな転機がありましたけど、やっぱりJリーグができたという出来事は転機でしたね。僕、本来は「ヤマハ発動機」の会社員として生きていこうと思ってました。「プロ選手なんてやってられねぇだろう」って。

だって僕が大学を卒業した1990年のころは、プロなんて絵に描いた餅みたいな感じですよ。海外でプロになるっていう道はあったし、そういう方法があるのは知ってましたけど、「あぁ、すごいな、そこ行けたらいいな」って漠然と思ってるくらいで。

ただ、大学時代からプロリーグができるんじゃないかって噂はチラホラと出てましたね。当時のサッカー界には「スペシャル・ライセンス・プレーヤー」とか「ノン・アマチュア」というカテゴリーのプロやセミプロはいました。そういう選手たちは一応契約社員という形で、サッカーの練習や試合だけで報酬をもらってたと思います。

そう言えば大学時代の先輩だった長谷川健太さんは、いつも試合の後、一緒に食事に連れてってくれたんですよ。あるとき食事が終わったら「お前、ちょっとそっちにいろ。オレ大事な話あるから」って日産自動車の人と話をしてて。ケンタさんはそのまま日産に入ったんですけど、仕事はしてなかったんじゃないですかね。自分と同期で日産に入った井原正巳もそうだったと思いますよ。

そうやって実質プロ、サッカーでお金をもらってて会社の仕事はしないという人たちはいたと思います。いたけれど、でも、僕はいつまでそれが続くのかなって疑ってました。それにあのころの選手って、だいたい30歳ぐらいでチームを辞めていく感じだったじゃないですか。大学を卒業したら10年ぐらいで。

社員選手だったらサッカーを辞めたあと社業に戻って仕事をやれればいいけど、プロになっちゃったらどうなるかわからない。そういうのもあって、プロになることにはすごく不安がありましたね。

日本でプロとしてやっていくなんて実感はなくて。そんな歴史も何にもないところからプロを作ろう、10チーム作ろうとしたわけじゃないですか。だからどうなるんだろう、日本リーグ時代とそんなに変わんないんじゃないのかなっていう気持ちのほうが強かったんですよ。

それにプロになって、もし自分がダメだったらその時点でチームを辞めなきゃいけない、クビになる、そんなリスクもあるから。だったらヤマハ発動機の会社員のままチームに残って社員でいたほうがいいんじゃないかって。

あの当時は終身雇用制度で、会社員の生涯所得が2億円とか2億5000万円とかいってたころですからね。プロになるんだったらそこまで稼がなきゃ意味ないなって。

ただヤマハ発動機に入るにしても、サッカーで入ったら必ずサッカー部でプレーしなきゃいけない。確かにサッカーに携わりたいとは思ってたんですけど、サッカー部を辞めて社業に戻って働いていくときに、自分はどれくらい仕事ができるんだろうっていう不安もありましたね。

サッカーをやってると出世路線から外れるかなっていう心配もあって。会社の中で王道を行ってる人もいるんだけど、それはなかなか稀なケースだから、どうしようかなって。

実はヤマハ発動機に入るときも、ヤマハ発動機と教員と、あと証券会社とで迷ってたんですよ。証券会社に入ったOBの人から誘われて、1回断ったんですけど、その後も何回か誘われましたね。

「今までサッカーでいろいろ世界を回ってたけど、これからはお金を動かす世界で勝負してみないか」って。あのころはバブルでしたしね。この台詞はかっこよくてやばかったです。どうしようかなって迷いましたね。だけど、そこでいろいろ考えて、やっぱりヤマハ発動機の社員になろうって決めたんですよ。
それで1990年にヤマハ発動機に入ったんですけど、1991年にJリーグに加盟する10チームが発表されて、そこにヤマハ発動機の名前はなかったんです。

それでヤマハ発動機を母体としたプロチームのジュビロ磐田になってJリーグ入りを目指すということになり、ほとんどの選手とプロ契約をするってことになったんです。「で、お前はどうする?」って。一応社員でもやらせてくれるようなことも言われたんですけど、どうしようか迷って、最後は「どうせやるならプロのほうがいいのかな」って思って。サッカーを辞めたくないというのもあり、迷ったあげくのプロ選択というところですね。

実は大学卒業するときに、他のチームからも誘ってもらったんです。ヤマハ発動機と、読売クラブ、藤枝出身の方がいらっしゃった古豪のチーム、その他名門チームなど全部で6チームぐらいです。

いろんな話を聞いて最後は読売と古豪とヤマハ発動機で迷ってたんですけど、話を聞きながらオレやっぱりヤマハ発動機に行くんだろうなって、最終的にはヤマハ発動機かなって。やっぱり自分は静岡の人間だし、地元の会社っていうことが一番大きかったですね。

読売の場合は本当にプロっていう感じだったから、僕はそこでやっていけないんじゃないかって思ってたんです。「これはオレが行くべき場所じゃない」って。あまりにすごい人たちばっかりだから、試合には出られそうにないなって思ってました。

古豪チームはOBの方から熱心に誘われてましたし、大きな企業だし、そこも一つの選択肢かなって思ってたんですけど、やっぱり地元っていう気持ちが強かったですね。

それに、そのときのヤマハ発動機のスカウトをなさっていたのが、山本昌邦さんだったんですよ。フィリップ・トルシエ日本代表監督時代のコーチで、その後はジュビロの監督もなさった方なんですけど、本当に熱心に誘ってくださいました。

山本さんって、口うまいじゃないですか(笑)。「何年か後には日本人選手だけのチームを作りたいんだ」って熱っぽく語ってもらって「そうか! それすごいな!」って引き込まれていったんです。で、実際2002年にはGKだけオランダ人のアルノ・ヴァン・ズワムでしたけど、あとは日本人でしたからね。

Jリーグ入りを目指すジュビロと中山

プロになったとき、これで会社に戻れないけど、なるようになるだろうって開き直りましたね。そのときはヤマハ発動機で少しずつ試合に出てるようになってましたけど、でもやっぱり日本代表に入りたい、サッカーを続ける以上は代表に入りたいという気持ちはありました。自分の周りはどんどん入ってましたし。代表に行けばまた違う世界が開けるのかなって、そういう気持ちでしたね。

実はヤマハ発動機のプロ化が遅れたことで誘ってくれたクラブもあったんですよ。それが清水エスパルスで。ヤマハ発動機からエスパルスに行った同僚が2回ぐらい話をしてくれたんですけど、ケガしてたりということもあって「いや、もういいか。オレ、ヤマハ発動機残るわ」って、そのままヤマハ発動機と契約したんです。

それに、Jリーグ発足前のエスパルスに行ったら、日本代表への道が開かれないかもしれないって思ったんです。当時のエスパルスはクラブを立ち上げているところで、入団しても、まずブラジルに留学するという感じだったんですよ。

今だったら海外での活躍も網羅されてますけど、当時はブラジルでどれだけ活躍しても日本になかなか情報が届かない。ただ単に新聞や雑誌にブラジルでプレーしているという紹介記事が出るだけで、それだけじゃ無理だろうと思って。

だったらじゃあヤマハ発動機に残って、最後の日本サッカーリーグを戦い、次の一年は日本フットボールリーグ、Jリーグじゃないところで戦わなきゃいけないけど、最優先で目指してる代表入りのためには、そこで勝負するしかないっていう考えでしたね。
ただね、Jリーグが盛り上がったのにはびっくりしましたけどね。だって日本サッカーリーグのときとチーム名は変わったけど、選手はそんなに代わらないわけですよ。だけどサポーターの数が圧倒的に違うし、旗は振られるし、その当時はチアホーンも鳴り響いてるし。こんなに違うんだって。

そりゃ羨ましかったですよ。でも自分が選んだ道だから、そこでのし上がっていくしかないでしょうって。だから、盛り上がってる、プロとして成功してくれてるってことをありがたく思ってました。これから自分が向かって行く先にはそういう場所があるんだから。

そう考えることができたから、自分の決断に対して後悔はなかったですね。Jリーグの初年度からやりたかったという気持ちは強かったですけど、ジュビロも自分も成長していけたから、いい選択だったかなって思います。

中山が考える「成長の鉄則」

自分がプレーしていたころのジュビロって、いい若手がどんどん入ってきて、まとまりができてきたんで、ちょうどいい時期にいたかなっていうのはありますね。ありがたいです。

ヤマハ発動機に入ったときは、少しずつでも成長していけばいいなって思ってました。FWだったので、得点することが自分に自信を付けさせれてくれたし、自信が力になると感じました。そしてとにかく得点を取ってチームのためになる、そのためにはどうしなければいけないかっていうことを突き詰めて考えてましたね。

若いときは勢いでやってた部分はあるんです。そこに山本さんたちがコーチとして来て、いろんなことを理論的に、データ的にも教えてくれたんです。それから、「こんな場面ではこうしたほうがいい」「あのときはああしたほうがいい」っていうことを考えながらプレーしだして、さらに若い選手の成長があって、うまくチームが合致したときに得点王を取れたんです。

1回Jリーグで優勝したい、1回得点王取りたい、1回ワールドカップ出たいという目標設定をして、そこにどうやって近づいていくかを考えて。それで、その目標を達成したらもう一回っていう欲が出てきますよね。

それを欲張らなければ自分も成長できないのかなって、そう考えてました。その欲求があるからずっと高いところを目指して頑張れるのかなって。もうこれくらいでいいやって思ったら、たぶん下降していくだけなんですよね。

どんなにがんばってても下降していくのに、「これでいいや」っていう満足感を得たら、そのまま急下降しちゃうと思うんですよ。そのカーブをゆるやかにするためには、欲求がより強くないとダメなんです。
あと「思うだけじゃダメなんだろうな」って考えてます。思ったことを行動に移せるかどうか。行動にしてもそれが1回じゃダメだなって。継続できるかどうかってことが大切で。それも同じことを継続していくんじゃなくて、継続していく中で、気付きを得て、変化を加えていけるのかってところが大事なんだろうなって。それが22歳、23歳のときにわかってれば、もっともっと成長できたと思います。

僕はうまくなかったんですよ。スタートが低いからずっと成長できたし、ずっと成長し続けてるって思ってもらえるんですよ。僕自身はちょっとずつ小出しにするつもりはなかったんだけど、結果的には小出しして息の長いものになったんです(笑)。

あとは人との出会いであったり。いろんなところで学べる人というか、お手本になる人との出会いは大きかったかもしれないですね。

いずれは監督をやるんでしょ? って聞かれるんですけどね、監督ってね、難しいだろうなって。全選手に慕われる監督なんていないーーいるとは思いますけど、選手からしたら、何が一番いい監督かっていうと自分を使ってくれる監督ですから、そうしたら11人しか監督のことをよく思う選手はいないんですよ。

その中で、その選手を使うことを他の選手に納得させられるかどうかですよ。当然エースというのはみんなが納得する存在でしょう。けれど、その次に誰を使うかで、「なんでオレじゃなくてアイツなんだよ」っていう気持ちは持つと思うんです。

監督の使った選手が結果を出してくれればいいんだけど、出せないときにどう使っていくか。使う理由を普段の練習から示していけるかっていうのが監督なのかなって思います。そういうことをやりながら、どういうサッカーをやりたいかチームに浸透させられる、落とし込める監督じゃないとダメなんだろうなって。難しいと思いますよ。アイツもコイツもってできないから、そこは非情にならないと。

だから今はあまり興味がないですね。僕は選手をやりたいです。やっぱり選手が一番ですよ!

底なしの苦しみを覚悟した「ultra soul!」

僕が現役時代に聞いていたのは、B'zですね。「ultra soul」っていう歌は、2001年世界水泳選手権大会のテーマ曲で、サビの「ultra soul!」っていうところが耳に残ってたんです。けれど、一度歌詞を見たときに、とても考えさせられて。

栄光のためには底なしの苦しみを覚悟しようという意味の歌詞があって、「オレはまだ底なしという境地は迎えてない。どれだけの痛みを抱えないと祝福を手にできないんだろう」って思ったら、まだまだ甘いなって。

そういう歌詞が、自分がそれから何をしていかなきゃいけないかって教えてくれて、「確かにそうだな」ってリハビリをやったりしてましたね。リハビリのときは、何も聞かずにやるっていうことが基本で、もしかけるとしても音楽をかけるよりもラジオを流すほうが多かったですけどね。筋肉と対話じゃないけど、やりながらどこに力が入ってるんだろう、どこを鍛えてるんだろうって確認しながらじゃないと、筋肉がつかないんじゃないかって思ってましたから。
あとはUSEN(有線)音楽放送の、1980年代の歌謡曲をかけてました。中学から高校のときに流れていたアイドルの曲がかかると、グワーっとこう、そのエネルギーが出てくる感じがしますよね。

僕の中でいい記憶として残っているのは、中森明菜の「十戒」ですね。高校選手権で、予選リーグのときからその曲が流れると点が入ったという記憶があって、「十戒」を聞くとあのときブラスバンドが演奏してくれたのを思い出すんです。

僕、全国高校サッカー選手権に出たの1回なんですよね。高校のときって、静岡県の中で新人戦、インターハイ予選、選手権予選と、3年間で8回大事な大会があるんです。けれど、その中で県ベスト4に入ったのが高校2年の冬のとき1回だけで、そのとき県で優勝して、全国大会に出ることができたんです。

県大会の決勝って、ずっと押されっぱなしですよ。最初の30分間ぐらい。それが、クリアボールが相手ディフェンスラインの裏に出て、僕がDFに走り勝ってシュートを打ったのが先制点になったんです。そこからチームが波に乗って勝ったんですよ。

今でも思うんです。あのときのシュートを外してたら、僕はここにいないなって。シュートが入って、全国大会に行って、それが大学に行くことにつながって。あのゴールも僕にとっての転機でした。