水沼貴史が見せたマリノス愛 最後の日産選手が抱いた葛藤と決断

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水沼貴史の表情は読みにくい。どんなに辛かった話をしても、いつも笑顔を浮かべているからだ。もしも経験したらとても笑えそうにない場面のこともニコニコしながらあっさりと語ってくる。

現役時代のプレー同様に飄々としている水沼だが、今回のインタビューの様子は少し違った。自身の引退につながった場面について語ったからではない。そこまでは冗談めかした口調で軽やかに語っていた。

表情が変わったのは、自分が引退と心に決めた試合に何をしたかについて話したときだった。水沼は最後に何をしようと思ったのか。それまでと同じように語りながら、瞳は少し濡れていたような気がする。

インタビュー・文/日本蹴球合同会社・森雅史
写真/浦正弘 デザイン/桜庭侑紀
水沼貴史(みずぬま たかし)
元プロサッカー選手。1983年に日産自動車サッカー部(横浜マリノスの前身)に入部。木村和司氏らと日産の黄金期を築いた。個人タイトルとしてはアシスト王に輝いたほか、日本代表として国際Aマッチ32試合に出場、7得点を記録する。1993年、Jリーグ開催後もベテラン選手としてチームの柱として活躍。1995年、他チームへの移籍は一切行わずマリノス在籍のまま引退した。引退後は、歯切れの良い論調で様々なサッカーメディアにコメンテーターとして活動すると同時に若手の育成、強化に努める。
■チーム最年長の水沼が懸けた半年契約
自分にとっての転機は2つありました。最初は1993年5月15日です。Jリーグが開幕した日ですね。あれは間違いなく転機だったでしょう。それから現役最後の年、1995年なんですけど、その契約を結んだときですね。

所属していた横浜マリノスは1995年に新しくホルヘ・ソラリ監督が来て、体制が変わったんです。その前の1994年末には木村和司さんが辞めて(現役引退して) 、僕の目標がいなくなり、僕が一番年上になって。そのとき、「来年どうしよう? でも(木村氏と)一緒に辞めるわけにはいかないし、とりあえずやろう」ってことを考えたんです。

それで僕のほうからお願いして、1995年は1年契約ではなくて半年契約にしてもらいました。オレはやれるのかやれないのか、やったほうがいいのかどうか、半年で決めようという決断をして。それで半年だけの契約でシーズンをスタートしたんです。

その半年で自分の人生の先が決まる。プレーできて翌年の契約を結べるかどうか、半年に懸ける。そういうことを考えながら半年過ごしました。環境も変わるし新しい監督にもなるし、その中で自分がやっていけるかってことを試したいと思って。

当時のチームでは若い選手がどんどん出てきたので、レギュラーになれるかどうかわからなかったですね。僕のポジションは三浦文丈がレギュラーになりそうでした。でも、文丈が開幕のちょっと前にケガして、チャンスが来たんです。

1995年の開幕戦、鹿島アントラーズとの試合なんですけど、僕は34歳でスタメンで。でも、51分に24歳の選手に代えられたんですよ。「え?なんで代えらるの?」って。交代して納得がいけばよかったんですけど、「え?」っという感じで思ったんです。でもまあしょうがない。そう思い直したけど、それからは出場することもなく、悶々とした日々が半年続きましたね。
その年はシーズン途中に中断期間があって、僕たちはキャンプでオーストラリアに行きました。ちょうど僕はケガをしていたからメニューが全部はこなせなかったし、モヤモヤした気持ちがあったから、リハビリにも力が入っていませんでしたね。

「これは半年で考えようと考えていたけど、そこまで続けられるだろうか」って思っていたら、ソラリ監督がいつまで経っても合宿に合流しないんですよ。チームの中にも「なんで来ないんだ?」って空気が流れて、何がどうなったか今でもわからないんですけど、結局ソラリ監督は辞めることになったんです。

合宿が終わったときに、早野宏史監督が後任ということになりました。早野監督は前年からチームに来てベテランとの調整役をやっていたし、僕とはもともとアマチュアリーグ時代の日産自動車で一緒にプレーしていたんですよ。早野監督のポジションを奪ったのは僕だったんですけど。

それで、直接早野監督に聞きに行ったんです。「僕にチャンスはありますか?」って。そうしたら答えは「ノー」でした。「もういいんじゃないか?」「そろそろ次のこと考えたほうがいいんじゃないか?」って、はっきり言われて。そのときにオレにはもう出場する機会はないんだって思って、それで半年で辞めようと決めたんです。

自分にはもう一回出られるチャンスがない。交代させられる選手も若い。そういうふうにチームは若手にシフトしていくんだなって。和司さんも辞めてるし、そういう年齢なんだって自分も決断して。

他のチームに行くという手はあったと思います。だけど、僕は自分が好きで入ったチーム、愛しているチームで辞めたいって思ってたんです。だから、その年の開幕戦が、僕がプロとしてプレーした最後のトップリーグの試合になりました。
今でも後悔はないです。他のチームでやろうとは思わなかったから。移籍して他のチームでしっかりプレーできるという自信はあったけど、好きなチームでやることに意味があると思ってたので。日産、マリノスをそこまでにした自負もありましたし。そこで自分がいたチームはこれ1つだったというのを残したかったんです。

Jリーグが始まるときもいろいろ移籍の話はありました。いろいろ縁があるチームとかから熱心に誘ってもらったりして。でも僕は日産が好きだったし、マリノスが好きだった。だから残ったんです。
僕が日産に入ったときって同期が6人いたんですけど、その中で試合に出たのは僕が一番最後でした。みんなどんどんデビューしていたんです。柱谷幸一、越田剛史、田中真二は日本代表でしたから、当たり前に試合に出ていました。

境田雅章は途中出場だったけど出られて、杉山誠はレギュラーだった人が開幕でケガをして、大抜擢でセンターバックで出たんです。でも僕はずっとサブ。それこそ早野さんやいい選手が一杯いて出場できなくて、途中から出て点を取るのが続いて、そこから少しずつチャンスをもらうようになって、ようやく出られるようになりましたね。

ちゃんとレギュラーになったのが、入団した1983年の年末の天皇杯の直前です。日産とヤンマー決勝で戦って、日産が初めて優勝しましたけど、あのときようやくレギュラーになりました。

でもね、その同期の中で最後まで残ったのが僕だったんですよ。越田は一番最初に教員になるって辞めて、ハシラ(柱谷幸一)は、柏レイソルや浦和レッズに行きましたし、パオ(田中)は浦和に、杉山は鹿島に移籍していった。境田はずっと社員選手だったので、そのまま会社に残りました。

でも自分がチームに残されたってことは、自分はこのチームにいる意味があるって思ったんです。同期の中で最後なんだから、自分は残らなきゃいけないっていう思いもありました。

クラブとの約束は、当初半年やってみて、それから再契約っていう流れだったんです。でも「チャンスはない」って聞いた瞬間にスパッと「もう辞める」って。だから、最初に半年契約にしたことで、自分の人生が変わったと思います。
■愛するマリノスで何かを残して終わりたい
辞めると決めて、チーム関係者には話したけど、まだ発表していないというときに、三ツ沢球技場で和司さんの引退試合があったんです。その試合は和司さんのための試合なんだけど、自分の中ではオレの引退試合にもしようと。
「ありがとう、木村和司」みたいな中で、そこに乗っかろうと思って。僕が花束を和司さんに渡すんですけど、心の中では自分にもくれよって思ってました。

自分は引退試合をやってもらえるとは思ってなかったし、実際にやらなかったし。だからその試合を誰にも言わずに引退試合にしようと思って、初めて息子の宏太(現C大阪)をピッチに連れて行ったんです。何かを伝えようと思って、手をつないでピッチに入ったんですよ。宏太はその時のことをちょっとだけ憶えてました。

引退試合が終わったと思ったら、強化部長の境田がやってきて、翌日のサテライトリーグ(Jリーグの控えメンバーによるリーグ戦)の試合に出るように言うんです。試合直後に「貴史、明日のサテライトに行って」って。

正直、「ちょっと待ってよ」って思いましたよ。オレが辞めるのって境田は知ってるわけですよ。オレの中ではもう終わった、区切りがついたって思ってるのに、なんでサテライトリーグなんだよって。非情だと思いましたね。
だけど、行くしかない。それで「わかった」って言って翌日秋津サッカー場に行って。で、ゴールを決めて勝ちました。

外では僕がどんな思いでプレーしてるかわからなかったでしょう。和司さんの引退試合のときもそうだし、翌日のサテライトの試合でも。自分の中での区切りをどっかでつけよう、結果を出そうと思ってて。そうしたらゴールという結果がちゃんと出て、最後の幕が引けました。あそこでゴール取ってなかったら、もうちょっとやってたかもしれないですね。そういうのはあったかもしれません。まぁゴールが記念になったって言っても自分の中だけですけどね。世間の人は知らなかったんで。
1995年、マリノスはファーストステージに当たるサントリーステージで優勝するんです。優勝を決めるときはベンチの後ろの少し下がっているとこから見ていて、「優勝した」って思いに浸っていました。

それまで日産ではリーグやカップ戦で優勝していたけど、Jリーグになってからは優勝できなくて。僕はJリーグのタイトルがないまま引退するのかもしれないと思っていましたから、自分がプレーしたシーズンで、自分は出てないけど最後に優勝するところをチームの一員として見られてよかったと思ってました。

ヴェルディとのチャンピオンシップは複雑な思いで見てましたけど、もうちょっとやっておけばよかったというのは、あまり思わなかったですね。ボロボロになるまでやれればよかったんじゃないかって人は思うかもしれないけど、自分の中では愛するクラブで何かを残して終わりたいと思っていたので、それでよかったんです。

日産とマリノスの歴史の中では、自分の好きなクラブで最後までプレーして、そこに何かを残して辞めた人たちがたくさんいるんですよ。その思いが今に伝わってくれていればいいと思いますし、それがクラブの歴史の中に残っていてくれれば、そうやってつながっていてくれれば、とずっと思ってます。
■四半世紀を経てリアレンジされるJテーマ曲
僕がずっと聴いていた曲は、「J'S THEME(Jのテーマ)」ですね。1993年のJリーグ開幕で聴いたんです。試合前のロッカールームなんかで。そのときからずっと、試合前のウォーミングアップのときに聴いて、試合に集中していったというのがあります。ウォークマンにヘッドフォンをつけて聴いていました。アップテンポな曲じゃなくてバラードなんですけど、すごく気持ちが盛り上がって。

今年Jリーグ25周年の記念として、「J'S THEME(Jのテーマ)」が8月にリアレンジされて出たんです。そのブックレットには川淵三郎元チェアマン、村井満現チェアマン、ギタリストの春畑道哉さんの鼎談(ていだん)が載っているんですけど、そこに僕と宏太もインタビューされて載ったんですよ。
1993年5月15日のJリーグ開幕戦でピッチに立ってた僕と、そのとき国立競技場に見に来ていて、今は同じJリーグの舞台を踏むようになった宏太の話を聞くという企画をもらったときは、本当にうれしかったですね。

それに、自分が聴いてモチベーションを上げていた曲だし、試合の入場のときに聴いていた曲、Jリーグと言えばこのテーマだろうという曲が、25年、四半世紀経ってリアレンジして出るって意義があると思います。いい曲は語り継がれるべきですよ。