フリーエージェント20年史(1) 1993年〜1997年

 12月18日、埼玉西武から国内フリーエージェント(FA)宣言していた涌井秀章が、千葉ロッテとの契約に合意。今オフにFA権を行使した8選手の動向がすべて決まった。涌井を含め、FA制度が誕生してから国外を含む他球団にFA移籍した選手数は、延べ97人。そのため、今ではFA移籍のインパクトが大きくなくなってきたものの、誕生当初は日本中の注目を集めるものだった。

 FA制度が導入されたのは、1993年のオフ。初年度の有資格者は52人(現役引退8名を除く)いたが、この年に宣言したのは5選手だけだった。第1号は、1993年に3試合連続先頭打者本塁打の世界新記録を作った松永浩美(阪神)。オリックス首脳陣との確執から、1992年オフ、野田浩司とのトレードでタテ縞に袖を通した松永は、1993年シーズンは故障もあって出場80試合、打率.294、8本塁打、3盗塁と、本来の輝きを放てなかった。放出した野田が同年にオリックスで17勝をマークしたこともあって、松永は阪神Bクラス(4位)転落の責任を一身に背負わされることになった。そんな状況に耐えられなかったのか、松永は1993年11月3日、「縁がなかったということ」とFA宣言し、地元・九州のダイエー(現・福岡ソフトバンク)に移籍を決めた。

 FA移籍に先鞭(せんべん)をつけたのは松永となったが、「幻の1号」は岡田彰布(阪神)だった。岡田は選手会の3代目会長としてFA制度導入の中心的役割を担い、制度の浸透を狙ってFA宣言を検討していた。しかし、1993年で36歳を迎えた岡田を獲得しようと名乗り出る球団が現れる可能性は低く、そのまま現役引退となる危険性があった。そのため、現役続行の希望を最優先し、FA宣言を断念したのだった。

 制度が導入されてからFA宣言した選手数を見ると、初年度は5選手しかいないが、翌1994年は16選手に増え、以降は1995年・11選手、1996年・8選手、1997年・11選手と推移し、5年間で合計51選手。しかし、実際に移籍となったのは、別表のとおり17選手しかいない。これは当時、FA宣言しても他球団との交渉テーブルにつくことなく、それまでの所属球団から功労金という名目で再契約金をもらい、契約を更改するケースが多かったためだ。

 そして、これによりプロ野球選手の年俸は急激に高騰することになった。FA制度が導入された1993年には29人もの1億円プレイヤーが誕生。日本経済はバブルが弾けて不景気へと転落し始めていたが、プロ野球界だけは景気のいい話が飛び交っていた。

 FA史を語るうえで欠かせない存在が、長嶋茂雄だ。1993年シーズンから第2次政権を担い、スローガンに『スピード&チャージ』を掲げたが、FA戦線でもスローガン同様、積極的に動き回った。1993年オフは、FA宣言した巨人の槙原寛己に対し、バラの花束を持って自宅を訪問。他球団との交渉の席につく前に残留を決めさせた。すでに40歳を超えていた落合博満(中日)には、「若い選手に生き様を見せてほしい」と、熱烈なラブコールを送り続けて入団を決意させた。落合は1993年12月21日に行なわれた入団会見で、「長嶋監督を胴上げするために来た」と語った言葉どおり、1994年、1996年は古巣・中日とのマッチレースとなったペナントレース優勝に大きく貢献した。

 ただ、長嶋のFA補強熱は、その後も止むことはなく、1994年にはヤクルトから広澤克実、広島から川口和久を獲得。1995年の河野博文(日本ハム)の獲得に際しては、1989年のドラフト2位で獲得した川邉忠義がFA史上初めての人的補償となった。そして、1996年には「僕の胸に飛び込んで来てくれ」のセリフで、吉田義男監督が「タテ縞をヨコ縞にしてでも」と意気込んだ阪神との争奪戦を制し、清原和博(西武)を迎え入れた。

 FAで補強を繰り返して巨大戦力となった巨人だが、生え抜き選手が出場機会を求めて国内の他球団に新天地を求めたケースは、2013年現在までで1例しかない。それが、1993年の駒田徳広だ。同じ一塁手の落合がFA宣言して巨人に加入することが濃厚だったことや、当時コーチの中畑清との確執もあってFA宣言となった。32歳で横浜に移籍した駒田は、マシンガン打線の主軸を担って1998年の日本一に貢献し、2000年に2000本安打を達成すると、バットを置いて現役を退いた。

 また、他チームのエースや四番を口説き落とし続けた長嶋茂雄をして、翻意させることができなかった例外が、1997年の吉井理人(ヤクルト)だ。中日、西武なども獲得に動くなか、巨人は吉井に対して4年12億円と破格の条件を提示。しかし、吉井は長年抱いてきた夢を実現させるべく、FA権を行使してニューヨーク・メッツと契約。日本人選手初のFA権を行使してのメジャーリーグ移籍を実現させた。

 FA制度が導入されて5年目、この吉井が下した決断が契機となって、FA移籍は新たな展開を迎えることになったのである――。

※フリーエージェント20年史(2)に続く

津金一郎●文 text by Tsugane Ichiro