(嘉義 27日 中央社)日本統治時代に丁稚(でっち)奉公先の家族と一緒に日本への帰国を誘われながらも、台湾に残った女性が、先日、憧れの日本旅行から帰国した直後に死亡していたことが分かった。

芸術家の謝東哲さんの母親、謝春金さんは1930(昭和5)年、現在の嘉義県新港郷古民村で8人兄弟の6番目として生まれた。しかし父親と母親は目と手にそれぞれ障害を持ち、一家の生活は困窮していたため、春金さんは幼い頃から日本人の家庭に丁稚奉公へ行き、農作業などを手伝っていた。

太平洋戦争末期の16歳の時、日本人一家は帰郷することになり、一緒に日本に行ってはどうかと誘われたが、故郷を離れたくないと断り、嘉義に残ったという。

東哲さんは母親から聞いた話として、その日本人一家が乗った船は、米軍の攻撃に遭い沈没したというが、春金さんは度々日本へ行ってみたいと口にしており、先日になって念願だった日本旅行に出掛けたという。しかし旅先で体調を崩し、台湾帰国後まもなくして帰らぬ人となった。

家族によれば、春金さんは20歳で結婚、24歳の時には夫と一緒に石を運んで小さなダムを作り、農作業に精を出すかたわら子育てにも励んだ。1959年には「八七水害」と呼ばれる災害に見舞われ、1966年には集団移転を迫られ、それに伴い借金も膨らんだが、6人の子供を養うため、午前2時には起床して仕事に出掛けたという。その後夫が寝たきりになってからは16年にわたって介護を続けた。

子供を立派に育て上げ、やっと待望の日本旅行に出掛けた金春さん。以前は自転車で仕事に出掛け、とても健康だったといい、突然の悲報に家族や親戚は驚きと悲しみに包まれている。

(江俊亮/編集:齊藤啓介)