[画像] 2浪早稲田「妹に進学を先越された」彼が抱く絶望


※写真はイメージ(写真:mits /PIXTA)

浪人という選択を取る人が20年前と比べて1/2になっている現在。「浪人してでもこういう大学に行きたい」という人が減っている中で、浪人はどう人を変えるのでしょうか?また、浪人したことによってどんなことが起こるのでしょうか? 自身も9年の浪人生活を経て早稲田大学に合格した経験のある濱井正吾氏が、いろんな浪人経験者にインタビューをし、その道を選んでよかったことや頑張れた理由などを追求していきます。

今回は三重高等学校から2浪して早稲田大学教育学部に合格。卒業後にテレビ局・リクルートを経て、現在は株式会社Syncで働く川岸建太さんにお話を伺いました。

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妹よりも大学進学が遅れる


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今回お話を伺った川岸建太さんは、2浪して早稲田大学教育学部に合格しました。

川岸さんには1歳年下の妹がいます。幼少期から成績がいい妹と比較されてきたことで、妹に対して苦手意識を持っていたそうです。

川岸さんが1浪の受験で落ちたときには、現役で早稲田大学に合格した妹よりも、大学進学が遅れてしまうことになりました。

しかし、その挫折があったからこそ、妹のことを尊敬することができるようになったと、川岸さんは言います。浪人生活が、どのように彼の心持ちを変えたのでしょうか。

川岸さんは、三重県・多気郡多気町で生まれ、土木系のエンジニアの父親、看護師の母親と、母方の祖父母、1歳下、6歳下の妹たちとの7人家族で暮らしていました。

中学までの川岸さんは野球少年。書道教室や、水泳教室、塾などにも通っていましたが、1歳下の優秀な妹と比較されることもあったそうです。

「小学校に入ってからの成績は40人中20位くらいで、中学校に入ってからもずっと同じような感じでした。最初の1年は親も『こんなものだろう』と思っていたそうですが、妹が1年遅れて小学校に入ったら、オール5ばかりで、成績があまりにもよくて衝撃を受けたそうです。私は妹と成績を比較されることが嫌だったので、当時はあまり仲良くありませんでした」

中学校に入ってからも、小学校から変わらない顔ぶれの同級生たち40人とともに学び、野球の練習の日々を過ごした川岸さんは、高校受験で地元屈指の進学校、松阪高等学校に行きたいと考え始めます。

行きたかった高校に妹が進学

「松阪高校に入りたくて、塾に入って勉強をしていたのですが、いけるかどうかギリギリだったので、三重高等学校の普通科特進コースを受験して、そこに進学しました」

すると翌年、川岸さんの妹は、川岸さんが行きたかった松阪高校に進学します。高校生になっても、妹に対する複雑な感情を拭いきることはできませんでした。

一方で川岸さん自身は、高校に入ってから野球をやめ、応援部に入ります。

「野球は大好きでしたが、高校では新しいことを始めようと思いました。ただ、ほかの部活なども見ましたが、しっくりくるものがありませんでした。どうせやるなら一生懸命打ち込めるものにしたいと思い、いろいろ迷っていたのですが、応援部の顧問だった担任の先生の勧めもあり、好きな野球に関われるからいいかな、と思って応援部に入部しました」

高校1〜2年生のときは、授業が終わった夕方から部活動に出て、20時〜21時に家に帰宅する生活で「応援部をしていること以外は普通の高校生だと思います」と当時の生活を語る川岸さん。

また、川岸さんは高校に入るまでは特に夢はなく、看護師だった母親の影響もあり「将来は医者になる」と周囲の大人に話していましたが、理系科目が得意ではなかったため、理系の進路は難しいとも、薄々感じていたそうです。

そんな川岸さんに、高校3年生になる直前に人生を変える出来事が起こります。それが、早稲田実業の甲子園出場でした。

「これまでも早稲田のOBの先生に話を聞いていたのですが、あまり興味はありませんでした。ただ部活動で、コンバットマーチなど、早稲田の応援部の音楽を使っていたので、『一度見に行ってみよう』と思い、高校3年生になる3月に、甲子園に足を運んだのです。そこで私は、早稲田の雰囲気や、応援歌の『紺碧の空』に圧倒されました。ここまで愛校心がある学校は見たことがなかったので、かっこいいと思いました」

早稲田しか行きたくない!と想い募らせる

こうして川岸さんは、志望校を早稲田に設定して、高校3年生のはじめから3教科に絞って勉強を開始します。

すると2カ月後にまた、彼の早稲田愛をさらに深める出会いがありました。

川岸さんは高校の応援部の同期を誘い、早慶戦を見るために神宮球場まで向かいます。すると、2カ月前の甲子園球場で、早稲田実業のアルプススタンドで応援していた1歳年上の応援部の団長が、早稲田大学の応援部の1年生としてその場にいたのです。

「甲子園の早稲田実業の応援のとき、『学生注目!』と大きい声を出して客席を盛り上げていたのがとてもかっこよくて、印象に残っていたのです。そこで、思い切って声をかけて、三重高校で応援部に入っていることを伝えたら、『一緒に応援やろうぜ、早稲田こいよ!』と返してくださいました。それが、『早稲田に行きたい、早稲田しか行きたくない』と思う、大きなきっかけになったんです」

そこからひたすら早稲田のことを調べた川岸さんは、早稲田のサークルが発行している受験情報誌『早稲田魂』を買って読んだり、早稲田関連の動画を検索して見ることで、自分自身も早稲田に入って、応援をしている姿を想像しながら日々勉強に励みました。

しかし、夏に高校の応援部を引退してから本腰を入れて勉強を始めたものの、河合塾全統模試の偏差値は40程度。かろうじて50を超えていた日本史も、早稲田で通用するレベルではありませんでした。

この年は東進ハイスクールには通っていたものの、基礎も何もできてない中での勉強のためにあまり効果がありませんでした。

「何もわからなくて、現代文も古文も英語もすべて適当に読んでいる感じでした。現役のときは早稲田の商学部・教育学部・文化構想学部を受けたのですが、受かるはずがなかったですね。それ以外に地元の大学を2つ受けて、どちらも受かったのですが、どうしても早稲田に行きたかったので浪人しました」

成績が上がらないことから、12月ごろには浪人を覚悟していた川岸さん。

いざ、浪人を決断した理由は、「応援部の先輩と一緒に応援したいという気持ち」と、「甲子園や早慶戦で見た早稲田の雰囲気が忘れられないこと」が大きかったようです。

「ほかの大学のオープンキャンパスにも行ってみたのですが、早稲田ほどの母校愛を感じることはありませんでした。みんな頭がいい人なのに、バカなことを全力でやっているのが素敵だなと思ったのです」

こうして浪人を決意した川岸さんですが、母親からの「東京で浪人をしたほうがいいのではないか」という提案を受け、高田馬場にある早稲田予備校に通うことを決めます。

西早稲田にある家賃4万円のアパートに下宿しながら予備校に通った川岸さんは、平日の授業がある日で2〜3時間だった前年度よりも大幅に勉強時間を増やし、1日12〜13時間の勉強を続けます。

そこで「ようやく基礎がついてきた」と語るように、この年最初の河合塾全統模試で40だった偏差値は、夏には50、10月には55を記録しました。

11月に勉強のペースがガクッと落ちた

しかし、順調に成績を伸ばしていた川岸さんでしたが、11月にその勉強のペースがガクッと落ちます。

「11月まで基礎を固めて、ようやく過去問を解き始めたのですが、まったく解けなかったんです。難しすぎて、もう早稲田に受かるのは無理なんじゃないかと心が折れかけてしまい、12月以降は勉強時間が5〜6時間くらいになりました」

万全の状態でないまま本番を迎えたものの、この年も川岸さんは早稲田一本。教育学部、商学部、文学部、文化構想学部、人間科学部の5学部に出願して、全落ちしました。

「『2浪してしまうかもしれない』とは思っていました。でも、当時は(自分自身が)尖っていたのもあって、絶対早稲田しか行きたくなかったんです」

さらにこの年、1歳年下の妹が早稲田大学の政治経済学部に合格。川岸さんより先に、早稲田生として生活を送ることが決定したのです。

妹に先を越されてしまったものの、親にもお願いして2浪を決めた川岸さん。

彼は前年の失敗を「根を詰めてやりすぎたこと」だと分析し、「自分の好きなペースで授業を受けたほうがいいかもしれない」と考え直して、代々木ゼミナールの単科コースを受講することにしました。

「開示はしていませんが、おそらくどの学部も4割も取れてないと思うので惨敗です。日東駒専(日本大、東洋大、駒澤大、専修大)に受かるくらいの学力だったので、結果的に難しかったのですが、いちばんの失敗は、ある意味勉強をやりすぎたからですね。

メリハリをつけずに11月まで勉強を頑張ったのですが、過去問が解けないとわかったときには、早稲田の壁の高さを感じ、絶望感を覚え、勉強のペースがダウンしてしまいました。だから、この1年は前年と違って、『1年間ペースを落とさずにちゃんとやり切ること』を意識しました」

2浪目であえてバイトを始めた

この年は1日12〜13時間していた勉強を、9〜10時間に抑えて、週2で夜に新宿の居酒屋でアルバイトをするというメリハリをつけた生活を続けました。

川岸さんは「バイトしている時間は勉強ができないから、かえって勉強できるときには時間を無駄にできないと思って集中できるようになった」と2浪目の生活を振り返ります。

そうした生活習慣を続けたことが奏功してか、最初のほうの模試では偏差値が55だったものの、最後のほうには65〜66程度まで上昇しました。

「早稲田はどの科目も文章を読めるようにならないといけなかったので、『文法』よりも『読解』を大事に考えて文章を読むようにしました。現代文は笹井厚志先生、古文は元井太郎先生、英語は佐々木和彦先生の単科コースの授業をそれぞれ熱心に聞きました。代ゼミのトップ講師の授業はとてもよかったですね。特に元井太郎先生には、古文だけでなく、英語や現代文にも通用する考え方を教えてくださったのでとても感謝しています」

こうして1年間、ペースを守り抜いて受験勉強を続けた川岸さんは、ついに3度目の早稲田大学受験を迎えます。

事前に受けた明治大学・法政大学に合格した状態で、文学部・文化構想学部・教育学部・人間科学部・商学部・スポーツ科学部・社会科学部を受験しました。この中で手応えがあったのが、教育学部と人間科学部だけで、結果発表がともに2月27日と同じ日だったためにとても怖かったそうです。

「発表当日は、当時すでに早大生だった妹に『隣にいてくれ』とお願いして、『大丈夫だよ』と支えてもらいながら発表を見ました。人間科学部の発表で合格していることがわかった瞬間、妹と一緒に『ウォーーー!』と叫びました。『後輩だね』と言われましたね(笑)。その後に発表があった教育学部も合格していて、最高の1日でした」

こうして川岸さんは2浪で、念願であった早稲田大学教育学部に、妹の後輩として入学することが決まりました。

憧れの応援部の先輩とも再会

早稲田に入ってからの川岸さんは、3学年上になった応援部の先輩に合格を報告。「やったな!一緒に応援できるな!」と祝ってもらい、憧れていた早稲田の応援部に入って、夢だった早慶戦での応援を実現させます。

『早稲田魂』を常にカバンに5冊入れて持ち歩くほどの早稲田愛を抱いて大学生活を送った彼は、いろんなサークルに顔を出して友達もたくさん作り、2016年には早稲田祭の名物企画、『早稲田王決定戦』に出場して早稲田王に輝きました。


早稲田王に輝いた川岸さん(写真:川岸さん提供)

彼に浪人してよかったことを聞くと、「リスクを取ることを怖がらなくなった」、頑張れた理由については、「早稲田に恋してたから」と答えてくれました。

「早稲田は人も雰囲気もすべてが理想で、ここに行かないとその後の人生が想像できないと思っていました。結果的に浪人を経て早稲田に入り、世間体を気にしなくなったのはよかったと思います。自分が本当に挑戦したいことに、心が向けられるようになりました」

「自分が信じたものに対しては、人から何を言われようと、殻を破っていいと思えた」と語る川岸さんは、新卒で名古屋のテレビ局に入社し、その後リクルートに転職。現在は、社会課題特化型転職エージェントの「SOCIAL IMPACT CAREER」を運営する株式会社Syncにて、社会課題と向き合う仕事をしながら、応援団としての活動も続けています。

「今、私は教育問題や、地域格差に立ち向かっているベンチャー企業を人材面で支援するエージェントに勤務しています。私自身は選択肢が少ない田舎で生まれ育ちましたが、両親にたくさんのことを経験させてもらいました。

早稲田に挑戦したことで、その後多様な人生を歩む方々に出会い、自分自身も想いに沿った選択肢を選べる人生を送れています。私も多くの人に、個々人の想いのままに人生を歩めるよう、選択肢を与えられる人間になりたいと思っています。だからこそ、世界をよくしようという想いを持つ企業様と一緒に仕事をしていきたいと考えています。

また、私自身は現在プロスポーツチームの応援団に所属し、仕事のかたわら応援団としての活動を続けています。今後も仕事と応援活動を両立して、よりよい社会の実現に尽力していきたいと思います」

苦手だった妹とも仲良くなった

そして、かつて苦手だった妹とも、大人になってからはとても仲良くなったそうです。

「小さいときは頭のいい妹が苦手だったんですが、自分が2浪もした早稲田に現役で入ったことで、心からすごいなと尊敬できるようになったんです。妹は最近、パレスホテル東京で、早稲田の同級生(川岸さんの1学年上)と結婚式を挙げたのですが、その際の出し物として、応援団のパフォーマンスをして祝わせてもらいました。今でも妹とはずっと仲が良いですね。妹と一緒に、早稲田生活を送れてよかったです」


川岸さん(写真:川岸さん提供)

人から応援されたことで浪人を頑張り抜き、自分の人生を切り拓いた川岸さんだからこそ、これからも身近な人や、志を抱く人を応援し続けていくのだろうと思いました。

川岸さんの浪人生活の教訓:自分の道をひたむきに進めば、運命は変えられる

(濱井 正吾 : 教育系ライター)