[画像] 【高鳥 都】絶海の孤島で「32人の男」たちが命をかけて奪い合った「1人の日本人女性」…一世を風靡した「アナタハンの女王」が西成で工員から頭をカチ割られ、故郷に戻るまで

太平洋戦争下、絶海の孤島に取り残された33人のうち、男は32人、女は比嘉和子たった1人。和子をめぐり、命をかけた壮絶な殺し合いが繰り広げられた。帰国後、彼女は愛欲、情欲にまみれた“アナタハンの女王”として一気に時の人となり、映画にまで主演するが……。前編に引き続き、気鋭のライター・高鳥都氏のルポを雑誌『昭和の不思議101』(大洋図書)からの改訂版でお届けします。

前編記事『太平洋戦争末期、「女1人男32人」の日本人が絶海の孤島に取り残される…「和子さん」を奪い合う「壮絶な殺し合い」の顛末と帰国後、彼女が主演した「究極のキワモノ映画」の悲惨な舞台裏』より続く。

あまりにも悲惨な出来

「戦後公開された日本映画中、もつとも非映画的な一篇と云える」(進藤純太)──当時の『キネマ旬報』に強烈な酷評が残された『アナタハン島の眞相はこれだ!!』だが、その後フィルムセンター(現・国立映画アーカイブ)の「発掘された映画たち2009」などで上映されて、悲惨な出来が話題となった。

画も音もガタガタ、とても53分の中篇とは思えない冗長さのなか殺し合いが起こり、もっさり比嘉和子史観の悲劇が再現される。ミミズを食べるシーンもさらっとやってのけている。和子をめぐる男たちを演じたのは劇団東芸のメンバー。のちに時代劇の悪役として活躍する高野真二や声優・大塚周夫の若き日の姿が(かなり見づらいものの)確認できる。

『アナタハン島の眞相はこれだ!!』を製作したのは「新大都映画」。なにやらスケールを感じる社名だが、あっという間に消えた群小プロダクションであり、アナタハンでひと儲けを狙った新大都映画の社長・吉田正憲が起こした“事件”については後述しよう。

監督は、吉田とし子──本作は53年12月に公開された田中絹代の『恋文』より半年以上早く世に出ており、戦後日本の劇映画における女性監督の第一号だ。新聞広告には「日本唯一の女性プロデューサー」として吉田の名も喧伝されており、映画本編のオープニングにみずから登場し、高級車から降りた和子とやり取りをするシーンまで用意された。

だが、『アナタハン島の眞相はこれだ!!』の監督、クレジット上は「吉田とし子」で間違いないが、いくつかの事前資料では「盛野二郎」となっている。どういうことなのだろうか?

『僕らを育てた声 大塚周夫編』(アンド・ナウの会)によると、本作の出演者である大塚が「男だと思いますよ」と答えており、現場での演出は盛野二郎であったと回想している。盛野は記録映画の監督であり、かつて東京日日新聞の映画部に所属、和子の後見人・伊波南哲も同社の特派員を務めたことがあり、その関わりから映画の話を持ちかけられたのかもしれない。

しかし、伊波ともども、盛野の存在は和子の前からフェードアウトする。ドキュメンタリー畑のスタッフによって作られた劇映画だが、宣伝のため興行のため(表向きは)女性の名誉を回復する映画であることをアピールすべく、プロデューサーの吉田とし子を監督に仕立てたのが“真相”だろうか。

「スタッフを人質に…」トラブル続出の撮影現場

「逆三角みたいな顔してニコニコしててね。体もちょっとブヨブヨっとしてましたけどね。で、日本語があんまり上手くなかったんですよ」──大塚周夫は比嘉和子の第一印象をこのように振り返っており、現場では細かく注文されると「ヤリタクナイヨッ!」「シラナイヨッ!」と答えていたという。いくらカネのためとはいえ、やりたくもない映画に出演すれば、そうもなるだろう。

「全世界の話題をこの一篇に集結せる新大都映画春の超特作!」として比嘉和子のギャラ200万円と宣伝された低予算映画『アナタハン島の眞相はこれだ!!』は、4月9日から都内14館をはじめ各地で上映される。しかし、すでにアナタハンブームは下火であり、興行は散々。映画の出来同様の結果となった。

さらに仁右衛門島におけるトラブルも噴出。新大都映画はロケの謝礼や宿代、電話代、渡船料などを支払わず、旅館にはスタッフの一員である照明技師・田中正一を人質として残す始末であった。

1ヶ月が経過しても音沙汰がなく、社長の吉田に連絡したところ、「ボヤボヤせずに逃げてこい!」。憤慨した田中は、旅館の主人と相談して鴨川署に被害届を提出。新聞沙汰となって「房州でもアナタハン騒動」と報じられた。

映画詐欺の常習犯・吉田正憲

なんと新大都映画の吉田正憲は映画をネタに詐欺を繰り返してきたプロデューサーであり、かつて「大京映画」を立ち上げてスターを夢見る男女1200人から600万円を詐取した前科があった。「醜女でもスターになれる」と顔にコンプレックスのある者まで“個性”とおだてて餌食にし、あげく女優志望の19歳を下宿先の女中に。実績づくりとして『陰獣をめぐる七人の女たち』という江戸川乱歩めいた映画を製作し、続いて沼崎勲主演の日韓メロドラマ『三十八度線』に着手するが完成せず、これまた未払い騒ぎを起こしていた。

この吉田正憲、戦前からの興行師であり、西日本藝能新聞社の社長として『藝能春秋』を刊行していた。ここでも九州キネマプロダクション」という(また大げさな名の)映画会社を興し、ニューフェイス採用試験を実施。博多で起きた「美人マダム殺人事件」の映画化を発表したが、果たして完成したのかどうか……アナタハンへといたる実話志向が感じられるが、それはさておき名古屋でも同様の事件を起こしており、当時から現在にいたるまで映画がらみのニューフェイス詐欺やワークショップ商法のたぐいは絶えない。

さて、新大都映画はどうなったか。『アナタハン島の眞相はこれだ!!』に続いて『剣劇女優とストリッパー』を完成させるが、そのほか公表していたキワモノ企画は挫折。戦前のスター志賀暁子の堕胎事件を本人主演で映画化という「暁子の半生記」、女8人に男1人の孤島もの「地獄の女たち」もことごとく幻となった。

アナタハンで儲けるどころか、背負った借金400万円──「新大都映画配給」という架空の会社をつくり、株式申込証拠金として15人から35万円を詐取し、またも手錠をかけられる。

吉田正憲だけでなく、専務の岩淵とし子も逮捕……そう、彼女こそアナタハン映画の監督「吉田とし子」であり、その実体は社長の愛人であった。クレジット上、戦後初の劇映画を手がけた女性監督はこうして映画界から消えた。

かくして、新大都映画は崩壊。50万円のギャラのうち20万円を取りっぱぐれた比嘉和子はアナタハン映画のフィルムを渡され、北海道から東北、北陸へと地方巡業の旅に出る。マネージャーの徳重宏樹やストリッパーらとともに。しかし、ますます興行価値は失われており、みじめなドサ回りとなった。

「アナタハンの女王」の意外な最期

もちろんギャラは徳重にピンハネされ、手元に残ったわずかなカネも本人いわく「あのころ、勝負ごと好きだったからね」。競輪、競馬でスッて消えてしまう。巡業中の6月には根岸明美主演、ジョセフ・フォン・スタンバーグ監督の大作『アナタハン』が公開されるが、こちらも不発に終わった。

ついに徳重と別れた和子は、無一文となって大阪西成へ。バーや連れ込み旅館で働き、酔った勢いで工員に頭をカチ割られて“転落の女王”と報じられてしまう。故郷の沖縄に戻り、やがて荷車職人と再婚。夫亡きあとも働きながら2人の連れ子を育てあげた。「あじゃこじゃ、もう言うことないですよ」と語りながらサービス精神たっぷりに過去を振り返った“カズおバア”は、家族に囲まれ脳腫瘍で亡くなった。享年51。

新大都映画を潰した吉田正憲は、文化ニュース映画社を設立。大手新聞社によるニュース映画各社に挑み、記録というかたちで実話への執着を続けた。他社に先駆けてイーストマンカラーによる天然色シネスコ撮影を敢行し、出版業にも進出。いつも恋をし、若い女性秘書に囲まれて仕事をしたというが、ニュース映画はその役割をテレビに取って代わられ、文化ニュース映画社もまた消滅した。

ブームが去っても“アナタハンの女王”をモチーフにした小説、映画、舞台は折々に発表されており、昭和から令和まで人々の下世話な興味をあおり続けている。幻の映画と思われた『アナタハンの眞相はこれだ!!』のフィルムまで発掘され、果てはこうして記事となっているのも、その証だ──。

太平洋戦争末期、「女1人男32人」の日本人が絶海の孤島に取り残される…「和子さん」を奪い合う「壮絶な殺し合い」の顛末と帰国後、彼女が主演した「究極のキワモノ映画」の悲惨な舞台裏