鎌倉幕府2代執権・北条義時を支えた三浦義村とはどんな人物なのか。『松村邦洋「鎌倉殿の13人」を語る』(プレジデント社刊)を書いたタレントの松村邦洋さんは「NHK大河ドラマでは描かれなかったが、武家社会の礎を築いた大功労者だ。もっと評価されるべき武将だ」という――。

■実は『鎌倉殿の13人』最終回を早いうちから知っていた

ついに最終回を迎えた『鎌倉殿の13人』。全部観なきゃ死ねない! というくらい気合を入れて1年間、楽しませていただきました。脚本の三谷幸喜さんは、『草燃える』を全部観て、その名シーンをコミカルに作り直すだけじゃなくて、物語全体の骨組みを組み変えて、まったく新しいものに仕上げていたんですよね。本当に素晴らしかったです。

松村邦洋さん(画像提供=プレジデント社)

見どころは数えきれないほどありましたが、最終回でいきなり次の大河「どうする家康」主演・松本潤さんが演じる家康が出てきてビックリ。

実は、ボクのYouTubeの「鎌倉殿の13人撮って出し」の中で以前、思いつきで「最終回に『吾妻鏡』を読んでいる松ジュンさんが出るんじゃないか?」と話していたんです。家康が『吾妻鏡』の愛読者なのは有名ですからね。

そうしたら三谷さんから電話がかかってきて、「誰から聞きました?」と。「何のこと?」「それ当たってますんで、この発言はしばらく控えてください」と。で、ずーっと黙っていました(笑)。テキトーなことを言っていても、数打ちゃ当たるものなんですね。

■大河ドラマでは描かれなかった史実

それにしても、最終回はすごかった。タイトルの“13人”が死者の"13人"でもあったとは。しかも、息子・頼家の死の真相を知った北条政子が、実の弟の主人公・義時を……という誰も想像できなかった結末でした。「自分がついた嘘は覚えておかないと」という政子の言葉、よかったですね。

義時が62歳(数え年、以下同)で死んだのは1224年。承久の乱が起きた1221年の3年後です。他の登場人物はその後どうなったんでしょうか。

これまであまり知られていなかった歴史上の人物について、『鎌倉殿』を観たら急に気になり出した、という方もおられると思います。『吾妻鏡』など史料に残されたことを順番に見ていきますね。

■幕府の命運を握っていた三浦義村

まず、ドラマの中で義時に毒を盛った3番目の妻ののえ=伊賀の方は、史実では義時の死後すぐに兄の伊賀光宗とともに、義時との子である政村を執権に、娘婿の一条実雅を将軍にしようとします。

伊賀の乱と呼ばれている反乱なんですが、その北条政村の烏帽子(えぼし)親、つまり実の親にひけをとらない世話役が三浦義村なんです。

幕府内で力のあった義村は、義時の嫡男・泰時ではなく政村のほうをバックアップしても別におかしくないんです。実際に、「義村が伊賀の方と密談した」という噂も流れたそうです。

尼将軍の政子はヤバいと見て、義時の弔事のために京都から戻ってきたばかりの泰時を、すぐさま執権の座に就かせます。そして、義村の邸宅を直接訪ねて、「あたしはね、あんたたちとは争いたくないのよ」と、義村が政村じゃなくて泰時のバックにつくという確約をもらいます。

結局、伊賀の方と光宗は流刑に処されましたが、義村は新執権の泰時のところにも出向いて釈明したので、大事にはいたりませんでした。政村もたいした罪には問われずに、その後7代目の執権になっています。

■ドラマでは怪しい動きの連続だった

実は、主な登場人物は義時と近い時期に次々と死んでいるんです。かいつまんで言うと、三善康信は承久の乱の直後に82歳で病死、大江広元は義時が死んだ翌年の1225年7月に78歳で、政子も翌8月に69歳で没しています。

逆に長生きしたのが、この三浦義村ですね。史実ではずっと義時の盟友として北条をバックアップしたことになっていますけど、『鎌倉殿』で山本耕史さんが演じた義村は、義時の親友でありながら、なかなか食えない奴でしたね。

写真=時事通信フォト
山本耕史(=2018年10月24日、第19回ベストフォーマリスト授賞式。東京都港区の明治記念館) - 写真=時事通信フォト

『鎌倉殿』では、頼朝が死んだ後、源氏や北条を裏切ろうとする御家人は必ず義村を仲間に引き入れようと近づいてきて、そのたびにアヤシイ動きを見せていました。実際、3代将軍・源実朝暗殺の黒幕説が昔から言われ続けてきた通り、ドラマの中でも実朝、あわよくば義時まで公暁に殺させようとしましたね。

最終回での義村も凄く見応えがありましたね。

自分に盛られた毒を調達したこと、承久の乱で裏切りを画策していたことを知った義時と義村はサシで向き合いました。

毒入りかもしれない酒を前に、義村は義時に対する友情と、それとは裏腹のライバル心、嫉妬心なんかを全部ぶちまけていました。

そんな義村は義時が死んだ後、どうなったのでしょうか。承久の乱のちょっと前あたりから、義村の動きを振り返ってみますね。

■義村目線で見る承久の乱

承久の乱が始まる前、後鳥羽上皇とその周りは、鎌倉の御家人たちに「義時を討て」という宣旨さえ出せば、みんな義時に背くだろう、と見立てていました。

結末を知っている今の人から見れば笑ってしまうんですが、やっぱりあの頃の朝廷の威光はそれだけのものがあったんですね。

実際、京都にいた三浦義村の実弟・胤義(たねよし)は早々と幕府を裏切って、兄の義村に「義時はキライだろ」「こっちに来い」と誘いをかけていますが、無理もないんです。

それが政子の演説一発で情勢が正反対に。義村は御家人たち宛ての宣旨を持って京都から鎌倉入りした押松という男を捕らえ、胤義からの書状も義時に見せて忠誠をちかいます。

そして、大江広元や三善康信に叱咤(しった)激励されながら、北条泰時を総大将とする19万の軍勢が京都を目指すんですね。もちろん、その主力の東海道軍10万超の中に、義村も入っています。

画像提供=プレジデント社
義村の話に熱くなる松村さん - 画像提供=プレジデント社

■ドラマではハショられた乱の後

朝廷軍も対抗しますが、大激戦の末、幕府軍が宇治川を越えてからは総崩れ。『鎌倉殿』ではハショられましたが、後鳥羽上皇は比叡山に隠れたり京都に戻ったり。

朝廷軍の総大将・藤原秀康――星智也さんがカッコ良かったんですが――は、「オレが戦をやりたかったわけじゃない」とのたまった後鳥羽上皇に京都の御所から締め出され、奈良方面に逃げたものの捕まって死刑となりました。

胤義は京都の東寺に立てこもり、義村に再会したという記録が残っていますが、義村は「アホと掛け合っても無駄だ」とさっさと立ち去っています。

胤義は自害して、鎌倉に残した子供たちも処刑されています。秀康や胤義だけでなく、朝廷側についた御家人はことごとく死刑。所領も幕府軍の御家人たちに山分けにされています。

■天皇を廃位にして新しい朝廷を作る

1221年6月、幕府軍は京都を占領します。と同時に、義時から宮中守護を命じられたのが、他ならぬ義村でした。占領軍の司令官みたいなものでしょうか。さらに息子の泰村が、京都の武力を仕切るポジションである御厩(みまや)の実務担当を受け持ちます。

松村邦洋『松村邦洋「鎌倉殿の13人」を語る』(プレジデント社)

仲恭(ちゅうきょう)天皇の廃位、後鳥羽・順徳・土御門3上皇の流刑が決まる。それと同時に、後鳥羽上皇の直系ではない後堀河天皇が即位してその父・守貞親王が院政を行う新体制ができあがったのですが、こういう戦後処理をグイグイ進めた中心人物が、他ならぬ義村だったんです。

「承久の乱後の朝廷と幕府、そして両者の関係は義村の手で再建、再構築されたと言っても、けっして過言ではない」って最大級の評価をする人もいるくらいです。

戦に勝ったとはいえ、次の天皇を誰にするかというところにまで手を突っ込んだ。同じ占領軍でも、GHQのマッカーサーだって天皇をかえることまではしていません。武士が朝廷にとってただのSPだった頃とは、本当に時代が変わったんですね。

■明治維新まで残る法律を作る

この頃の義村の活躍ぶり・暗躍ぶりを、有名な歌人で政治家でもあった藤原定家は、日記『明月記』で書いています。「八難六奇の謀略、不可思議の者か」とそのアイデアマンぶりと謀略の巧みさを、古代の中国の前漢の名参謀・張良や陳平と同じくらいじゃないか、ってくらいまで持ち上げています。

義村はその後も新執権・泰時の下で評定衆を設けて合議制の体制を作り、承久の乱から11年たった1232年に泰時が定めた有名な貞永式目=御成敗式目――明治維新まで600年以上も武士の法律の基本だったんですね――にも宿老としてサインしています。

その7年後の1239年に推定72歳で死去。血みどろの時代をくぐり抜け、頂点にこそたどりつけなかったけど、すごく満足のいく人生を送ったんじゃないでしょうか。

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松村 邦洋(まつむら・くにひろ)
タレント
1967(昭和42)年8月11日生まれ。山口県出身。大学生の頃、バイト先のTV局で片岡鶴太郎に認められ芸能界入りし、斬新な生体模写で一躍有名に。バラエティ、ドラマ、ラジオなどで活躍中。プロ野球好きで、大の阪神ファン。芸能界きっての歴史通で知られ、YouTubeで日本史全般を扱う『松村邦洋のタメにならないチャンネル』を開設。特にNHKの歴代「大河ドラマ」とそれにまつわる知識が豊富。最新刊『松村邦洋「鎌倉殿の13人」を語る』(小社刊)のほか、『武将のボヤキ』『愛しの虎』『ボクの神様−心に残るトラ戦士』などの著書がある。
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(タレント 松村 邦洋 構成=西川修一)