奥野一成のマネー&スポーツ講座(10)〜時給はなぜ上がらないのか

 前回は野球部顧問の奥野一成先生から、日本の経済力が相対的にはどんどんと落ちているという、ちょっとショッキングな話を聞いた3年生の野球部女子マネージャー・佐々木由紀と新入部員の野球小僧・鈴木一郎。そのことが、奥野先生が家庭科の授業で教えている「投資教育」が今年から始まったことと、どこかで通じていることもわかってきた。

 年末年始をどう過ごすか、話題になる季節になってきた。野球部の練習が終わった由紀と鈴木が、いつものように奥野先生をまじえて雑談を始めた。

由紀「駅前のケーキ屋さんのおばさんが昔からの知り合いなんですが、クリスマス前に『うちでバイトしてくれない?』と頼まれちゃったんです。人手不足で働き手が少なくて大変なんですって。来れる時間だけでいいって言うから、やってみようかな」

 進路が決まっている高校3年生のなかには、最後の冬休みに初めてアルバイトを経験するという生徒も多い。推薦での大学進学が可能な由紀もそのひとりだ。

鈴木「いくらもらえるんですか」
由紀「時給だから、働いた時間によるんでしょうけど、最低いくらは払わないといけないという決まりがあるんだって」
奥野「それは法律で決まっている最低賃金のことだろうね。実は今年の10月から若干、増額されているんだ。都道府県別に決まっていて、最高は東京の1072円、最低は853円(複数県)となっている。雇用者はこの金額以上を払わないと法律違反、ということになっている」
鈴木「それって安いんですか? 高いんですか?」
奥野「国際的に見たら安いと言わざるを得ないだろうね」

 ちなみにOECD(経済協力開発機構)が発表している「実質最低賃金のランキング(2020年)」によると、高いのはオーストラリア(12.9ドル)、ルクセンブルグ(12.6ドル)、フランス(12.2ドル)、ドイツ(12ドル)など。1ドル150円で計算すると、時給1800〜1900円)が最低賃金とされている。

鈴木「なんか話の流れが先週の『日本が貧しくなっている』に似た展開になってきたような......」
由紀「でも不思議です。法律で決められなくても、普通、人手不足なら時給を上げて人を雇おうするんじゃないかしら。人手不足で困っていると言いながら、時給がなかなか上がらないのはどうしてですか?」

牛丼の価格に見る日本経済

奥野「象徴的な話を例に挙げて言うと、たとえば、牛丼屋さんの価格推移を見てみればよく理解できると思う。

 今、某大手牛丼チェーンの並盛の値段は426円なんだけど、つい10年ほど前の2013年時点では280円だったんだ。9年間で5割の値上げになったのだけれども、実は1990年までさかのぼると、400円なんだよね。そう考えると、2013年の280円というのが、ちょっと異常値だったのかもしれない。

 そこからさらに10年さかのぼって2003年。BSE(狂牛病)問題でアメリカ産牛肉の輸入制限が行なわれた結果、大手牛丼チェーンから牛丼が消えたことがあったんだ。代替商品として『豚丼』が登場したのも、この時の話。それがきっかけで、今の牛丼チェーンは牛丼のみの一本足打法から脱して、商品のバリエーションを大きく増やしてきたという歴史があるんだよ。

 で、280円まで値下げした時の話なんだけど、2013年2月にアメリカ産牛肉の輸入制限が緩和されたんだ。これによって、アメリカ産牛肉が安く輸入できるとふんだ多くの牛丼チェーンが、販売価格を大幅に下げたとも言われたんだけど、それは今回の本筋とは少し違う話なので、ここまで。

 じゃあ、今の426円が高いのか、安いのかという点で言えば、明らかに安いでしょう。1990年が400円で、今が426円なのだから、この30年でほとんど値上がりしていないのも同然なんだ。

 ちなみにアメリカに進出した牛丼店で牛丼の並盛を食べると、1杯の値段は6.59ドル。1ドル=150円で計算すると、1044円だから、日本の値段の倍というイメージだね」

鈴木「円安の影響もあるとは思いますが、ここまで差が開くとは......」
由紀「これじゃあ、アルバイトの時給も上がらないですよねー」

奥野「日本って、今は経済大国のひとつになっているのだけれども、第二次世界大戦の終戦直後は主要都市が一面焼け野原で、多額の戦後賠償金を考慮すると、実質的にゼロどころかマイナスからのスタートだったんだ。だから、今で言うと新興国だったわけ。

 とにかく皆、貧しくて、モノが不足していたから、企業は大量にモノをつくって、それを安い値段で供給することに全力をあげたんだ。

 しかも安いだけでなく、改良に改良を重ねて壊れにくいモノを大量生産して、日本国内だけでなく海外にもどんどん輸出した結果、『メイド・イン・ジャパン』は高い評価を受けて日本企業は大きくなり、人々の生活も豊かになった。これが日本人の成功体験なんだよ」

「いいものを安く」の呪縛

奥野「でも、今はモノが余っているから、安いモノをたくさんつくって世界中に輸出する、というビジネスモデルは、少なくとも日本国内においては成り立たなくなってきている。海外に目を向けても、日本よりも安い値段で輸出する他の国があるから、メイド・イン・ジャパンはあまりお呼びではない。

 もちろん、この円安で再び日本が工業国に戻ってしまうことも起こりうるのだけれども、日本が先進国を標榜するならば、本来は値段が高くても誰もがほしがるような、高付加価値な商品をつくるべきなのだと思うよ。

 たとえばiPhoneを例にとると、この7月にiPhone13が2〜3万円程度の値上げをしたばかりなのに、9月から発売された最新機種のiPhone14は、さらに値上げしてきたよね。これ、やっぱり付加価値の高い商品だからできることなんだ」

由紀「でも、安いほうが売れるんじゃないですか」
鈴木「そうそう。安くて品質が良いものこそが正義だって思うのですが......」
奥野「この10年で、世界的に『富裕層』と呼ばれる人の数が、結構増えているんだ」
鈴木「来季は年俸3000万ドルにアップする大谷翔平選手をはじめ、スポーツ界にもそんなスーパースターがいっぱいいそうだ」

奥野「大谷選手が富裕層に含まれるかどうかは別にして、富裕層というのは高い報酬を得ている人という意味ではなくて、多くの資産を持っている人のことを指すんだ。

 クレディスイスという金融機関の調査資料に『Global Wealth Databook』というのがあるんだけれども、それを見ると、この10年で、たとえば総資産1000万ドル(約15億円)以上を持っている人の数は、全世界だと85万人から250万人に増加しているし、アメリカは40万人から150万人に増えている。ということは、全世界の富裕層の6割が米国に集中していることになるんだね。

 では、日本はどうなのかというと、同じ期間で5万6000人だったのが6万人だから、増えているとはいえ微増。

 もう少しハードルを下げて100万ドル(約1億5000万円)以上で見ると、全世界では2500万人が5600万人、米国は1100万人が2400万人になり、いずれも倍増している。でも日本は310万人が340万人になっただけなので、それほど増えてはいないのだけれども、それでも300万人強が1億円以上を持っているのだから、お金持ちは結構いるんだよ」

根強い「富裕層」に対する誤解

奥野「だから、そういう人を相手にして、ちゃんと付加価値の高い商売をすれば確実に儲かるだろうし、世界に目を向ければ、この10年間だけでもこれだけ富裕層の人口が増えているのだから、ビジネスチャンスはもっと広がるはずなんだ。そこをターゲットにすれば、日本企業の売上と利益はもっと増えるだろうし、それが働いている人たちの収入にも反映される。つまりもっと豊かになれる。

 そういうチャンスがあるのに、過去の成功体験に縛られて、今でもコツコツ安いものをたくさん作って、『儲からない、儲からない』って言っている日本って、いったい何なんだろうね」

鈴木「お金儲けは悪っていうイメージが強すぎるのかな」
由紀「お金は持っているのだけれども、節約することを美徳に捉える人も結構多いですよね」

奥野「『富裕層』に対する誤解が、この国には結構、根強いと思うんだ。なんとなく、あくどいことをして現金を貯め込み、それをガッチリ握っているようなイメージ?

 でも、それは違うんだよ。富裕層の大半は現金で富を持っているんじゃなくて、株式や土地などの資産で持っているんだ。現金をしっかり握っているような人は、それが1億円だろうと10億円だろうと、決して本当の意味での富裕層とは言わない。少なくとも僕はそう思っている。そういう人は、お金に支配されている人たちなんだ。

 本当の富裕層というのは、お金を稼ぐのと同時に、そのお金をビジネスに投資している。こうして本当にいい企業のオーナーになる。もちろん、それによって大きなリスクを抱えるのだけれども、それが世の中のためになると信じていて、多額の自己資金を投入するんだ。

 そして、その企業のビジネスが世の中のためになれば、多くの人から感謝される。お金は決して汚いものではなく、実は『ありがとう』の印でもあるんだ。その結果、世の中が少しずつよくなっていく。これが資本主義の原理なんだよ。

 日本で富裕層の話をすると、『格差が問題だ』とか、『貧富の差をなくせ』などと言って、結果的に出る杭を打つような結果になってしまう。これは本当に残念なことだよね。日本の将来を考えて立派な行動を取っている富裕層がいなくなったら、日本はもっと悲惨な状況になってしまう。そのことをしっかり理解するべきだし、そういうことこそ、学校の金融教育で教えるべきなんじゃないのかな」

【profile】
奥野一成(おくの・かずしげ)
農林中金バリューインベストメンツ株式会社(NVIC) 常務取締役兼最高投資責任者(CIO)。京都大学法学部卒、ロンドンビジネススクール・ファイナンス学修士(Master in Finance)修了。1992年日本長期信用銀行入行。長銀証券、UBS証券を経て2003年に農林中央金庫入庫。2014年から現職。バフェットの投資哲学に通ずる「長期厳選投資」を実践する日本では稀有なパイオニア。その投資哲学で高い運用実績を上げ続け、機関投資家向けファンドの運用総額は4000億を突破。更に多くの日本人を豊かにするために、機関投資家向けの巨大ファンドを「おおぶね」として個人にも開放している。著書に『教養としての投資』『先生、お金持ちになるにはどうしたらいいですか?』『投資家の思考法』など。