[画像] 大友愛がシングルマザー時に悩んだバレーと子育てのバランス「これが正解!はない」

『特集:女性とスポーツ』第7回
バレーボール大友愛 インタビュー(中編) 前編から読む>>

 2005−06シーズンの途中で周囲を驚かせる引退を発表た大友愛だったが、2008年に現役復帰。再び日本代表にも召集されるが、子育てをしながら、大ケガも乗り越えてパフォーマンスを取り戻すには多くの苦労があったという。

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2006年に一度引退し、母となった2008年に現役復帰した大友  photo by Sakamoto Kiyoshi

――2006年に引退しましたが、2008年に復帰することになります。どんな経緯があったのでしょうか。

「もう絶対にバレーをしない、と思って引退したんですが、妊娠中に当時久光製薬スプリングスの監督だった眞鍋政義さん(2008年12月から2016年10月まで日本代表監督。現ヴィクトリーナ姫路のオーナー)と会う機会がありました。出産予定日は2006年の8月で、その翌年のリーグは年明け開幕だったんですけど、眞鍋さんに『リーグに戻れないか?』と言われたんです(笑)。当時は眞鍋さんと面識がなかったですし、『いきなり何を言ってるんだろう』というのが第一印象でした。

 一度はお断りしたんですが、出産後の子育て中も連絡があって。極めつけは、NECレッドロケッツのチームメイトだった仁木希(現・兵動希)さんが(2007年9月に)久光に移籍したあと、ご飯に誘われて行ったら眞鍋さんも来たんですよ(笑)。それで『カズ(仁木の愛称)もいるし、どうだ?』と。カズさんにも『私も現役を長くは続けられないし、ユウ(大"友の愛称)、もう一回頑張ろうよ』と説得されて、すごく悩んだんですが、(2008−09シーズンから)1、2年だけ頑張ってみようと決心しました」

――根負けしたんですね。

「私自身、リーグの中途で引退していろんな人に迷惑かけた後ろめたさもありました。代表監督だった柳本(晶一)さんにも、アテネ五輪後に『将来的に主将を任せるかもしれないから、覚悟を持って頑張ってくれ』と言われてリーグに戻ったのに......。年齢的にもチームを引っ張っていく立場になっていく時に引退したので、バレー界に戻ることには勇気がいりましたね。

 でも、眞鍋さんは『お前が必要だから声をかけているんだ。過去はどうでもいいし、結果を出せばみんなが認めてくれる。そのために手助けもする』と。私も『申し訳ない』と後ろ向きな気持ちのままいるより、『大友愛が戻ってきてよかった』と思ってもらえるぐらい頑張ってみようと思うようになったんです」

――復帰はスムーズにいったんですか?

「復帰3日目ぐらいで後悔しました(笑)。体力が落ちていましたし、筋肉痛を超えた"骨痛"と言ってもいいくらい全身が痛くて、スパイクを打つたびに『くるぶしが取れるんじゃないか?』と思っていました。ただ、やると決めた限りはとことんやろうと、体をしっかり鍛え直しました」

――お子さんはまだ小さかったと思いますが、どのように練習していたんですか?

「チーム練習の前後でコーチにボール出しをお願いしたり、帰宅して家事をしたあと、夜に子供が寝てからや起きる前の早朝にランニングをしたりしました。とにかくリーグに間に合わせないと、チームのみんなに迷惑がかかってしまいますから。

 チームもベビーシッターをつけてくれたので、体育館にも連れていき、終わったら一緒に帰っていました。そんな状況でプレーできたのは、バレー界ではたぶん初めてだったんじゃないですかね。移動のバスや宿泊先でも一緒でしたから、チームメイトの中には戸惑う選手もいたでしょう。申し訳ないと思いつつも、とことん頑張るために『すみません』と言って続けさせてもらいました。

 海外のチームでは、出産後に復帰する選手も多いですが、日本はまだ環境が整っていない印象があります。同じく出産で一度競技から離れた(荒木)絵里香は、あらかじめ復帰することを決めていて、お腹に赤ちゃんがいる時や出産後もトレーニングを継続していました。それでも、あの期間(2013年10月に東レを退社し、翌年6月に上尾メディックスで復帰)で、トップレベルまで状態を戻したのは本当にすごいです」

――大友さんは2008年に久光で1シーズンプレーしたあと、JTマーヴェラスに移籍します。何か理由があったんでしょうか。

「リーグでプレーして感覚がちょっとずつ戻ってきた時に、テンさん(竹下佳江)ともう一度バレーをしたいなと思ったんです。個人的に、テンさんとのコンビネーションは最高だと感じていたので移籍を決めました。その時は、日本代表への復帰ということまでは考えていませんでしたね。自分の中で、テンさんはすごく大きな存在でしたから、『最後も一緒にプレーしたい』と。それでJTに移籍してからは、どんどん感覚が戻っていって『もっとできる』という気持ちになりました」

――そして2010年に日本代表にも復帰し、同年の世界選手権では32年ぶりのメダルとなる、銅メダルを獲得しました。

「その大会はよく覚えています。眞鍋さんがミーティングで、『世界バレーでメダルを取る』と言ったんですが、私は正直、無理だろうと思いました。『海外の強豪チームには勝てない』と、当たり前のように考えてしまっていたので。でも、データを重視するバレーに切り替えて、結果は銅メダル。そこでチーム全体に、『私たちもメダルが取れるんだ』と意識が生まれました。それがロンドン五輪につながったと思います」

――ただ、大友さんはオリンピックの少し前に大ケガをしましたよね。

「2011年9月のアジア選手権で、右膝の前十字靭帯と内側側副靭帯をバツッと。人生初の大ケガでした。その時期、5キロくらい体重を落としたので動きが速くなり、オリンピックに向けて『最高の状態だ!』と思っていた時のケガだったので、すごくショックでしたね。ケガした瞬間は、テンさんに後ろからポンと蹴られたと思って振り返ったら、テンさんは遠くにいたので『あれ?』と。カクンと倒れただけで問題ないかとも思ったんですが、すぐに病院に運ばれました」

――そこから状態を戻すのは、相当大変だったんじゃないでしょうか。

「靭帯は動かさないと硬くなってしまうとのことで、次の日には装具をつけて走っていました。リハビリも、泣きながら毎日やりましたね。そのあとに手術をしたあとは激痛で、『もうバレーはできないかもしれない』とも思いました」

――ロンドン五輪の出場権を獲得した、2012年5月からの世界最終予選では、まだプレーできなかったですよね。

「最終予選は観客席で見たんですけど、勝っても喜べませんでした。いろんな緊張感がある中でみんなが頑張っているのに、自分がそのチームにいないことが、すごく悔しかった。そのあと、もう一回手術したのでトレーニングも全然進まず、さらに復帰が遅くなる焦りが出てきました。

 それでも何とか五輪前には間に合わせて、最終の12人のメンバーに選んでもらったんですが......。最終予選で頑張っていた岩坂(名奈)や平井(香菜子)が外れてしまって。いきなりオリンピック本番だけ私が出場することに、2人も少なからず複雑な思いがあったはずです。だからこそ、絶対に結果を出さなければいけないと思いました」

――最終予選の前にはシングルマザーになり、ケガのリハビリもある中で子育ても苦労があったと思います。現役復帰時のように、ベビーシッターをつけたんですか?

「いえ、子どもは宮城の親戚にお願いして見てもらっていました。他の代表の選手は、休みが週に1日あるんですけど、私は前日の夕方に練習をあがらせてもらって、新幹線で仙台に行き、娘と1日半くらい一緒に過ごすという感じで。チームのみんなは受け入れてくれましたが、アスリートと子育てのバランスは、どのくらいにするのが正解なのかわからないまま続けていました。

 私は日本代表として、しかも大ケガを乗り越えてオリンピックに出るためには、完全に競技に集中する必要があると感じていたので"別居"の形を取ったんです。ただ、『子供と会う時間を取れないことは、母親としてどうなんだろう......』と悩んだことがあって。当時の日本代表のコーチだった安保澄さん(現・ヴィクトリーナ姫路GM)に相談したら、『常に一緒にいることだけがベストではないと思う。会えている時間にたくさんの愛情を注げれば、それが娘さんの幸せになるんじゃないか』と言ってくれて、気持ちを切り替えることができました」

――その時の選択に納得することができたんですね。

「『これが正解だ!』という絶対なものはなく、たくさん選択肢があっていいと思えるようになりました。周囲の人たちの協力もあって、私は選手でいる時と母親でいる時の自分を分けることができて、それがスイッチの切り替えにもなった。おかげでオリンピックに向けて邁進できて、物心ついた娘に大舞台でプレーする姿を見せることができました」

(後編につづく)
■大友愛(おおとも・あい)
1982年3月24日生まれ。宮城県仙台市出身。中学校からバレーをはじめ、仙台育英学園3年生の時に世界ユース選手権優勝を経験。2000年にNECレッドロケッツに入団し、日本代表にも選出される。2006年に一度は引退するも2008年に復帰し、2012年のロンドン五輪で銅メダル獲得に貢献。2013年に引退し、現在は4児の母。