養子であることは、ほんの一要素──。生後すぐ養子になったという女性に、これまでの人生を聞かせてもらいました(写真:筆者撮影)

生まれて間もなく養子になった。小さい頃に両親が離婚した。中学生のとき父親が家に帰らなくなった。生活が困窮していた。母親の再婚相手が反社会的勢力の人だった──。

取材応募フォームからは毎月、子ども時代にさまざまな経験をした人たちからメッセージが届きますが、いま書いたのはすべて、あるひとりの女性の話です。


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「一見ネガティブになりそうな要素がたくさんあっても、なんとかなる人生もあると伝えたい」という三宅莉恵子さん(仮名、40代)に連絡をとったのは、この4月でした。住まいは都内でしたが、コロナ自粛期間中につき、オンラインで話を聞かせてもらいました。

時折雷が鳴り響く、ほの暗い土曜の午後。ディスプレイの向こうにいる莉恵子さんの部屋には、しんとした蛍光灯の光と、落ち着いた空気が満ちていました。

保険証の続柄が「養女」、何かの間違いだと思った

莉恵子さんが養子になったのは、生後すぐだったようです。最初に気づいたのは、小学校6年生のときでした。修学旅行に行くため、学校から保険証のコピーを求められたのですが、このとき続柄の欄に「養女」という文字を見つけたのです(今はそういう表記はされません)。

「何かの間違いだろう」と思ったのには理由がありました。1つは莉恵子さんの家が貧しかったこと。一般的に養子というと、貧しい家から裕福な家に行くイメージがありますが、該当しなかったからです。それに家には、莉恵子さんが生まれたときの「育児日記」のようなものもありました。今思えば、カモフラージュだったのかもしれません。当時は、「聞くのが申し訳ないような気持ち」があったといいます。

両親の名前を知ったのは、高校生の頃でした。どうしても生みの親を見てみたいと思い、家で手がかりを探していたところ、母子手帳を見つけたのです。電話帳で調べたところ、そう遠くない場所に住んでいることがわかったそう。

実母に会えたのは、22歳のときです。ある日、莉恵子さんの兄か従兄弟にあたる人物が彼女のもとを訪れ、「(実の)父親が亡くなったので相続放棄をしてほしい」と頼みに来たため、「(生みの)母親に会いたい」と伝えることができたのです。

なぜ自分は養子になったのか? ついに対面した実母に尋ねたところ、この一家は当時、生活が困窮しており、実父と同郷だった養父に莉恵子さんを託したのだとわかりました。莉恵子さんの養母は身体が弱くて子どもを産めないことも、当時わかっていたそう。

「『本当は養子には出したくなかった』と言われて、まあそれならいいかなって。あとは遺伝性の病気がないかも気になっていたので、そこも確認しました。

あれから30年近く経ちますが、(実母が)今どうしているかは、ちょっとわかりません。1回会えば十分でしたね。産んでくれたことには素直に感謝しますけれど、そのあと育ててくれた(養母の)ほうがやっぱり大変だったろうと思うので」

この話だけでも、ずいぶん物語のある人生です。けれど莉恵子さんにとって、自分が養子であることは、ほんの一要素にすぎませんでした。というのは、彼女の人生において大きな意味をもつ出来事は、ほかにもたくさんあったからです。

自然と気にかけてくれた「親切なおばさんたち」

小2の頃、祖母とぶつかってばかりいた養母が、家を出て行ってしまいました。2人とも気が強く、似たところがあったのでしょう。だいぶ後でわかったことですが、2人とも互いにその後どうしているか心配していたようです。

それから莉恵子さんは、養父と祖父母と暮らすようになりました。養父は仕事熱心なタイプではなく、また、人にお金を貸してしまうことも多かったため、生活は厳しくなっていきます。祖父が亡くなると、祖母は親戚の家に引き取られ、中学の頃から莉恵子さんは養父と2人暮らしになりました。

ところが養父はいよいよ働かなくなり、女性の家に居ついて帰らず、莉恵子さんは大変苦労することに。隣に住む大家のおばあちゃんが家賃を催促しにくるのがつらくて、押し入れの中に隠れたり。夢中になっていた運動部は強豪でしたが、せっかく試合に勝ち進んでも、遠征の交通費がないため、莉恵子さんだけ参加できなかったり。

「(養父は)なんか憎めない人でした。世間的にはダメな人かもしれないけど、私が『怪我した』って電話すると、すぐ飛んで帰ってきてくれたりして。でも、(お金に苦労した)そのときだけは、恨みましたね。親というか、家にお金がないことを。(養)母とは連絡を取っていたので、言えば食事や洋服のお金はもらえたんですけれど、家の電話や電気が止まったりするのは子どもじゃどうしようもなくて。

『なんでこんなうちに来ちゃったんだろう』っていう葛藤も、当時はありました。でも、おばあちゃんが知っちゃうと悲しいだろうと思って言えなかった。おばあちゃんは躾には相当厳しかったですが、すごくかわいがってくれていたので」

小中学校のとき莉恵子さんがいちばん気にしていたのは、周囲から「お金がない家」と見られることだったといいます。

「自分が養子だとか、母がいないとかよりも、『家にお金がない』と見られるのが嫌でした。だから、そこはうまく隠していたというか」

お金がないことは、決して恥ずかしいことではないはず――。そうわかってはいても、世間に偏見があれば、隠したい気持ちにならざるをえません。筆者も離婚後は厳しい時期がありましたが、周囲に知られたくはありませんでした。子どもたちの世界でも、シビアなことは多いでしょう。

ただ、莉恵子さんにとって幸いだったのは、近所の人に恵まれていたことです。家の近くには「なぜか親切なおばさんがいっぱい」いて、よく気にかけてくれていたのです。半分くらいはある宗教の関係者だったそうですが、それ以外の人も半分くらいはいたといいます。

「うちがこういう状態と知っていても、『あの家の子と遊んじゃダメよ』とか、そういうのは一切なかったです。友達の家に行くと、『お母さん(養母)、元気でやってそう?』と聞いてくれたりして。『かわいそう』とかじゃなく、自然と気にかけてくれて」

いちばんよく覚えているのは、莉恵子さんが高学年のとき、裏の家に住んでいたおばさんが生理用品を買ってきてくれたことでした。よくおばあちゃんとおしゃべりに来るこのおばさんが、縁側から莉恵子さんを呼んで「こういうの、もう用意した?」と聞いてくれたのです。

「学校で話は聞いていたけれど、買いに行くのも、おばあちゃんに言うのも恥ずかしかったので、それはよく覚えています。今思うと、なんてすばらしい人だろうって。

昔と違って、いまはNPOの支援とかあるけれど、全面的に世話を焼きすぎちゃうと、世話を焼いている人が優位になっちゃうと思うんですよね。『あの子はかわいそうだから、ご飯を食べさせてあげている』みたいになると、子どもでもわかってしまう。でも『もう時間が遅いから、食べていきな』だったら、『あ、すいません』って食べていける。そのほうがいいのかなって」

そこら辺にいる人の、日常的な、さりげない親切。これがもしあらゆる子どもに行き届くなら、いちばん理想的かもしれません。ただ、時代が変わり、家屋に縁側もなくなったいま、大人の目が行き届かない子どもは多いのが現実です。

コワモテでも面倒見のいい養母の再婚相手

小学生のときに家を去った養母のもとで暮らすようになったのは、莉恵子さんが高校に入ってからでした。今振り返ると「なんで中学のとき、さっさと母と暮らさなかったんだろう」と思うそうですが、当時は「その選択肢が、全然自分になかった」といいます。

もしかすると、母親が再婚していたせいもあったでしょうか。当時、母親は「任侠の人」と結婚していました。顔も身なりも、イメージ通りの強面の人。しかし意外なことに、中身はだいぶ違ったようです。

「高校生のときはそんなになじんでいなかったんですけれど、だんだんですかね。今はもう(その世界からは)足を洗って別の仕事をしています。私が20代で結婚したときは、当時の旦那を吟味したり、式のお金も出したりしてくれて。娘が生まれたら、もうすっごいかわいがってくれて。その頃から、私が『お父さん』って呼ぶようになりました。

11年前に母が亡くなってから、一度明け方に、すごく胃が痛くなったことがあって。お父さんはそのとき夜勤の仕事だったんですが、電話したらすぐに帰ってきて、病院に連れて行ってくれて。そういうのって、亡くなった(養)父にしてもらって以来だったので、親ってありがたいな、みたいな」

いろいろ話を聞くと、この「お父さん」も、小さい頃近所にいたおばさんたちと似て、ずいぶん面倒見のいいタイプのようです。今でも、莉恵子さんは「お父さん」と月に一度は電話で話し、ときには突然お土産を届けてもらったりしているとのこと。

過去を振り返って、莉恵子さんはこんなふうに話します。

「よく親がこうだから子どもがかわいそう、とかっていうけれど、私が育ってきた環境では、『親は親、子どもは子ども』って、別枠で考えてくれていた気がするんです。親はあんなだけれど、とりあえず近所の子だから当たり前に気にかける、みたいな。今の子も、そんなふうに見てもらえるといいなって」

20代のときに産んだ娘さんは成人して、すでに家を離れています。勤務先にも恵まれているという莉恵子さんは、「今が、いちばん落ち着いている」と言います。

取材のお礼を伝え、ビデオ通話を終了した頃には雨はあがっていました。いつの間にか雷は遠ざかり、空はこれから放つ光を蓄えているようでした。