東京・立石にある「増田屋」は、東京に約50店しかないおでん種の専門店だ(撮影:梅谷秀司)

おでんに入れる具材を売る「おでん種(だね)店」。東京には古くから、おでん種店がたくさんある。多くが昔ながらの商店街やその近くに軒を構える個人店だ。

のんべえの聖地といわれる立石にある増田屋も、そんなおでん種店の1つ。繁忙期の冬場は、店内に40種類以上のおでん種が並ぶ。店頭では、熱々のおでんも販売。鍋や大皿で大量購入していく客もいる。

45年間で5分の1以下に

ところが今、こうしたおでん種店が、激減しているという。東京のおでん種店をアーカイブしたウェブサイト「東京おでんだね」を運営する源太氏によると、『蒲鉾年鑑 昭和50年度版』調べで1975年に東京に276軒あったおでん種店は、現在51店舗にまで激減。45年間で5分の1以下になっている。

「記憶に新しいところだと、2019年に松陰神社前の人気おでん種店『おがわ屋』が閉店し、SNS上に閉店を惜しむ声が多く上がりました。2020年になってからもすでに2店が閉店しており、3月にはもう1店の閉店も決まっています」(源太氏)

同氏は、減りつつある東京のおでん種店をアーカイブしようと、インターネットや書籍を調べ上げ、東京に残るおでん種店五十数店をピックアップ。それらを約1年かけてすべて訪問し、店の人に話を聞きながら、全店の記事をウェブにアップした。紀文など大手メーカーも一部含まれるが、大部分が個人の小規模店だ。

近年、おでん自体の人気は決して下火ではない。紀文が実施した「家庭の鍋料理調査『鍋白書2019』」によると、食べた鍋のランキングでおでんは1997年から20年連続となる1位を獲得。好きな鍋のランキングでも、しゃぶしゃぶ、すき焼きに続き3位だった。おでんそのものはよく食べられているのに、なぜおでん種店は著しく数を減らしているのだろうか。

その大きな理由の1つが、おでん種の多くが、魚を主原料としていることにあるという。

「ほとんどのおでん種店が、魚のすり身を揚げた、“揚げかまぼこ”を主力商品としています。揚げかまぼこは自店で生産し、それ以外のこんにゃく、ちくわぶ、つみれなどは他店から仕入れるのが一般的です」(源太氏)

もともとは冷蔵・冷凍技術が発達していない江戸時代に、市場でその日中にさばけなかった魚を安く仕入れ、すり身にしてゆでかまぼこや、揚げかまぼこなどにして提供したのが、おでん種店のルーツとされているという。

その後時代は進み、日本は太平洋戦争を迎える。戦中や戦後はそうしたかまぼこ類の原材料が乏しくなり、原材料の幅が広い揚げかまぼこが重宝され、貴重な動物性タンパク質の摂取源として家庭や学校で広く親しまれるようになる。材料が比較的手に入りやすく消費者からの需要が高いということで、当時のおでん種店は利益効率の高い商売だったようで、繁盛して自社ビルを建てるおでん種店も少なくなかったという。

「揚げかまぼこをおでんに入れるのが定着したのも、戦後復興期や高度経済成長期だと考えられ、それ以前は、おでんに入れずそのまま食べるのが一般的でした。だからおでん種店の多くは、もともとの業態であるかまぼこ店を名乗る店が多いんです。また東京におでん種店が多く集まったのは、人口が多いことに加え、築地市場に全国からさまざまな魚が入ってきたことが大きかったようです」(源太氏)


東京に残るおでん種店を網羅したウェブサイト「東京おでんだね」を運営する源太氏(撮影:梅谷秀司)

そうした隆盛の風向きが変わったのが、1970年代半ばに起こった、「200海里問題」だ。自国から200海里(約370km)を超える水域で自由に漁をすることを禁じる200海里水域制限により、日本の遠洋漁業は大きなダメージを受ける。

「以降、日本の遠洋漁業生産量は減少の一途をたどります。ピークだった1973年に約400万トンありましたが、2015年には36万トンまで減っています。かまぼこの原料となる魚のすり身をおでん種店などに供給していた日本の大手水産企業は、アメリカなどからの輸入に頼らざるをえなくなり、価格や供給量を仕入先に左右されるようになります。

それ以降、仕入れ先の国の状況や世界的な魚食ブームなどで、すり身の価格は段階的に大きく上がり、中小零細のおでん種店にとっては大ダメージとなりました」(源太氏)

このほかにも、食生活の改善や、食の欧米化によってかまぼこ類がかつてのようには食べられなくなったこと、スーパーなど大型店の台頭で商店街が衰退したことなどが、おでん種店の苦境の原因として挙げられる。

増田屋の店主、中山貴司氏も、「私が店を継いだ30年前に比べ、原材料価格は約2倍半に上がりました。一方、自店で商品を作る量は、半分ほどに減りました。50年前はいい商売だったようですが、今はうまみが少なく、後進には勧めづらい」と話す。


1934年創業の立石 増田屋の3代目店主・中山貴司氏。1930年にできた商店街、立石大通り商店会の一角に軒を構える(撮影:梅谷秀司)

今後の店数の推移について源太氏は、「店主には70〜80代の人も多く、後継者がいない店も少なくありません。私はそうした各店の状況を鑑み、15年後には30店以下に、30年後には10店近くにまで数が減ると推計しています」と話す。

ただおでん種店には、このまま先細りしてしまうのがもったいないと思わせる魅力がある。源太氏も、おでん種店の魅力にとりつかれた1人だ。

おでん種店の生き残り方

「五十数店を回って話を聞く中で、おでん種店という商いを続けることの大変さが切実に伝わってきました。初めはどこも似たような感じなのかなと思いましたが、実際はどの店も個性がきらきら輝き、人情味にあふれている。なくなりつつあることと、すばらしい産業・文化であることの間に、大きなギャップを感じました。

おでん種店の多くは古い店構えで、周りには昔ながらの商店街が広がっている。その風景や空気も味わいながらおでん種店に行き、お店の人と少し話をしたりしながらおでん種を買い、家でおでんを作って食べる。それらすべてを1つの“おでん体験”として味わってもらえれば、とくに若い人たちはかなり新鮮なんじゃないかなと思います」(源太氏)

冬場だけでなく通年で楽しめるところも、おでん種の魅力だという。おでん種というだけにおでんに入れなくてはと考えがちだが、もともとおでん専用の食べ物ではなかっただけに、そのままでも美味しく食べられるように作られている。例えばオーブントースターで少しあぶってから生姜を少し乗せて食べれば、味がしっかりついていて、魚や野菜の風味も濃く、いいつまみとなる。


冬場だけでなく、通年楽しめるのもおでん種の魅力の1つ(撮影:梅谷秀司)

こうした価値を提供するおでん種店が今後生き残るには、どんな道があるのか。

「1つ考えられるのは、ほかの業態との掛け合わせです。例えば赤羽の丸健水産や、立石の丸忠といったおでん種店は、飲み屋を併設することでとてもにぎわっています。あるいは大型のショッピングモールやスーパーと提携し、テナントとしておでん種店が入るというのも、ハマれば両者にとってウィン・ウィンなはずです。

産業自体には魅力があるので、それをいかにニーズにつなげるかや、いかに存在を知ってもらうかが大きなカギとなるのではないでしょうか」(源太氏)

忙しい中で、ちょっといいものや面白いものを家で食べたいという「中食」の需要を満たすうえ、肉類に比べカロリーが低い。古きよき時代にワープする体験も味わえる。こうした側面が認知されれば、おでん種店減少一途のベクトルは、変わるかもしれない。