「パソコンがない時代って、どうやって仕事していたの?」という若い世代の素朴な疑問を投げかけた投稿が話題になっている。

「そりゃあ、手書きで文書を作り、定規で製図をしていたよ」「そろばんはじいて見積書作っていたな」と、アナログ世代は郷愁をそそられている。昭和40年代後半に駆け出し記者だったJ−CASTニュース会社ウォッチ記者の場合は――。

出張の時は地図帳買って時刻表とタウンページを見て...

話題になっているのは、2019年10月20日に「はてな匿名ダイアリー」という疑問お答えサイトに載った、次の投稿だ。

「パソコンがない時代って、どうやって仕事していたの? 自分の仕事はパソコンのない時代にはそもそもないんだけど、他の仕事も含めてどうやって仕事していたのか想像つかない。効率の悪さがすごそう」

日本にパソコンが普及し始めたのは、1995年にWindows95が発売されてからだ。オフィスの隅々にまで行きわたったのは2000年ごろからといわれる。だから、パソコンをまったく使わないで仕事をしていたのは、40代前半から後半以上の世代ということになる。

この投稿には、次のようにしみじみ回顧する回答が寄せられた。

「地方の未知の小都市に出張する時は、昭文社の都道府県地図帳を買って地理を把握して、時刻表で行き方を決めて、図書館で行き先のタウンページを見て適当なビジネスホテルの見当を付けて、電話して宿代確認して予約していましたね」

今はパソコン画面の操作ですべて済むが、出張の準備一つをとってもいろいろと大変だったのだ。

「パソコンどころか電卓がなかった頃はそろばん必須だった。私が小学生だった頃には、算数にそろばんの授業があった。お金のやり取りには手書き伝票。見積書と納品書と請求書の間にカーボン紙を挟んでボールペンで強く書いた」「Windows95が出たのが高校卒業より後だったので、私が教えてもらっていた学校の先生は、みんなパソコンなしで仕事をしていたことになる。テストの問題作成、採点集計とか各種配布物、名簿とか、みんな手書きかワープロでやっていたのかと想像するとまったく頭が下がる思いだ」「70過ぎの爺さんに聞いたけど、庶務係の女の子がそれはもう沢山いて、勝手に遊びに行くわ、飲みに行くわしているうちに出生率上がっていたとか言っていた」

そんな声が寄せられている。

パソコンない時代に体育会系ばかり重用される理由

パソコンがない時代の仕事ぶりを、具体的に細かく説明する人もいた。

・直接取引先に行って用件とかの話を聞く。・そのため移動に費やす時間がやたら多い。・比較的に簡単な用なら電話で取引先と話をする。・昭和末期ごろになると連絡にFAXも使用。・紙の書類に手書きで発注書とか領収書とか会計書とか資料とかを作る。・顧客情報とかは、個人の手帳やメモに記録されるから共有されない。・だから『あの案件、あの顧客は××さんじゃないとわからない』というケースが多い。・メールがないから、連絡→返答→また返答の間隔はすごく時間がかかる。・上司とも取引先とも直接に話すことが多いから、コミュニケーション力が絶大に要求される。・このため、声が大きく、上下関係を重んじる体育会系ばかりが重用される」

パソコンが普及し始めた頃の貴重なエピソードを紹介する人も。

「パソコンがまったくない時代は知らないが、パソコンが部署に1台の時代に就職した。1人に1台配布されたのは21世紀になってからだ。といっても、業務効率化のために使ったのは1日のうちのほんの少しで、あとはパワポやエクセル方眼で資料を作るとか、取引先への文書を清書するための機械としてしか使わなかった。鉛筆と消しゴムより時間がかかった。現在、メールやインターネットは、確かに便利で恩恵を受けている。問題は、パソコンを使ってパソコンがない時代と同じ仕事をしていることだ。人間は思ったより変わらないものだ。それこそ、非効率の極み」

パソコンが普及したからといって、必ずしも効率が上がったとは言えないという指摘もある。

「昔は、ネット見てサボる余地がない分、今より生産性がよかったりして。逆に今はいつでも連絡が入ってくる世の中になり、仕事を中断させられる回数は比べものにならいくらい多いと思う」

かつて新聞記者は伝書鳩で記事を送った

現在、69歳のJ−CASTニュース会社ウォッチ記者が新聞記者になったのは昭和48年(1973年)だった。現在ではスマホ1台あれば、事件・事故現場からメールで記事を送信し、写メで写真を送ることがすぐできる。記者の駆け出し時代は、公衆電話を見つけて、記事を吹き込み、会社の同僚に書き取ってもらうしかなかった。

公衆電話もない山間部に取材に行くときは、重さ3〜4キロもある無線機を担いで登った。特に写真を送る手段が大変だった。まず、フィルムを現像しなくてはいけない。そのため、フィルムの現像液と定着液を作る粉末キット、そして写真を焼き付ける印画紙を持参、現場近くの民家に飛び込み、押し入れを借りて、「暗室」を作るのだ。そして、懐中電灯を使ってフィルムを印画紙に焼き付ける。

そして、持参した「電送機」に写真を巻き付けて、本社まで写真を電送するのであった。それやこれやの機材を合わせると、かなりに重量になるため、新聞記者は肉体労働というわけで、長らく女性記者は少なかった。

記者より5〜6歳上の世代、1960年代後半までは、記事や写真を送るのに伝書鳩が使われていた。先輩の話によると、事件・事故現場に伝書鳩を数羽連れていき、足に記事のメモを取り付け、放つのである。伝書鳩は真一文字に本社に向かって飛んでいく。

1羽ではなく、数羽連れて行くのは、途中でハヤブサやタカに襲われるケースが多いからだった。「無事、戻ってくれよ!」。先輩はそう祈って、いつも伝書鳩が向かった方角に祈ったという。だから、新聞社の本社ホールには、今も伝書鳩の慰霊の銅像が立っている。

(福田和郎)