3位は記念すべきSシリーズの第一弾

 デトロイトショーでベールを脱ぎ、話題となったSUBARUの限定車S209。現場で取材をした山本シンヤ氏が開発者インタビューを行う動画がアップされており、北米専売とした理由などについて語られている。SUBARU車史上最強スペックであるなど、新たな伝説となるのは間違いない。

 SUBARUの限定車はいずれも価値が高く、「買っておけばよかった!」と悔やまれるものばかりだが、中でもとりわけ垂涎・羨望・後悔してやまないモデル3台をピックアップして、あらためてその魅力を思い出しておきたい。

3位 S201

 記念すべき「Sシリーズ」の第一弾。WRC三連覇記念車の22Bでハイオーナー向けプレミアムモデルの成功を収めたのち、初代レガシィの10万キロ速度記録達成を起源とするSTIの技術の粋を結集した最高性能モデルをシリーズ展開することが企画された。SUBARUの「S」を冠とし、主力ユニットであるEJ20エンジンが2リッターの世界ナンバーワンを目指すという意味から「S201」と名付けられた。第一弾だから「1」となったのではない。

 1999年の東京モーターショーに出展したこれの前身モデル、エレクトラワンが好評だったことも市販化を強く後押しした。当時はWRCで全盛期を極めていたが、同時にスーパー耐久やGT選手権にも参戦するなど、サーキットでのレース活動にも力を入れ出していたので、SUBARUが戦うステージはラリーだけだはないとの新たなイメージを広める狙いもあった。「泥や雪に強い」など、それまでのSUBARU車のイメージとは違う新しい魅力を訴求したのだ。

 300馬力に強化されたエンジンや、STI初の車高調サスやリンクがピロボール化されたリアサスなど、硬派なチューニングを実施。外観は、富士重工の航空宇宙事業部が入念な空洞実験により設計したエアロダイナミクス性能を誇る前衛的なエアロパーツの印象が強烈だったが、販売面ではこれが裏目となる。本気で性能を追求したエアロパーツがあまりに派手すぎたことと、当時のスバリストはWRCが大好きすぎてレース車への関心が薄かったことが販売的な敗因となってしまう。当時は20歳代の若者だった筆者も完全にスルーをしたものだった。

 不人気ゆえに販売台数が少なく、発売された当初から幻の一台となってしまったので、いまではSシリーズの中で物理的にもっとも入手困難となっている。神奈川県在住の有名なSUBARUマニア氏が所有するクルマを試乗させてもらったところ、「走りは究極のGC8!」と、一緒に試乗した山本シンヤ氏と泣きながら感動したほど乗り味は素晴らしい。デザインも実車を見ると悪くないどころか秀逸と思えるもので、GC8歳代の性能的な最大の難点であった空力性能が抜本的に解消されていることでも再評価に値する。これが発売された当時から、高度なテクノロジーが宿ったメーカー入魂の高性能車の本質を理解した人は慧眼の持ち主だ。今や世界が羨望する「Sシリーズ」の第一弾を新車で買った人は歴史の生き証人であり、偉人として讃えたい。

栄えある1位はWRC3連覇を記念したあのクルマ!

2位 レガシィRSタイプRA

 記念すべきSTIの第1号車。1989年、スバルのモータースポーツ専門組織として立ち上がったばかりのSTIが最初に挑戦したプロジェクトはかの有名な初代レガシィによる「10万km世界速度記録」。これを達成した記念にモータースポーツ競技用車両として特別な市販マシンをユーザーに提供するとともに、スバルの積年の目標だったWRCへの本格参戦をレガシィで行うことへの決意を表明する意味が込められた。「RA」の名には「RECORD ATTEMPT(記録への挑戦)」の意味も込めらている。

 エンジンは、10万km世界速度記録車でも実施されたチューニングを実施。吸気ポート段差修正研磨や回転部分の入念なバランス取りなどの「シャープで力強く回るためのチューニング」を職人の手作業で行い、鍛造ピストンや高耐圧コンロッドメタルなどの採用により、出力アップなどのハイパフォーマンス化に対応出来る潜在ポテンシャルが与えられた。サスペンションも強化品で、当時のスバルらしさを感じさせるのがステアリングを切り込むにつれてギヤ比が15:1から13:1にクイック化するバリアブルレシオのパワステの採用だ。これは低μ路面でカウンターを当てやすくするための機構といえ、当時のラリーやダートラで戦う際には強い武器となった。

 月産20台の受注生産ながら、その戦闘力の高さは当時のラリーストから高く評価されて人気を博し、アプライドB型からはカタログモデルに昇格。初代レガシィのモデル末期まで生産され続けたが、絶対数の少ない競技用車両ゆえに、現存個体は極めて少ない。筆者は、街で見かけたら脱帽して合掌すべき幻の名車と思っている。

1位 インプレッサ22B STI VERSION

 1998年3月、WRCマニュファクチャラーズ部門の3年連続チャンピオン獲得を記念し、当時のWRC参戦マシンであるインプレッサWRC97のロードバージョンとして誕生。当時STIの社長を務めていた故・久世隆一郎氏による「ファン感謝の意味も込めて、WRカーのレプリカをスバリストに届けたい」という強い思いから実現した。

 2ドアWRXのタイプRをベースに、鋼板プレス製のブリスターフェンダーを前後に装着。これは手作業によって行われる架装で、リヤのフェンダーにいたっては、ホワイトボディのリヤクォーターパネルを一度切断してからビリスターフェンダーのパネルを溶接するという、平成になってからの日本の自動車メーカーとしては異例中の異例ともいうべき手の込んだ工程を要することでも話題に。

 オーバーフェンダーについては、樹脂製のパーツをポン付けする案もあったが、「スバルを世界一のブランドに育てる」と公言していた久世隆一郎氏を始めとする当時の首脳陣は妥協を廃して、可能な限り本物のWRマシン作りに近い製法での生産にこだわった。

 オーバーフェンダー装着に伴うワイドボディ&ワイドトレッド化により当時のWRXでは履けなかった235幅のピレリPゼロを装着。シャシー性能に余裕をもたせた上でエンジンをボアアップし、排気量は2.2リッターに拡大した。最高出力は当時の自主規制の280馬力ながら、最大トルクはGC8系最強の37kg-mを達成。高回転型だった標準のEJ20では考えられない豊かな低速トルクを実現した。


エンジンのパフォーマンスアップに合わせ、クラッチはセラメタのツインプレートとするなど、駆動系の強化もぬかりなし。本体価格は500万円。原価も500万円近くかかっていると言われるが、WRCで3連覇したとはいえ、当時のスバルには500万円を超える高価格車の販売実績がなかったことで超弱気な値付けに。ユーザーにとっては幸いしたといえる。

 しかし、22Bの中古車相場は数年前から高騰。いまではコンディションの良い個体は1000万円を超えるほどになっており、経済的にもっとも入手困難となっている。新車時はもちろん、中古車でも「買っておけばよかった!」と悔やんでいるSUBARUファンは多い。