「死にたい」とつぶやく背景にはさまざまな理由があるようです(撮影:今井康一)

前回(10代援交女子が「死にたい」から抜け出たワケ)、「死に方教えます」のDM(ダイレクトメッセージ)を受け取ったものの無視した都内の専門学校生(19)の話を伝えた。

中学2年生から援助交際をしていたが、サイバー補導されたことと彼氏ができたことをきっかけに「死にたい」とツイッターでつぶやく生活から脱出した、というものだった。

「死にたい」とつぶやく背景はさまざま

この女性の苦しみの根っこは両親の不和だったが、若者たちが「死にたい」とつぶやく背景はさまざまだ。

首都圏の大学に通う18歳の女性も「死にたい」とつぶやいたことがある。高校時代はほぼ不登校。私立の進学校に入学したものの、学校のカラーに馴染めなかった。電車に乗って学校に近づくと気分が悪くなった。

「自分は学校に行くこともできないダメな人間なんだ。この世にいないほうがいいんじゃないか」と思い詰めた。

「私、メンヘラだわ」とネットでつぶやくと「私も!」と共感される。メンヘラはメンタルヘルスが語源の「心の病を患った人」を指すネットスラングだ。「メンヘラは私だけじゃないんだ」と孤独を忘れられた。

そのころ学校に通っている友だちは、朝登校したら「(ツイッターに)あんなこと書いちゃダメじゃないの!」と担任に叱られたと言う。どうやら教師が交代でツイッターを監視しているらしい。

「学校はすべて管理されていて息苦しいところだと思った。私には耐えられない。もう絶対行けないや、って」

2年生の途中で退学した。ネットの世界で顔の見えない人だけと交流し、家に引きこもった。DMで「会おう」と誘われることもあったが、行かなかった。好奇心より、2人で会って何をされるかわからない怖さが先に立った。

危険な目には遭わずに済んだものの、彼女はどうやってネットの世界から抜け出せたのか。

「(衝突することの多かった)母親のおかげ。自分が立ち直ることを誰よりも一番望んでくれていることは知っていた」と明かす。

たとえば、不登校が続く日々でも自分のぶんの弁当がキッチンに置かれていた。食べずに勝手にインスタントラーメンを作ってお昼にしたときは文句を言われたが、翌日はまた弁当があった。

大検や大学紹介のパンフレットが、リビングにさりげなく置かれていることも知っていた。

待ってくれる=信じてくれている

「(母親は)私を待ってくれているんだと感じた」

待ってくれるは、イコール「信じてくれている」という信頼につながった。

高校の先生は彼女が1度登校すると、「明日も来なさいね」とか「そろそろ志望校決めないとヤバいよ」と言う。

「ほとんどの大人って、うちらを待ってくれないじゃないですか。親たちも以前は同じで、早く普通に学校行ってくれって急かされている気がした。でも、母親はだんだん違う対応をしてくれるようになった」

行けそうな大学が見つかり「ここ、行けるかも」と話したら、どこで見つけてきたのか、その大学の卒業生に会わせてくれた。

「すごく生きてることが楽しそうな、自由闊達なおばさんって感じで。ああ、こんなオトナになるのもいいなって思えた」

学校パンフレットではわからない「自由闊達」が、少し理解できた気がした。

徐々に出かけられるようになった女性が「大学見学、行ってもいいよ」と母親に告げたら、喜びのあまりなのか1日4カ所も連れまわされた。

「ママ、私、1日に4つも何かをすることはできないよ。2つが限度だから」と正直に言うと、母親は「そうだね。悪かったね」と謝ってくれた。
そしてその後、女性が自動車学校入学の申し込みと大学の願書の取り寄せというふうに、1日に2つのことをやり遂げた日には「2つもやれるなんてすごいじゃん! よく頑張ったね」とLINEにメッセージをくれた。

「私のことわかってくれているんだと思うと、うれしかった」

この女性の母親のように押し付けずに待つことが、10代の心をほぐすことになるのだ。

では、親がいったいどうすれば、彼女のように出口を見つけられるのか。そして、座間事件のような危険な目に遭わずに済むのだろうか。

学童保育所の卒所生を中心とした子どもたちの居場所であり、小中学生対象の学習塾でもある「小金井学習センター」(東京都)で30年間講師として勤めた口山衣江さんに話を聞いた。

同センターは、子どもや教師の自由度が少なくなった学校教育に不安を感じた父母らによって、「必要なものは自分たちでつくろう」と設立されたところ。受け身でない学習方法は、昨今注目される「アクティブ・ラーニング」とほぼ同じだ。

「貧困が連鎖するように、親が孤独だと子どもも孤独になるのではないか。お互いに本音でしゃべってストレスを吐き出したり、情報交換してよいやり方を考えられる。おせっかいをし合えるママ友がいれば、乗り越えられるのだと思う」

口山さんらスタッフが「大人と子どもが育ち合う」をテーマに作り上げてきた同センターでは、保護者会が毎月開かれる。そこでは、親たちが、「迷いながら、あがきながら、意見を言い合いながら、いつの間にか孤独でなくなっていく」という。

生きづらさを抱えている生徒が多い

そのように親子が育ち合う場所を作ってきた口山さんは現在、都内で通信制高校の講師を務める。授業にやってくるのは、予定人数の数割が日常だ。

「どこか生きづらさを抱えている生徒が多いと思う」

昨年始まった1年生の教室は4人。最初の授業は、教室の四隅の机にそれぞれ座っていた。

「みんな真ん中に集まって」と言っても、誰ひとり動かない。1人の男子生徒はマスク姿で瞳がぎりぎりのぞくだけで表情もわからない。ただ、一人ひとりに「私と会話できるところに来てくれる?」と言ってまわると、それぞれ集まってくる。

「家庭に問題があったり、中学でいじめられていたり。そんな周りに対して突っ張っていたり、希望が持てずに内にこもっていたりする。でも、一人ひとり付き合うと、みんないい子ばかりなんです」

入念に準備した国語の授業を始めてみたが、意見を求めても誰も反応しない。「これってどうかな?」「どう思う?」と促しても、最初は目を伏せて無言だった。ところが、しばらくしたら、生徒たちは何度かに1度はパラパラと自分の思っていることを話すようになった。

「時として、生徒が何か発言したそうな目をすることがあるんです。そういう空気を感じることがある」

そんなとき、口山さんは生徒が口を開くのを待つ。「待たれるのが嫌な子もいるので全員同じやり方ではありません。それに、答えたくなさそうなら引くけれど、顔を見て、あ、言いたそうだなと思ったら10分でも待つ」という。

みんな、ちょっと待っててね――。そう断って、発言しそうな子ども以外の生徒たちには、その子を待っている時間でプリントの裏に絵を描こうが、漫画を読もうがOKにしてしまう。

そのような時間の中で、マスクの男子生徒は驚きの変貌を遂げた。数カ月の間に、マスクを外して授業を受けるようになったのだ。その次は、促せば意見を言うようになった。

そして、ついに。指名しないのに、「はい、先生!」と挙手して自分の意見を述べるようになった。学校中の教職員から「あの子がマスクを外すなんて!」「挙手するなんて」と驚かれたという。

「私は、あの子のマスクを外してやろうなんて目論んでやったわけではありません。もともと持っている力を発揮するまで待っただけです」

それなのに、結果を急ぐあまり待てない大人が「厳しさがなければ」と子どもを抑圧した結果、ネットの世界に追いやっていないだろうか。

「待つことは、信じること」

「死に方教えます」のDMを受け取った女性の母親も、サイバー補導されたわが子を迎えに行ったとき「帰るよ」と言っただけだった。

親に恥をかかせて平気なの?

何考えているの?

どうしてこんなことしたの?

そんなふうに、思わず問い詰めたくなるはずだ。

そうしなかったことで、わが子を待つ時間をつくれたのだろう。とはいえ、「待つことは、信じること」などと言われると少しハードルが高い。待ってもらえないため懸命に突っ走ってきた大人は、「それでいいの? 厳しくしなくていいの?」とかえって疑心暗鬼になるかもしれない。

であれば、子ども目線でとらえてみるといいかもしれない。前回記事と今回で取り上げた19歳と18歳は、奇しくも同じことを言った。

「待ってもらえると、自分は親に信じてもらったんだと自信になった」

子どもたちが「待ってもらえれば自信になる」と言うのだから、そこを肯定してはどうだろう。デジタル化にAIにグローバル。一変したこの激動の時代を、私たち大人は「子どもとして」生きた経験はないのだから。