34歳、国立大卒の美しき才女、高木帆希(たかぎ・ほまれ)。

父親は作家の傍らコメンテーターとしても人気の有名人で、「家事手伝い」という名の「無業」で10年もの間、ぬくぬくと過ごしてきた帆希。

そんな働かずとも裕福に暮らしてきた彼女に、突如、不幸な出来事が降りかかる。

再び「社会」と向き合わざるを得なくなった無業の女は、どのようにサバイブするのか?




「おはようございます、高木様。いつものでよろしいでしょうか?」

「ええ。先にスパークリングを頂くわ」

「かしこまりました」と上品に微笑む顔なじみのウエイター。

いつもと変わらない朝が、今日も始まろうとしている。

目白にある私の家からほど近い、ホテル椿山荘にある『イル・テアトロ』

ここのプレミアムブレックファーストを頂くのが、私の日課だ。

甘みのあるハニーハムと、ザバイオーネソースの酸味が絶妙なエッグズベネディクトに、薫り高い黒トリュフがスライスされ、食欲をそそる。キリっとしたシャンパンを流し込むとシナプスがパチパチとつながっていくようだ。

私は週三回、ここ『イル・テアトロ』で朝食をとる生活をしている。

ーもう10年か…。

私は、高木帆希。34歳、独身。横浜にある国立大学の修士課程を卒業した私は、家事手伝いとして父の仕事をささやかにサポートしている。

父は、恋愛小説を得意とした作家で、映像化はもちろんのこと、最近では港区にあるテレビ局のお昼のワイドショーのコメンテーターとして人気を博している。

ロマンスグレーの髪に、ちょっとレトロな黒ぶち眼鏡をかけた父を、私は生真面目で遊びのない人だなと思っているのだが、世間では、「知的でセクシー」という評判らしい。不思議なものだ。

あんなにも男と女の濃密な情事を鮮烈に描く父だが、この10年ずっとそばにいても、女の影を感じたことは一度もない。

ーお母さんのこと、今でも愛してるのかしら…。

母は私が大学院に通っていた頃、乳がんを患い他界した。社会人だった兄は、すでに独立していたこともあり、私が母の代わりとして父の面倒を見ているというわけだ。

「高木様、おさげしてもよろしいでしょうか?」
「ええ、ご馳走様。今日も美味しかったわ」

そう言って私は、心からの感謝を伝えると、小さな泡が弾けるグラスをクッと飲み干した。遅めの朝食を優雅にホテルのレストランで頂ける生活に、私は満足している。

ゆったりと流れる幸福な時間は、これから先“私が望む限り”続くものだと、この時の私は信じて疑わなかったー。


突然の父の訃報…いきなり突きつけられた現実とは!?


優雅な時間が一瞬で壊れる


私は家に帰るとすぐ、お気に入りの珈琲豆・ブラックアイボリーをミルで挽いた。手のひらに響く振動、そして立ちあがる珈琲の豊潤な香り…私は思わずうっとりした。

父は朝早くに出かけたので、気兼ねすることなくのんびり過ごせる。そう思うだけで気分が上がる。

家事手伝いと言っても、実際、私は…家事をしたことがない。いや、それは手伝う隙がないほど、完璧な家事を父がこなしてしまうからだ。

「執筆の息抜きになるから、私がやる。帆希は自分の好きなことをやりなさい」

それが父の口癖だった。

私にとっての好きなことは、自由な時間を過ごすことだ。徒歩圏内にある素敵なお店で美味しいものを頂き、ピラティスで体幹を鍛え、書道やお茶、お花を嗜む…何よりの贅沢な時間だ。

この時間を手放すことはなかなか出来ない。

月に一度、会うか会わないかの腐れ縁となっている彼からもしプロポーズされたとしても…今さらこの生活を手放して結婚できるかどうか…。

そんなことを考えている私のもとに一本の電話があった。警察からだ。

「高木港一さんのご家族の方でしょうか?」
「はい…娘ですけど…父に何か……?」

「突然のことで驚かれるかと思いますが…ついさっき心臓発作でお亡くなりになりました」

ー父が…亡くなった?嘘……冗談でしょ。

電話の向こうでしゃべり続ける警察官の声が、どんどん遠くなっていく。きっとこれは悪い冗談だ。あれだ、きっと。コメンテーターで顔が売れてきたもんだから、嫌がらせか何かよ。

それとも、どっきりみたいなバラエティ!そうに、決まってる!

質素で生真面目で、お酒も飲まない煙草も吸わない、そんな父が…どうして?

「聞こえてらっしゃいます?お嬢さん!」

ふと大きな声をかけられて我に返った私は、指示された場所のメモを取っていた。手が震えて、うまく書けない。

揺れる住所と電話番号…私は、完全に、動転していた。






ー 人ってこんなにも冷たくなるんだ……。

ー 亡骸とは言い得て妙だなぁ

私は父の頬に触れた時、そんなことをぼんやりと考えていた。目の前にある亡骸は、“父”だったものであって、父ではない。だから、哀しいとか寂しいとか情緒溢れる感情が浮かぶことはなかった。

ーじゃ、お父さんは、どこへいっちゃったんだろう…。

心の中でそう呟いても、父はもう帰ってはこない。

帰ってくることは…ないのだ。

兄の航も駆けつけ、今、別の部屋で事情説明を受けている。私は、父だったものの前で、ふと思った一言を声に出した。

「…素朴な疑問なんですけど…私って…どうなるの?ねぇ!」

だけど無情にも返事はなく、私はただじっと、父の亡骸を眺めていた。


まさかの遺言状…たった二人の兄妹に亀裂が…


「電車内で痴漢トラブルに巻き込まれるなんて…悔しいわ」
「…高木先生って正義感がある方だったから…素晴らしいとは思うけど」
「逃げた犯人追いかけて…その途中で心臓発作って……無念だよなぁ」

父と付き合いのあった出版社の編集者たちが、廊下の隅で立ち話をしている。

葬儀も無事終わり、後片付けをしている最中だった。私は、彼らの前を通ることなく、そっとキッチンへと引き返した。

さすが有名人だった父らしく、報道カメラや新聞各社の取材でいっぱいの華やかな葬儀だった。

明日のニュースにはきっと「正義の作家、高木港一の半生」や「犯人を追いかけ無念の突然死」なんかが一面に踊るのだろう…。父の著作はきっと売れるだろう。そう思うと、何故か心のどこかでホッとする私がいた。

この10年、私にとって父は、生活そのものだった。

いや、もっと正直な言葉で言うと、父は私のお財布だったのだ。私の優雅な時間も、すべて、父というお財布があってのことだ。

お財布をなくした私にとって、父の財産は、私が再び優雅に過ごすために絶対に必要なアイテムであった。兄と半分にしたって何とか暮らせるはず…そう見積もっていたのに…。




「全財産の管理は、兄である高木航に一任する。そして長女、帆希には100万円だけを遺す。帆希に遺したい言葉はただ一つ…働きなさい。そして自立しなさい…とのことです」

父の顧問弁護士という男がやってきたのは、葬儀の二日後の今日。兄夫婦も同席し、父の遺言の中身というのを私と共に聞いている。

「ちょっと待ってください。こんな遺言状いつ作ってたんですか? 持病があるわけでもなかったのにわざわざどうして遺言状なんて…」

「お前が働かないで、父さんの脛、かじってたからだろ!」

兄がこんなにも声を荒げることは、今まで一度もなかった。40歳の東大卒、メガバンクで次長をしている兄は、父に似て上品で、父よりも寡黙な人だ。

そんな兄が、顔を真っ赤にして私に怒りをあらわにしているではないか。

「私は…お父さんのサポートをずっと…」

「もう何年も前から父さんには相談されてたんだ。お前の浪費癖に困ってるってな!」

ー信じられない…父が私をそんな風に思っていたなんて…。

父と娘、ふたり幸せに穏やかな時間を過ごせていた…私は、この10年、それを信じて疑わなかった。

「なぁ、帆希…いい加減…自立しろよ。もう34だぞ!これからどうすんだよ。財布くらいにしか思ってなかっただろうけど…父さんはもういないんだぞ!」

34歳、国立大卒、独身…無職……。

突然つきつけられた現実に、私は、頭が真っ白になるのだった。

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腐れ縁の彼の家に転がり込もうとした帆希に降りかかった、更なる衝撃の事実とは!?