J2とはいえ14得点・7アシストという強烈な数字以上に攻撃を牽引した浩司は、その年の後半、オーバートレーニング症候群が悪化。翌年には起き上がることすらできず、一時は生きることに対する意欲を失うほどの状態に陥った。
 
 サッカー選手としての復帰どころか、普通の生活すらできない。そんな浩司をペトロヴィッチ監督は辛抱強く待った。「浩司がいない広島はベストメンバーではない」と記者会見で言い切り、電話でも「ダイジョウブ、ダイジョウブ」と日本語で励ました。なんとか回復基調に入った浩司と再会した時、涙を流して抱き合った。
 
「私は、どうすれば浩司を助けられるのか、本当に考えた。選手と監督というよりも、ひとりの人間として」
 
 夏場に入り、浩司は少し、身体を動かせるようにはなってきた。だがそれでも、練習場には顔を出せずにいた彼と慢性疲労症候群のためにやはり長期離脱を余儀なくされていた兄・和幸を、指揮官は選手たちとの食事会に誘った。
 
「我々のチームに最高の選手を補強したぞ。紹介しよう。森粼和幸と森粼浩司だ」
 笑いに包まれる会場。照れ笑いを浮かべる森粼兄弟。なごやかな雰囲気のなか、これまでとまったく変わらないチームメイトとの触れあいに、ふたりは癒やされた。それから練習に復帰するまで、さほど時間は要さなかった。
 
「君はひとりではない。そう、浩司とカズには伝えたかったんだ」
 
 恩師は7年前を振り返る。
「だからこそまず、チームとしてふたりと向き合い、彼らが戦っているものに対して、一緒に戦いたかった。チームのみんなが浩司やカズを愛し、ふたりと共にあることを伝えたかったんだ。
 生きることは難しい。いいことばかりではない。ただ、人間としての質が問われるのは、その厳しい時にどう振る舞うか、どう戦うか。その厳しい戦いに対して、自分たちが持っている力をふたりに贈り、その力で前を向いてほしかった。浩司もカズも、しっかりと歩こうと努力し、厳しい戦いのなかで強さを身につけてくれた。
 今もきっと、楽ではないだろう。それでも前を向いているのは、当時の出来事があったからかもしれない」
 
 ペトロヴィッチ監督や柏木をはじめ、多くの人々が「日本代表で活躍してしかるべき選手だ」と森粼浩司のクオリティを讃え、その行く道を阻んだ病を悔やむ。だが、本人は「そういうアクシデントがあったからこそ、自分は人間的に成長できた」と捉えている。
 
「それにね、僕はたくさんの人に恵まれました。クラブのみなさんやチームメイト、家族、僕をどんな時も待ってくれているサポーター。そして、ミシャと森保監督。感謝という言葉以外には、見つかりません」
 
 森粼浩司が戦ってきた軌跡は、想像を絶する。17年も現役を続けられたことが奇跡であり、その奇跡を支えたのはたくさんの人々の力なくして語れない。特に、彼が名前を挙げたふたりの指揮官だ。
 
 サッカーの楽しさを教え、深い愛情と優しさを注ぎ続けたミハイロ・ペトロヴィッチ。「苦しい自分を、何もできない自分をも好きになってみたら」とヒントを与え、毎日2時間でも3時間でも「苦しみの吐露」に付き合った森保一。サッカー選手・森粼浩司としては、ケガや病との戦いは不運。だが、人生にとって得がたい師と二人も出会い、兄・和幸らをはじめとする仲間たちと共に栄光を勝ち取り、17年間を広島一筋に過ごしてサポーターに愛された人間・森粼浩司は、確かに恵まれていたのかもしれない。
 10月24日、広島市内のホテルでクラブ史上初となる引退記者会見に臨んだ偉大なる7番の表情は実に晴れやかだった。森保監督が「本当によく頑張った」と嘆息するほど辛いサッカー人生を走りきった男は、「悔いはありません」と言い切った。
 
「広島のために選手としてではなく、違う形で貢献したい」と会見で語ったように、これからも彼の頑張りが広島で見られる可能性もある。ただ、今は未来のことを語るよりもまず、心身をゆっくりと休めてほしい。サッカーのことを忘れ、開放感に包まれながら、家族との時間を過ごしてほしい。それだけの資格が、森粼浩司にはある。
 
「10月29日のホームラストマッチでのセレモニー、きっと涙をこらえられない。今からもう、泣いている人もいるからね」
 
 こんな言葉を投げかけると、7番は穏やかにこう言った。
 
「泣けるというのは素晴らしいんですよ。僕には、(病気のために)泣くことすらできない時期があったから」
 
 こんな凄絶な人生を戦ってきた男の引退に、精一杯の拍手を。
 
取材・文:中野和也(紫熊倶楽部)