〜第一章〜

■南アフリカWorld杯

2010年7月25日。J1第14節。川崎×京都戦。
Jリーグにおいて、担当する審判員の割り当ては直前まで発表されないのが基本だが、この試合に限っては異例の措置がとられた。当時のJFA審判委員長・松崎康弘が、西村がこの試合で主審を務めると会見にて発表を行ったのだ。

試合当日。いつものように、スーツケース片手に等々力競技場に足を運ぶと、川崎と京都、両サポーターから拍手が起きた。少し照れくさい気持ちで、スタジアムに入り、今度はグランドチェックに訪れると、先ほどとは比べられないくらいの大きな拍手を受けた。



「ありがたいなと思いました。W杯をみてくれて、審判という新たな分野も興味をもってくれたのかなと。」



南アフリカW杯で西村がみせたパフォーマンスは本人の想像以上の反響をよんでいた。2010年7月1日には、みのもんたメインのTV『めのつけドコロ』で「まだ残るサムライ」とりあげられ、同年10月25日の『NHKトップランナー』、12月23日には報道ステーションと様々な媒体にてそのレフェリングをとりあげられていた。


2010FIFA南アフリカW杯−
国の総合力を問われるW杯という場は審判員にとっても同じ。各地域で結果を出した審判員のみが参加できるシステムになっており、選ばれるのはW杯に選手として出場するくらいに困難である。

まず2007年にFIFAが世界中の主審から54人を選ぶ。これはベスト54ではなく、各地域でわけられた54人で、W杯本大会をかけた予選と同様に、各地域から選ばれる格好だ。
そこで選ばれた54人は、セミナーや英語テスト(コミュニケーション)や体力テストのふるいにかけられる。

これがかなりハードで、体力測定はまず40メートルを6秒2以内で6本走る。次に、150メートルを30秒以内で走り、50メートルのインターバル(35秒以内に歩く)をとって、12本繰り返す。そのスピードはもちろん、かかったタイムが一定していることも評価の対象となる。

この体力テストをクリアした後、3年間は試合中もハートレイトモニター(スポーツ心拍計)を装着し、心拍数などのデータは全てFIFAに監視され、それもポイント化されていく。そのなかで、U-17、クラブW杯、U-20のジャッジも、上川徹(現・JFA審判委員長、AFC審判委員、FIFA審判アセッサー)をはじめとするアセッサーたちに審査される。

こういったテストを経て、2008年には38トリオ(主審1+副審2)に絞られ、2010年に最終的な30トリオがW杯に選出される。



「W杯だから、意気込むという訳ではなくて、W杯という試合でベストをつくすために、日本の1800mの場所で高地対策をしてから、現地に入りました。
南アフリカは冬でとても寒かったですし、乾燥していました。ホテルは標高1300mの所にあるプレトリアという行政の街で、審判が滞在するホテルということで不正行為がないように厳重に外部から隔離されています。それに、ホテルは警護がやりやすいのかコテージ式になっていて、周囲にはパトカーと白バイ、警察官が24時間体制で守ってくれていました。」



物々しい雰囲気のなか、審判団はトレーニングを行いながら、割り当てを待つ。そのトレーニングを取材した澤登正朗は「西村のトレーニングに一切妥協が無かった」と話す。



「最初の試合(6月11日、A組第2戦ウルグアイ×フランス)の割り当ては3日前のディナーで発表されました。ご存知のように、29トリオの審判団が現地入りするものの、全てのトリオが試合を裁けるというわけではありません。第4審判と予備審判に回ることもあって、29のうち6トリオは試合を任されなかったですよね。
開幕戦の笛が同じアジアサッカー連盟(AFC)のラフシャン・イルマトフ(ウズベキスタン)だったのでとても嬉しかったものですし、驚きました。アジアでがんばってきたイルマトフが選ばれて、アジアだってできるんだって。僕は真ん中くらいの割り当てだと思ったら、初日。FIFAがアジアの基準でやってくれといっている。いままでやってきたことをやればいいと思いました。」