イチローが、2年総額1,300万ドルで米ニューヨーク・ヤンキースと改めて契約した。
 来年10月には40歳になるが、「ポテンシャルだけでやってきた39歳と、いろいろなものを積み重ねて、さまざまなことを考えて、そこに来た39歳を一緒にしてほしくないと思っている。ヤンキースはそのことを理解してくれているということではないでしょうか。とても感謝しているし、その気持ちに応えたい」と、さらなる活躍に自信を覗かせた。

 契約内容については、フィラデルフィア・フィリーズサンフランシスコ・ジャイアンツが好条件を提示したもようだが、「勝つことへの強い思いは、勝負の世界に生きている者であれば、どのチームの人間であっても持っているものだが、ヤンキースには負けを許さない空気が存在している。これが共存している組織は実はなかなかないのではないか。そんなチームが必要としてくれているなら断る理由はない」と述べた。

 イチローは今季途中に、シアトル・マリナーズからヤンキースに移籍したが、ヤンキースに移ってから、すっかり聞かなくなったものがある。チーム内でのバッシングだ。

 イチローは2001年から今季途中までマリナーズでプレーしていたが、チームメイトがイチローを批判する記事が幾度と無く、新聞報道を賑わせていた。どこまで本気かはわからないが、チームメイトが襲撃を企てているとのニュースもあった。
 そんなイチローバッシングを、ヤンキースに来てから、めっきり聞かなくなった。

 ヤンキースはあまり好きではないが、この点についてはさすが、と言わざるを得ない。強いチームは、どんなに個性豊かな選手が揃っていても、みな同じ方向を見ているのだ。(チームが勝っているから、選手も多少のことには我慢できる、との見方もできるが)


 故ビリー・マーチン前監督が率いていた1975〜1979年のヤンキースも、そんなチームだった。
 何せ指揮官がタカ派。故ジョージ・スタインブレナー前オーナーの部屋に飾ってあったスローガン、第1条「ボスは常に正しい」、第2条「ボスが間違っていると思ったら第1条を見よ!」を気に入り監督室にも用意したほどで、ベンチではレジー・ジャクソンらと対立することもしばしば。他の選手を巻き込んでのケンカ、罵り合いも珍しくなかった。
 その様子は、地元タブロイド紙が監督や選手を野獣に見立て、「ブロンクス・ズー(ブロンクス動物園)」と紹介するほどだった。
 その一方でチームは、1977年、1978年と2度ワールド・シリーズを制している。1978年は、首位との最大14ゲーム差を引っくり返しの優勝だった。

 そんなヤンキースをまとめたのが、左腕投手のロン・ギドリーと言われている。ギドリーは周囲で何が起きても超然としており、毒舌家で知られるスパーキー・ライルも「若いくせに、しっかりとしている。こんなヤツは初めて見た」と一目を置いていた。

 かくして個性豊かな顔ぶれを揃えながらも一時代を築いた1970年代後半のヤンキースだったが、どうしても我慢できなかったのが、他でもないマーチン監督だ。
 個性豊かな選手と、選手以上に個性的なオーナー、スタインブレナー氏に挟まれたこの中間管理職は、ストレス解消を目的に、拳銃片手に球団の重役用のガレージに忍び込み、オーナーの車のフェンダーとドアに穴を空けていたとの逸話があるとか、ないとか。