同僚ホステスの殺害、死体遺棄の容疑で指名手配され、美容整形手術を繰り返し、20もの偽名を使いわけた女。当時は殺人が15年で時効、その21日前まで逃亡し続けた福田和子は日本中が大騒ぎの中逮捕された。
逮捕後、福田は逮捕だけでは時効の効力は失われておらず、罪を逃れるため大嘘をつきまくっていた。逮捕後何があったのか?当時の警察関係者の証言と裁判記録などを基に再現ドラマで紹介した。
1982年8月19日、愛媛県松山市のマンションで、福田は同僚のホステスを殺害。
日が暮れるのを待ち、まず親戚の家に電話をかけ「友達がパトロンから逃げるんで引越ししたいんよ。今からすぐトラックレンタルしてきてくれない?」と連絡。夫にも「今から夜逃げの引越しするから来てくれない?」と頼み、午後8時には夜逃げの手伝いだと思っていた夫がやってきた。
そして福田は夫に殺害を告白。やむなく承諾した夫と、女性の遺体を車に運んだ。
さらに親戚が来ると福田は殺害した女性のほとんどの家財道具、さらには装飾品から衣類までも運び出した。
持ち出した荷物は、福田が松山市内に借りたマンションへと運んだ。その後福田は親戚を帰らせ、夫と、松山市の中心地から18kmほど離れた山の中に女性遺体を埋めた。
翌日、引越しを手伝った親戚の妻に通帳を渡し、盗んだ預金通帳から現金76万4000円を引き出させた。
その後、捜査の手が自分に届きそうになると、通帳と15万円ほどの現金をカバンに入れ福田は家を出た。この時34歳。松山へと向かい姿を消した。その後、夫は警察から事情聴取を受けていた。
一方、福田が行き着いたのは石川県金沢市。偽名を名乗りスナックでホステスとして働くことに。
福田の夫は事情聴取で「死体を山に埋めた」と自供。松山東警察署には捜査本部が設置され警察は福田を殺人・死体遺棄の容疑で全国に指名手配。顔写真も公開されたが、その頃福田は東京の病院で美容整形手術を受け、手術を終えると再び金沢の店に戻り働いていた。
逃亡から約1年、福田はスナックに客として訪れた和菓子店の若旦那に目をつけた。若旦那は離婚し福田と暮らすことに。福田は和菓子店を手伝い、息子を金沢まで呼び寄せ甥っ子と偽り連れて帰り、長男を和菓子店で見習いとして働かせた。
ある日、 若旦那は福田の指名手配のポスターを見つけ「福田和子なんか?」と問いただした。その場はなんとか誤魔化した福田だったが、後日家族の通報を受けた警察が和菓子店に。警察に気づいた福田は自転車を盗み漕ぎ続け、5年半潜伏した石川を離れた。
捜査で福田が美容整形していたことが判明。その後、福田は偽名で愛知県名古屋市のホテルの清掃員として働いていた。 しかし福田のニュースは頻繁に流れたため、危険を察知すると逃走。1988年から1996年の8年間で北海道から山口まで、名前を変え、職を変え、全国15箇所以上を転々としていた福田は、時効まであと1年となった頃、福井に現れた。
福田は福井の飲食店に偽名を使い頻繁に通うようになっていた。店での福田は、人懐っこくて明るい女性。カラオケで店内を盛り上げる様子もあった。
時効まで1か月、テレビで福田の生声が放送されると、女将や常連客は「そっくりや」と警察に通報。
警察は女将に、瓶ビールとカラオケの時に持つマラカスから指紋を採取してほしいと依頼。
時効成立まであと23日という時、福田は街に現れ、翌日、時効成立まで22日、福田は再びお店に訪れた。そこでビールから指紋を採取することに成功。
警察から、女将に電話で指紋が一致したため今から向かうと連絡があり、店を出た福田を警察が囲み連行。14年と344日の逃亡劇はこうして幕を下ろした。
しかし、時効まで21日、福田は罪を逃れるため最後の悪あがきにでる。
あと20日以内に起訴しなければ殺人罪として有罪にはできない。福田は「あの子は彼氏ともめてたんよ。だからその彼氏に相談されて、一緒にやったことなんよ」と、共犯者がいると言い出した。実は殺害現場にやってきたその女性の彼氏に福田はマンションで会っていた。
警察は、その彼氏が共犯ではないことを証明しなくてはならなくなった。警察は数枚の男性の写真を福田の前に並べ、「亡くなった彼女の彼氏が共犯やとしたら顔はわかるやろ?」と聞いた。写真を間違える福田だったが、動じる様子さえ見せなかった。そして「殺したのは、共犯の男の人だったんです」と、別の共犯者がいると言い始めた。
その男性は愛媛の福田の家にも度々来ていた人物だという。そして、福田は「その人とお店を出す計画をしてて、あの日、その人とお金の相談をしに彼女の部屋に行きました。そしたら彼女がバカにしてきたんです。その男の人が怒っちゃって。外に出て戻った時には、死んでたんや。私は殺しなんてしてないんです」と供述。
今度は、その男性が事件に関係あるのか・ないのかを証明しなければならなくなった。愛媛県警は事件のあった1982年8月19日の日記を見つけた。
そこには護岸工事の仕事とあった。その建設会社を調べると、犯行の日に東京湾の護岸工事にその男性が行っていたことが判明。
そして、当時の関係者の証言も取れた。刑事が福田に「もう、言い逃れはできんわな」と伝えるも、福田の表情から動揺は感じられなかったという。
こうして時効まで残り1日で起訴。2003年11月には無期懲役刑が確定。2005年3月、刑務所内でくも膜下出血で倒れ息を引き取った。57歳だった。