当時、ソニーが買収した映画スタジオはハリウッド(ロサンゼルス)にあり、ハリウッドが世界の中心でした。また、音楽の中心はニューヨークでした。そういう世界をソニーのヘッドクオーターから見ていましたので、プレイステーションのプロジェクトに参加したことで、もしかしたらゲームでは日本、ひいては日本人が世界の中心となってビジネスが広がるかもしれないという感触は持っていました。

 もう1つの動機は、ゼロからの立ち上げだったので面白そうだと。上の人間は、自分を音楽ビジネス要員に考えていたようですが、流れの中で自ら志願してゲーム業界に飛び込みました。まさかゲームがこんなに大きい事業、更には文化にまでなるとは思っていませんでしたね。


「プレイステーション」の立ち上げ

 ─ そのときのソニー社長が大賀典雄さんでした。どんなことを学びましたか。

 内海 私の人生にとって大変大きな影響を与えてくれました。ソニーに入社し、最初の配属先は経営企画部門で計数管理や連結会計などを担当していました。入社3年目に米ペンシルバニア大学ウォートン校のビジネススクールへの企業派遣留学が叶い、MBA(経営学修士)を取得して帰国。そのときにエンタテインメント経営企画部門への配属となりました。

 毎月のようにエンタテインメントの環境に関する資料をまとめて大賀さんや後の社長となる出井伸之さんも含めた役員の方々へのレポートを作っていました。当時の会議ではよく大賀さんより金言をいただいていたのですが、今でも覚えているのは、ソニーピクチャーズを買収したときに、多くの社員は「クリエイティブな会社を買った」と思っていた中、大賀さんはそうではなく、「ディストリビューション(コンテンツの流通)の会社を買ったんだよ」とおっしゃっていました。

 クリエイティブな製品を作ることができても、メジャーと呼ばれるエンタテインメント企業というのは、結局そのようなコンテンツを流通できる力を持っていることが強みなのだと。それを聞いて私も「なるほどな」と思いましたね。エンタテインメントを本当に理解している人だと思ったことを覚えています。

 ─ 物事の本質を理解した経営者だったわけですね。

 内海 ええ。しかも、生意気なことに私が「大賀さん、社長として最終的に目標にしていることは何ですか?」と尋ねたことがありました。すると大賀さんは「SONYのブランド価値を上げることだ」と答えられた。ブランドに対する意識が非常に高い方だったのです。安売りをとても嫌がる人でした。

 ─ 価格を安くして売上高を上げようとするケースが多い。

 内海 ブランドを利用して品質の劣るものを安売りして、短期的に売上を上げても、ブランドの価値を棄損してしまえば中長期的には得をしない。ですから私もブランド価値を維持することをとても意識して今も経営に当たっています。

 実はセガでも品質を意識せずに安売りをするケースがかなりありました。私はそれを絶対にやりたくないと。「SONY」は4文字ですが、「SEGA」も4文字。大賀さんの言葉を借りれば、SEGAのブランド価値を上げることが私の使命です。



大賀典雄氏と久夛良木健氏の一言

 ─ 大賀さんがプレイステーションの開発を決断したとき、開発者だった久夛良木健さんの役職とは。

 内海 確か、まだ部長ぐらいで、大きい部署を持っているわけでもありませんでした。1992年頃、ソニーと任天堂はゲームプラットフォームの共同開発をする予定でした。久夛良木さんはCD-ROMも含めた、音源チップなどゲーム機のかなりの主要デバイスを任天堂に納入し、当時人気だった家庭用ゲーム機「スーパーファミコン」の拡張機としてローンチする約束を取り付けていました。