◆「少年少女が健気に頑張る姿」を消費する行為への違和感

 障がい者が頑張る姿を、健常者がコンテンツとして消費し、感動する。そんな行為に対して、2012年、身体障がいがあるオーストラリア人のコメディアン、ステラ・ヤングが、批判と共に投げかけた言葉が「感動ポルノ」。

 病気や障がい、複雑な家庭の事情を抱えながらも頑張る少年少女を描いた物語の一部が、感動ポルノと重なるようにも感じられてしまったそうです。

「私には比較的重いハンデを抱えた身内がいるので、必要以上にそういうことを感じてしまったのだと思います。

 ただ、日本でもチャリティー番組で病気や障がいのある方が切磋琢磨する姿を、視聴者が安全圏から眺め、寄付をしていい気持ちになるのは、果たして正しいことなのか、と議論になったことがありました。

 一部の作品に対し、自分が感じてしまった引っ掛かりを、なるべく解消しつつ、同じような枠組みの中で物語を成立させられないか、というのが執筆を決めた理由のひとつでした」

◆悩み、迷う大人の姿を描くことも執筆理由の一つ

 加えて執筆理由となったのが、ブルーライト文芸における「親の不在」に気が付いたことだといいます。

『ぼくと初音の夏休み』では、主人公の父親の死因や母親とのやりとり、またヒロインと両親との不思議な距離感など、「親」の存在を色濃く、そしてリアルに感じさせる描写が多数登場します。

「ブルーライト文芸の中には、親の描き方がやや記号的ではないか、と感じられるものもありました。たとえば、主人公やヒロインを抑圧するような親か、子どもに理解があって仲が良い親か、といったことです。

 自分自身が思春期の頃、『大人になったら今のように迷ったり悩んだりせずに済むのかな』と考えていました。ですが、実際に大人になってみると、相変わらず迷い、悩みまくっています(苦笑)

 自分が成長していないだけかもしれませんが、『大人は子どもの延長のような存在』で、死ぬまで未完成なんだ、と感じています。大人だって成長し得る。子どもと大人はどこかで綺麗に二分できるものではないのではないでしょうか。

 当たり前のことですが、親にも子どもだった時期があり、青春時代を通ってきた。その経験を胸の奥に宿しつつ、大人になり、迷い悩みながら必死に親をやっている。

 ですから、子どもときっぱり切り分けられた『敵対する存在』や『成熟した理解者』としての大人ではない親の姿を描きたいと思ったんです」

◆金銭・性についての問題も取り上げたかった

 そして、3つ目の要素として掌編小説さんが意識したのは、ブルーライト文芸ではあまり描かれない「性」や「お金」といった生々しい部分もきちんと描くということ。

「性とお金の話が出ると、急に現実に引き戻されるので、フィクションを描く以上、『あえて触れない』という選択ももちろん正しいと思います。

 ただ、人間が生きていく上ではお金は必要だし、自分たちが生まれたのも誰かの性行為があったからですよね。それを描かないのは、個人的にはどこか嘘っぽい気がしてしまったんです。

 そこで、ヒロインの過去や親との葛藤の中に、意識的に性やお金の要素を盛り込んでみました」

◆意外だったのは、親世代からの共感の声が多かったこと

 これまでにない、新しいブルーライト文芸を描いてみたい。そんな想いのもと執筆を進めていった掌編小説さんですが、いわゆる“王道”から外れてしまうことに、ためらいはなかったのでしょうか。

「私は長く文字に関わる仕事をしてきましたが、プロの小説家ではないので、『自分が好きなもの、読みたいものを書いたらいいんじゃないかな』とあまり気負わず書いていました。