その点、わたしが銀行に入行した動機は、日本を動かすのは金融だと思っていたからです。中でも興銀はカルチャーが武蔵と似ていました。自分たちで考えるという感覚です。それだけ意識の高い人たちが多かったと。
わたしは産業調査部に配属され、そこではテーマも自分で考えなければなりませんでした。先輩から「これをやりなさい」と言われるわけではありません。何か課題を見つければ、そこに関係する会社にヒアリングに行ったりしましたからね。
専売公社、住商への入社動機
─ 興銀はニュービジネス開拓に熱心でしたね。岩井さんは当時の日本専売公社への就職を選択しましたね。
岩井 ええ。わたしは変化するところに行きたいと思っていました。変化しない会社では先輩の言うことを聞かないといけない。言われた通りに行動するのは嫌だったのです。その意味では、わたしが入社する1983年の時点で既に85年の民営化が決まっていました。民営化するということは、新しい仕組みや新しい仕事ができるようになると思ったのです。
実際に入社して最初の頃は経営企画部門で、会社の中期経営計画の策定などを任されました。他にも日本たばこ産業の「JT」のマークをつくったり、その後は食品事業の立ち上げにも関与することができました。先輩にも先輩面されずに、好きなことをやらせてもらってきました。
─ 新領域の開拓を手掛けたということですね。瀬戸さんは住友商事を経て、工具のインターネット販売会社を立ち上げましたね。
瀬戸 はい。先ほど申し上げた通り、自分でドライバーズシートに座ると決めてMonotaRO(モノタロウ)という会社を設立し、今ではLIXILで面白い仕事をさせてもらっています。新しいことでも恐れずに済んだのは武蔵でのバックボーンがあるからだと思います。
わたしの住商に入社する動機は少し不純でした。武蔵の中高6年間で男子校、大学の4年間も男子しかいないクラスだったのです。ですから10年間、男子校だったと。一方で住商は女子の比率が高かった(笑)。
ただ、最初に配属された鉄鋼の仕事は楽しかったですね。鋼管や鋼塊棒鋼、鋼板などがある中で、わたしは線材というワイヤを担当しました。ここで良かったのは商売の単位が小さかったということです。単位が小さいから貿易なども全て任せてもらえたのです。楽しかったです。
森 MonotaROは社内ベンチャーで出発しましたよね。
瀬戸 そうです。ただ、住商はお金を最初はあまり出さなかったのです。1997年にアジア通貨危機が起こり、鉄鋼の仕事が一気になくなりました。そこで当時出てきたインターネットに着目してインターネットの仕事をやりたいと申し出て、ビジネスプランを会社に提出したのです。
しかし、それはあまり商社に関係ないといった具合になりまして。それで出資者を探しに米国に渡り、グレンジャーという工業用間接資材の販売を行う会社から出資を仰いだのです。すると、住商も出資してくれることになり、その後は三井物産などからも出資してもらいました。
─ 瀬戸さんのような人は武蔵には多いのですか。
森 いや、瀬戸さんのような人は少ないですね(笑)。武蔵は他人を押しのけて自分だけが上に上がろうとする人は少ない。
内海 そうですよね。自分の趣味で鉄道が好きだったり、天文が好きな人が多かったですね。宇宙関係の道を進む人も多くてJAXA(宇宙航空研究開発機構)の職員が何人かいますね。
岩井 学者は多いですよね。
外部リンク財界オンライン