[画像] 社会人リーグからJの舞台に戻ってきた水野晃樹「サッカー選手って、年齢を重ねてもいくらでも成長できる」

ベテランプレーヤーの矜持
〜彼らが「現役」にこだわるワケ
第5回:水野晃樹(いわてグルージャ盛岡)/前編


現在はJ3のいわてグルージャ盛岡に所属している水野晃樹

"オシムチルドレン"として脚光を集め、21歳で日本代表に選出されたジェフユナイテッド千葉(※入団時はジェフユナイテッド市原)での10代〜20代前半は、端正な顔立ちも相まって、クールな印象が強かった水野晃樹。だが、キャリアを重ね、いわてグルージャ盛岡での2シーズン目を過ごしている38歳の彼は、どことなく柔らかな雰囲気を漂わせるようになった。チームメイトにも積極的に声を掛け、逆に若手選手からも気軽に冗談が飛んでくる。

 実は取材にあたって写真撮影をお願いした際も、彼が最初に着用していたのは、戦いの爪痕が色濃く残る傷だらけの練習着だったが、周りから「晃樹くん、ダメ、それ! グルージャのイメージダウンになる!」というツッコミを受け、慌ててマネージャーが新しい練習着を用意してくれるという一幕も。

「いいんだけどな。これが今の僕だから」

 ポツリと言った言葉に、重ねてきたキャリアの深みを感じながら、取材が始まった。

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 プロキャリア20年目の節目となった昨シーズン。神奈川県1部リーグのはやぶさイレブン(現厚木はやぶさFC/関東リーグ2部)からJリーグの舞台に戻ってきた。

「はやぶさに拾ってもらった身としては、『チームをJリーグの舞台に連れていく』という目標を実現したいという思いもありました。ただ、自分の年齢を考えても正直、選手としての時間はそんなに残されていないので。この歳でJクラブから声を掛けてもらえるなんてそうそうないと考えても、チャンスを逃したくないと思いました」

 事実、35歳を超えての社会人リーグからJクラブへの加入は異例中の異例だろう。特に近年は、どれだけ充実したキャリアを築いても"30代"の選手への風当たりはより強くなっている印象すらある。それを踏まえても、声を掛けてくれた盛岡の思いに全力で応えようと心を決めた。

「グルージャの選手にしたら、『社会人から選手を獲るなんて、いくらキャリアがあってもありえないだろ』って思ったはずだし、僕が若かったら間違いなくそう感じたはず(笑)。その風当たりを想像すればこそ、より全力でこのチャレンジに臨まなければいけないと決意を固めたし、グルージャに必要としてもらった意味をプレーで示そうと思いました」

 加入直後、はやぶさでの2年間で増えていた体重を一気に5キロ絞ったのも、その決意の表われだったのかもしれない。家族と離れ、単身で盛岡に乗り込むことにも、大きな覚悟を備えていた。

「はやぶさでの2年間はチーム練習以外のところで、体のケアや筋トレをする時間が現実的になかったというか。練習が終わったら少し休憩して仮眠を取らないと、夜のスクールで指導をする体力が持たないから、と自分の体にかける時間が極端に減って、体重も増えてしまった。

 ただ、決して恵まれているとは言えないグルージャの環境とうまく付き合いながらコンスタントに戦い続けるには、できる限りケガのリスクは減らさなくちゃいけないと思いました」

 日々の食卓に、栄養バランスの摂れた色とりどりのおかずが並ぶのもその決意から。自炊は以前から趣味のひとつだったらしく、「岩手にくる前から家族に料理を振る舞うことも多かった」という彼は、今も毎日のようにキッチンに立つ。

「時代に応じてサッカーもどんどん変化してきていることを思えば、サッカー選手って年齢を重ねてもマンネリ化することはなく、いくらでも成長できると思うんです。今の歳になったから気づけることもあるし、若い選手から得られることも多い。何より、僕はサッカーが好き。観ることではなく、プレーすることが、です。そのためには戦える体は不可欠だと思っています」

 今年で21年目を数えるキャリアは、2004年にジェフ千葉で始まった。静岡県の名門・清水商業高校を卒業するにあたっては、一旦は大学進学を選びかけたものの、筑波大学への推薦入試に落ちたことで"プロ"への思いが加速した。

「清水商の大滝雅良監督に、『今のままでプロに行っても2〜3年で潰れてしまうから、大学でしっかり体を作ってからプロを目指せ』と言われて筑波大を受験したんです。でも当時は、大人の人と会話する機会なんてほぼなかったですからね。5人の面接官の前に立った瞬間、頭が真っ白になって質問に何も答えられずで......。落ちちゃったからと、清水商の先輩方が多く在籍している中京大学に願書を提出したんですけど、その直後にジェフから育成枠で選手を探していると声を掛けてもらいました」

 小学2年生の時にJリーグが開幕して以来、プロサッカー選手になることを目指してきた彼にとっては願ってもない話だった。

「清水商を選んだのも、当時、一番Jリーガーを輩出していた高校だったから。最短でプロの道に進めるチャンスがあるなら、絶対にそれを掴みたい、と思いました。

 大滝監督には当初、『今さら、中京大を断ったら、今後後輩たちが進学できなくなるかもしれない』と言われて揺らぎかけましたけど、最後は大滝監督にも『おまえの人生だから、自分で決めろ』と理解してもらい、一緒に中京大にお詫びに行ってもらって、ジェフへの加入が決まりました」

 その決断は水野にとって、そのキャリアにおける最初のターニングポイントになる。イビチャ・オシム監督との出会いを含めて、だ。

「最初の印象はデカくて、強面(こわもて)な人だなって(笑)。でも、大滝監督も大きくて怖かったから雰囲気が似てるなって思いました」

 プロ1年目は月給9万円、「ベンチ入り3回でC契約選手に昇格」という約束での練習生契約。C契約を勝ち取るまでには半年間を要したが、右も左もわからずに飛び込んだ「真っ白な自分」だったからこそ、そのすべてを吸収することができた。

「最初は周りの選手のレベルの高さとか、判断、パス、アプローチのスピードに気圧されて、練習についていくのに必死でした。体の線も細く、当たり負けすることも多かったし、守備なんて全然できなかったけど、オシムさんはいつも、できることで勝負させようとしてくれる監督だったので。『晃樹に守備は求めていない。それなら1試合で必ずクロスボールを10本上げろ。そしたら、あとは仲間が助けてくれる』とよく言われました。

 当時はプロ1年目で、何を言われても一切の抵抗感もなかったし、『全部を吸収しなきゃ』『これをやらないとプロの世界では通用しないんだ』ってマインドになれたのもよかったんだと思います」

 もっとも目新しい練習も、オシム氏のサッカー観も、楽しむ余裕は一切なかった。

「練習が終わると頭も体も使いきった状態で、みんなが『マジで頭がパンパンだわ』って倒れ込んじゃうような感じだったんです。それに対して、僕はパンパンな感じはなかったけど、楽しめるほどの余裕もなく、ただただ素直に全部を受け入れていた感じでした。

 オシムさんとは練習中に呼ばれて話す程度で、ゆっくり会話をした記憶もない。何を言っても見透かされている気がして、自分から話に行くなんてとんでもなかった(笑)。ただ、『日本人は自己主張がない。言われたことしかしない。それはいいふうに捉えれば勤勉さだけど、悪く言えばアイデアがない』とおっしゃっていたのはよく覚えています」

 氏は当時、フィールド全面での3対3、1対1の練習を多く取り入れていたそうだが、特徴を前面に発揮しやすいそれらの練習が、水野の武器であるスピード、ドリブル、キックを際立たせることにつながったのは言うまでもなく、ひいてはチームの主軸選手への成長を促していく。自身とは対照的に加入時から注目を集め、常に自分の先を走っていた同世代の水本裕貴にも刺激を受けた。

 だが、そうした目覚ましい成長の陰で、「このままでいいのか」という疑問が頭をもたげ始めたのもこの時期だ。2005年には初めて世代別代表に選出されてワールドユース選手権(現U−20W杯)に出場。さらに、2007年にはオシム氏が監督に就任した日本代表にも選出されるなど、右肩上がりのキャリアを積み上げていた水野だったが、ワールドユースで一勝もできなかった経験は、時間が経つほど彼のなかで色濃くなっていく。

「今もそうですけど、僕はサッカーを観るのは好きじゃないので、海外サッカーの知識はほぼなかったんです。でも、ワールドユースで世界と日本との差を突きつけられ、海外でプレーする必要性を考えるようになった」

 だからこそ、2007年のシーズン後にセルティック(スコットランド)からオファーが届いた時には、瞬間的に答えを出した。当時は日本代表としての活躍がなければ、海外移籍が実現しなかった時代。水野はそれに当てはまらなかったことや、2008年には北京五輪を控えていたこともあり、周囲には9割方反対されたが、"その先"の未来を考えた。

「一切、迷わなかったです。移籍にはタイミングもあるし、五輪に出たからといって、また話がくる保証はない。それなら目の前にあるチャンスを掴みたいと思いました。将来、ワールドカップで活躍できる選手になるには、当たり前のように海外でプレーできなければいけないという思いもありました。オシムさんには『今より一段階どころか、2〜3段階くらいステップアップをしなくちゃいけない難しい挑戦だぞ』と言われたし、簡単にいかないのは覚悟のうえでした」

(つづく)◆水野晃樹「まだまだ戦える」>>

水野晃樹(みずの・こうき)
1985年9月6日生まれ。静岡県出身。清水商高卒業後、ジェフユナイテッド市原(現ジェフユナイテッド千葉)に入団。すぐに頭角を現して、チャンスメーカーとして活躍。2005年にはU−20日本代表に選出されてワールドユース選手権に出場。2007年には日本代表にも召集された。そして2008年1月、スコットランドの名門セルティックに移籍。2010年に帰国して柏レイソル入り。以降、ヴァンフォーレ甲府、ジェフ千葉、ベガルタ仙台、サガン鳥栖、ロアッソ熊本、SC相模原、はやぶさイレブンでプレー。2023年にいわてグルージャ盛岡に加入した。