[画像] 100年越しの恩返し トルコ×日本の“奇跡の絆”を導いた「ロシアには頼るな」という世論

トルコといえば、日本に友好的と言われている国のひとつです。なぜ、地理的にも決して近いとは言えないトルコの人びとはこんなにも日本が好きなのでしょうか。その答えは明治時代に起こった、大きな海難事故にありました。

日本がトルコを知ることになった大きなきっかけ

 ヨーロッパとアジアの境にある国、トルコ共和国は親日の国家として知られています。2012年に外務省が行った世論調査では83%のトルコ人が、日本との関係を「友好的」または「どちらかといえば友好的」と答えており、日本に対して多くのトルコ人が日本に友好的な感情を持っていることがうかがえます。

 地理的にも決して近いとは言えないトルコの人びとが、ここまで日本好きな理由は、明治時代に起こった、大きな海難事故にありました。


「エルトゥールル」号(画像:串本町)。

 19世紀末、ヨーロッパ列強との不平等条約に不満を持っていたオスマン帝国(現在のトルコ共和国の前身)のスルタン(皇帝)であるアブドゥルハミト2世は、同じくヨーロッパ列強の態度に苦しめられていた日本の明治政府と、平等な条約の締結を目指して、日本への親善使節団の派遣を計画しました。

 この使節団には2年前にトルコを訪問した小松宮彰仁親王殿下に対する返礼の目的も含まれていたようです。使節団の乗艦する船にはトルコ海軍所属の木造フリゲート「エルトゥールル」号が選ばれました。

 1889(明治22)年7月、「エルトゥールル」は、トルコを出発、スエズ運河を通り、翌年6月に横浜港へと入港します。その後使節団は明治天皇に謁見、アブドゥルハミト2世より託されたトルコ最高勲章や数々の贈り物を天皇に捧呈して、両国の修好を伝えました。明治天皇も使節に勲章を授けて、これに応え華やかな宴を開いて歓迎したといいます。

 使節団は、3か月あまり日本に滞在し、官民挙げての多くの歓迎を受けた後に横浜港を出発、帰国の途に就きました。

 しかし、季節は9月、日本は台風シーズンの真っただ中であり、日本側も天候を気にして、「エルトゥールル」を修理してから出発すように促しますが、使節団は帰国が遅れないようにと予定通り出発してしまいます。

 帰国を急いだ使節団と乗組員は、日本政府が心配していた通りに和歌山県沖で台風に遭遇。強烈な波と強風により、野崎沖の岩礁に激突、その際に船内に侵入した海水が、機関の大爆発を起こしてしまったのです。この事故により、艦はわずか90分で沈没。人的被害も深刻で、使節団以下587名が殉職、生存者わずか69名という大きな海難事故になってしまいました。

「どうにか日本人の手で帰国させたい!」

 当時はリアルタイムの気象情報など望めるべくもない時代、台風の影響が残るなか、和歌山県串本町大島の住人たちは不眠不休で、荒れる天気や波とも戦いながら、乗組員の救助に当たったといいます。また、不運にも亡くなってしまった遺体の捜索、収容も行いました。

 そして、初めて出会うイスラム教の人々のために心を配り、できる限り彼らの意図を汲もうとコミュニケーションを図りました。生存者のために日本全国から義援金も集まったといいます。

 こうして事故から約1か月後、治療を終えた生存者たちを本国に送り返すことになります。当初は日本ではなく、ロシアが生存者の搬送を引き受けると申し入れていました。

 しかし、この件が新聞で報じられると、世論が「なぜロシアに任せるのだ。日本人の手で送り届けるべきだ」と反発。政府も世論に押される形となり、日本海軍の軍艦「比叡」と「金剛」を派遣する方針を固め、生存者を無事本国へと帰国させる決断をすることになります。

 現在の日本人には理解しにくいことですが、当時は飛行機もない時代。そして日本海軍も創設されたばかりです。なけなしの軍艦2隻を年単位で派遣するのは、膨大な資金の消費と戦力の空白が生まれるため、当時の日本政府にとっては一大決心でした。

 翌年の1891(明治24)年1月2日、「比叡」と「金剛」は当時オスマン帝国の首都だったイスタンブールの港に到着し、トルコ国民の心からの感謝に迎えられたと伝えられています。


治療を受けた「エルトゥールル」号の乗組員(画像:串本町)。

 さて、この事故により、絆は深まりましたが、結局オスマン帝国とは友好条約を結ぶことはなく、第一次世界大戦後1923 (大正12)年になってからようやくローザンヌ条約によりトルコ共和国と正式な国交が結ばれます。この頃、既に日本では、かつて「エルトゥールル」を巡って同国と様々な関わりがあったことは忘れられていました。

100年越しの恩返し!

 しかし、事故からおよそ100年後、両国の絆は再び認識されることになります。

 1985(昭和60)年、中東ではイラン・イラク戦争が勃発し、緊張に包まれていました。そして3月17日、イラクのサダム・フセイン大統領は「今から48時間後にイラン上空を飛ぶ航空機はすべて無差別に攻撃する」と宣言。イランに住んでいた日本人は、空港に向かいますが、どの航空機も満席でイランから出国することはできませんでした。

 世界各国では、自国民を救出するために航空機をイランに向かわせますが、日本からの航空機は「安全が確保できない」として派遣を見送ることになりました。しかし、イランからの脱出が絶望的となった日本人たちに、手を差し伸べた国がありました。それがトルコです。

 トルコは、トルコ航空の旅客機2機を取り残された日本人215名のために提供し、全員がイランを脱出することができました。それはタイムリミットまであと1時間というギリギリの時間でした。

 当時イランにはトルコ人もたくさん取り残されていましたが、誰もトルコ政府の決定に文句を言わず日本人を飛行機に乗せ、自分たちは陸路で脱出したといいます。

 なぜ、そんな危険を冒してまで、トルコの人びとは日本人を助けてくれたのか。後に駐日トルコ大使のネジアティ・ウトカン氏はこう語りました。

「エルトゥールル号の事故に際して、日本人が行った献身的な救助活動を、今もトルコの人たちは忘れていません。私も小学生のころ、教科書で学びました。トルコでは子どもたちもエルトゥールル号の事を知っています。それで、イランで困っている日本人を助けようと、トルコの航空機が飛んだのです」。

 エルトゥールル号が沈んだ遭難海域を見下ろす、和歌山県串本町には、遭難の翌年には「土国軍艦遭難之碑」が建立されました。その後、何度も追悼慰霊祭が催されています。この追悼慰霊祭は、第二次世界大戦時に一度中断があったものの、現在でも5年ごとにトルコ共和国との共催で行われています。