ボクは首相になる気でやっている。最後のお願いです──。

 2005年9月、第44回衆議院議員総選挙・広島第6区の無所属候補、堀江貴文は、ホールに集まった1000人を超える聴衆を前に、黒光りした腕を振りかざしながらしゃがれた声を振り絞った。「小泉劇場」から吹きつける熱風を背に大票田・尾道の商店街を練り歩き、買い物客と握手。行く先々にできる人だかり、その周りをさらに多くのカメラマンが囲む。彼の一挙手一投足に向けて、絶えずシャッター音が鳴り響き、「勘合貿易」の時代から栄えた風光明媚な港町は異様な雰囲気に包まれた。

 あれからちょうど1年。約100人の傍聴人を背に、東京地裁大法廷(104号法廷)の証言台にひとり立ち、正面の小坂敏幸裁判長に訴える堀江の姿があった。「起訴状に書かれたような犯罪を行ったことも、指示したこともない」。

 広島県尾道市東御所、JR尾道駅前にある古びた3階建ての雑居ビル。かつて多くの報道陣が詰め掛け、選挙戦を見守った堀江事務所が置かれていた場所を訪ねると、もぬけの殻となっていた。落選後まもなく同事務所が移転してからは、好立地ゆえ家賃が張ることもあり、新たなテナントは見つかっていないようだ。

 「今でも時々、若い観光客が中を覗いたり、写真を撮ったりしていきますね」と話すのは市内で旅行代理店を営み、かつて同ビルに入居していたという40代男性。「若い人はネットで旅館を予約するでしょ。堀江さんが来て賑やかだったけど、経済効果は全然…」と答えて、苦笑いした。かつての候補者の初公判には「何も思うことはありませんね」と素っ気ない。

「改革」からも撤退完了

 尾道駅前の商店街に向かうと、入り口に亀井静香氏の影響力を彷彿とさせる「国民新党」ののぼり。「ネットショップなら田舎でも成功する」「尾道を日本のハリウッドにする」「金融特区で企業誘致」──。選挙で堀江が掲げた「改革」の芽のようなものを、アーケード街から探し当てることはできなかった。路地を挟んだ家々の間からは、紺碧のしまなみ海道や霊場に続く参道を覗かせ、町はのどかな小京都の姿を取り戻していた。

 尾道から1駅、JR東尾道駅を降りて国道2号沿いに20分ほど歩くと、コンビニ風のプレハブ平屋建て、窓に「堀江貴文事務所」と書かれた建物にたどり着いた。次の総選挙の拠点として05年11月に開設したが、ライブドア事件を受けて活動休止。駐車場には雑草、事務所内には事務用机が何セットか置かれただけで、人気はなく、ポストからは公共料金の請求書がはみ出していた。関係者の話では、この9月末日を持って賃貸契約を解除し、尾道からの撤退が完了するという。

 道行く人にあの総選挙、ライブドア事件などを振り返ってもらうと、口を揃えて一言目には「もう終わったこと」ともらした。続いて「握手した」「演説は聞きにいった」「賑やかな人だった」などとし、どこか遠い夏の記憶のように語っていた。

 市内の観光施設で働く田中由枝さん(54)は「ちょっとやり方がまずかった。頭はいいので、頑張って欲しい」と話す。その隣にいた的場美奈子さん(36)は「復活されますよ。終わる人じゃない」とうなずきながら語った。

「何度もリセットがかかってきた町なんです」

 「今回のライブドアの件に限らず、尾道は時代の波で何度もリセットがかかってきた町。そこに住み続ける人間がそのつど考え方を変えて、馴染んできたんです」。ITを活用した地域活性化に取り組む加藤慈然さん(48)は、国内外からさまざまな物資や文化がもたらされ、1000年以上も栄枯盛衰が繰り返されてきた港町の歴史になぞらえていみじくも言い当てた。

 堀江の肝いりで05年12月に開設され、加藤さんもボランティアとして支援したライブドアの地域情報サイト「livedoor 尾道」は同社の事業再編を理由に8月末で閉鎖された。「ライブドアが去ろうと、市民の情報発信はまちづくりに不可欠」。加藤さんは本質を見つめ直し、新たな地域ポータルの設立に向けて始動した。「堀江さんが戻ってきたいと言ってくれたらウエルカム。尾道が好きな人はみんな信用する」(一部敬称略・つづく

■参考文献
『堀江本。2 政界進出編』(ゴマブックス刊)

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