(写真提供:ホテル花小宿)

ほとんどの人が利用したことがあるだろう「和室+ベッド」タイプの客室。そのはじまりが、兵庫県・有馬温泉にあるということは、あまり知られていないだろう。

『日本書紀』にその名が記され、日本最古の温泉地とも言われる有馬温泉は、太閤秀吉をはじめ数々の偉人に愛されたことでも知られる。そんな伝統ある湯治場から、どうして「和室にベッドを設置する」というアイデアが生まれたのか?

「1995年に阪神淡路大震災が発生しました。関西圏の観光業にとって、ターニングポイントになった」

そう話すのは、有馬温泉観光協会会長を務める、有馬温泉でも指折りの老舗旅館「御所坊(ごしょぼう)」の主人・金井啓修さん。「和室+ベッド」タイプの客室を考案したイノベーターなのだが、その話をする前に、当時の状況を説明しておきたい。

バブル崩壊で観光客が激減

1990年代前〜中期は、バブル崩壊の影響が色濃く出始め、それまで団体客が多数訪れていた温泉地に、影がさすようになった時期である。有馬温泉も例にもれず、観光入込客数は、ピーク時である1991年の192万人から、1995年には102万人まで落ち込んでいた。

「それまでの旅行代理店経由の団体客ではなく、自分の趣味嗜好に合わせて宿を選ぶ個人客に対応できる宿泊施設が求め始められていた。中小旅館は、個性化する必要に迫られていました」(金井さん、以下同)

そのため、テレビや雑誌で取り上げられることも大きな付加価値を生んだ。金井さんは、「観光業が旅行代理店の時代からマスメディアの時代になったタイミングだった」とも付言する。

そして、阪神淡路大震災が発生ーー。有馬温泉でも、倒産や廃業する宿泊施設が出始める。先の192万人から102万人という数字を見ても一目瞭然だろう。

「廃業した旅館の一つに『萱の坊(かやのぼう)』という宿泊施設がありました。我々は『御所坊』とは異なる、個性的な宿を作ろうと借り受け再建に踏み切った」

「御所坊」は、文豪・谷崎潤一郎が頻繁に利用した(小説『猫と庄造と二人のおんな』に登場する)、いわゆる上宿である。木造3階建ての外観や内観からは格調の高さが感じられる。

「個人客へシフトしていく時代にもかかわらず、一人で泊まると非常に割高になってしまう。また、エレベーターもないため高齢者が利用しづらいというデメリットもありました。そうした『御所坊』ではカバーできないお客さんの受け皿として、『萱の坊』を再利用した、個人客でも利用しやすい宿『ホテル花小宿』をオープンさせようと考えた」


有馬温泉の歴史を語ってくれた有馬温泉観光協会の金井啓修会長(筆者撮影)

また、“泊食分離”という点にも触れておく必要がある。

旅館は、仲居や料理人といったスタッフ、つまり宿泊と食事にかかわる人員を雇用している。団体客を相手にしていた昭和の時代ともなれば、相当な数のスタッフを抱えていたわけだが、これは「一泊二食付き」がスタンダードだったからこそだ。現在は、「素泊まり」や「朝食のみ」といったプランが当たり前のように存在するが、当時はそうではない。

「泊食分離は、ホテルのような料金体制でしたが、旅館では難しかった背景があります。それは食事を提供するための調理師や客室係を雇用していたからです。そのため多くの旅館は、大胆な改革に踏み切れなかった」

だが、個人客が増加しているという背景に鑑みれば、宿泊プランの選択肢が増える泊食分離は欠かせない。金井さんは、有馬温泉の旅館としては初となる泊食分離の導入を決意する。

「それまでの旅館は、料理を部屋まで運ぶ係や、客室係が必要だった。ところが泊食分離ができれば、その必要がなくなります。不況の煽りを受けて、有馬温泉は慢性的な人手不足という問題を抱えていましたが、泊食分離をすれば少数のスタッフでも回すことができる。折りしも、『ホテル花小宿』は小さな宿を目指していた」

一方で、食事中や食事後に布団を敷くという業務も存在した。だが、泊食分離をするにもかかわらず、忙しい食事提供の時間帯に布団を敷くだけの係を用意するのか? 無駄な労働力にならないか? 「ベッドにしたらどうだろうかと思いついた」、そう金井さんは振り返る。

「阪神淡路大震災の翌年から、僕はホテルの専門学校で定期的にお話をする機会があった。若い世代の生徒さんたちに、布団で寝ているか、ベッドで寝ているか聞いたところ、ベッドで寝ている人はすっと手を上げるんだけど、布団で寝ている人はおずおずと手を上げるんですね。当時はベッドで寝ることにあこがれを持っている若い世代が多かったものですから、和室にベッドを配置したら、より宿の個性化になると思った」

だとしてもだ。「和室にベッド」というアイデアは、もっと早くに生まれていても不思議ではない。なぜ1990年代の中ごろまで一般化していなかったのか。

「旅館・ホテル営業、簡易宿所営業および下宿営業を行うための旅館業法という法律があります。現在は、法改正によって、ホテル営業および旅館営業の営業種別が旅館・ホテル営業に統合されましたが、当時の旅館業法では、10室以上の客室を備えている宿泊施設をホテル、5室以上の客室を備えている宿泊施設を旅館と定義付けていた。それに加えて、ホテルにはホテルの要領が、旅館には旅館の要領が定められていた」

連れ込み宿を規制するための法律

この改正前の旅館業法によって、客室の「和」と「洋」は交わることのない平行線になっていたという。その一例を挙げると、ホテルの洋室の場合、

“洋室の寝具は、洋式のものであり、その他次に掲げるところによること”(例:寝台は幅員0.85メートル、長さ1.95メートル以上の広さを有すること、など)

といった細かい規定があり、旅館の和室には、

“適当な位置に寝具を収納する押入れ又はこれに類する保管設備を設けること”(和室には、布団をしまう押入れを備える必要がある)

などの決まりがあった。

「旅館業法は、戦後に施行された法律です(1948年7月15日施行)。その当時は、連れ込み旅館や駅前旅館……今でいうラブホテルのような旅館や宿も存在していて、押入れのスペースを潰して部屋を増やすという業者もいたと聞きます。明確な決まりを作り、遵守できないなら営業は許可しない。規制するために、細かい要領が定められたんですね」

ルールを厳格化することで公序良俗を守る。反面、ややもすれば、重箱の隅をつつくような条件が洋室には洋室に、和室には和室に存在していたということになる。ところが、金井さんは、この決まり事を逆手に取る。和室に布団を敷くために、押入れを備える必要があるということは、裏を返せば、ベッドに変えれば、押入れはいらない――ということだ。

「押入れは大体1畳ほどのスペースがあるため、うまく活用すれば、トイレや洗面所に変えることができると考えた。今は、各部屋にトイレが備わっていることは当たり前ですが、『萱の坊』は戦後に造られた古い宿だったので共同トイレでした。客室にトイレが付くのが当たり前の時代になっていたので、廃業の原因の一つでした。先述したように個人客が増えてくると、部屋にトイレが必要。和室にベッドというアイデアは、そのまま旅館の各部屋にトイレが常設されるアイデアでもあった」


(写真提供:ホテル花小宿)

リノベーションするにあたり、和室に単にベッドを置くだけでは、違和感が生まれる。そこで金井さんは、色調を統一させるためベッドカバーとカーテンを特注するなど細部にまでこだわり、ベッドのある和室を作り上げた。2000年4月1日、有馬で一番小さな宿「ホテル花小宿」はオープンした。日本で初めて、コンセプトを持つ「和室+ベッド」タイプの客室を擁する宿だった。

「ベッドで寝る旅館なので、ホテルというネーミングを付けました。ところが、『ホテル花小宿』は9室しかない。当時の旅館業法は10室以上なければホテルにはならない。そのため『ホテル花小宿』の業態は旅館扱いなのですが、名前にホテルを入れるのは自由だった(笑)。この点は、旅館業法に定められていないんです」

和室にベッドを設置する、客室にトイレがある、食事は部屋ではなく併設された食事処で食べる――。こうした真新しい要因が重なり、「ホテル花小宿」は異例のヒットを記録する。

「寝具の代わりにベッドを置くといった宿は、それ以前にも存在していたと思います。しかし、時代の流れに呼応するべく、複合的な理由から全室、和室にベッドを設置するという仕掛けやコンセプトは、『ホテル花小宿』が作り上げたという自負があります」

実際、このスタイルを模倣する宿は急増し、我々は今では当たり前のように「和室+ベッド」タイプの客室に宿泊するようになった。

有馬温泉の観光客数も回復へ

有馬温泉は、「ホテル花小宿」のイノベーションが口火を切る形で2001年には新たな外湯「銀の湯」がオープン。翌2002年には、有馬温泉会館をリニューアルした「金の湯」がオープンし、その年の観光入込客数は131万人までV字回復した。

「家族連れに強い『元湯龍泉閣』さんや、カップルから支持を集める内風呂が豊富な『竹取亭円山』さんなど、有馬温泉には個性的な宿が多い。阪神淡路大震災を機に、生まれ変わらなければいけないという気持ちが、新しいことをしていかなければいけないという革新性につながっていると思います」

1300年以上の歴史を誇る有馬温泉。伝統にしがみつかないからこそ、令和の今も賑わいが絶えない。

(我妻 弘崇 : フリーライター)