「たぶん私、みなさんが経験したことのないような経験をしていると思いますよ」こう話すのは、家電量販店ノジマのイオンモール川口前川店に勤める熊谷恵美子さんだ。小3の時に親戚のいる岩手で朝から晩まで働く日々が始まった。熊谷さんが、特異な経験の中からつかみ取ってきた“仕事の意味”とは――。
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■「夏休みになったら迎えに行くから」

熊谷さんは、1941年(昭和16年)生まれの80歳。ノジマは2020年に65歳定年後の雇用延長の上限を80歳に引き上げ、パート社員、アルバイト社員にもこの制度を適用しているが、熊谷さんは80歳パート社員の第1号である。

板橋区で生まれた熊谷さんは、幼いとき埼玉県の父の実家に転居をしている。妹が生まれる直前、岩手県にある母の実家に預けられ、小学校に入学するときいったん埼玉に戻されたが、小学校3年で再び単身岩手へ。以後、結婚するまで埼玉に戻ることはできなかったという。

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熊谷恵美子さん - 編集部撮影

「私が生まれて数カ月後に、日本がハワイの真珠湾に奇襲攻撃を仕掛け、太平洋戦争がはじまりました。疎開という面もあったかもしれませんが、昔で言う“口減らし”だったんでしょうね。『夏休みになったら迎えに行くからねー』って言われてひとりで岩手に行ったのに、夏休みが終わる頃に私の着物が入った小さな箱が送られてきて、ああ、帰れないんだなと思ったのを覚えています」

岩手の母の実家は呉服店を経営しており、切り盛りしている母の姉(熊谷さんの伯母)夫婦に子どもがふたり、母の姉の他に伯母がふたり、祖母がひとりという大家族だった。母の実家からは、食糧難にあえいでいた埼玉の家に食糧が送られていた。その代わりというわけでもないのだろうが、熊谷さんは朝から晩まで働かされた。

「みんな忙しかったから厳しい雰囲気でね、『働かない人間は食べる資格がない』ってよく言われました。小学校低学年の時は店の掃除、高学年になると店番をして、中学からはお婆ちゃんとふたりで食事の担当になりました。高校で体操部に入ったんですが、部活で帰りが遅くなるとみんなの夕飯が遅れるので、よく怒られました」

一番辛かった思い出は、小学生時代の水汲みだ。敷地内に井戸がなかったから、家から離れた場所に水を汲みにいかなくてはならなかった。ひょろひょろの体で天秤棒を担いで歩いていると、町の人が「そんな体でよく水を運ぶな」と感嘆とも憐憫ともつかない言葉をかけてきた。

「この家の子じゃないのにご飯を食べさせてもらっているんだからという意識は、とても強くありました。お風呂を焚きながら、いつになったら埼玉に帰れるんだろうってよく泣きました」

■学校に行くのは「家」のため

高校を卒業すると、岩手県内の洋裁学校に通った。その後、編物の学校にも2年間通うことになった。呉服店は反物だけでなく洋服の生地や毛糸の販売もしており、それを洋服やニットに仕立ててほしいという客が多かったのだ。

「昔は毛糸の既製品なんて少なかったから、編んでくれっていう注文がたくさんあったんです。機械編みで、2日ぐらいで仕上げてね。私、編むの速かったんですよ」

つまり、洋裁学校に行ったのも編物の学校に行ったのも、熊谷さん自身のためではなく、あくまでも店のためだったわけだ。しかし、2つの専門学校で身につけた技術は、後に熊谷さんの人生を大きく変えていくことになった。

■はじめて見る「自動ドア」に大はしゃぎ

「ブラザーで編機の教師の資格を取ったんですが、そうしたら、ブラザーの販売会社の方から『編機の教室で教える先生が足りないから手伝ってくれないか』って、声がかかったんです。家(呉服店)で働いていても私は一銭ももらえなかったから、すごく外で働きたかった。でも、行きたいって言ったらさんざん反対されてね……」

呉服店にすれば重要な戦力を手放すわけには行かなかったのだろうが、ブラザーの担当者が「1年でいいから手伝ってほしい」と店を口説き落してくれた。晴れて編機の先生となって外で仕事を始めてみると……。

「もう、外で働くのってこんなに楽しいの! って思うくらい楽しかったですよ」

結局、ブラザーで9年近く働くことになった。忘れられないのは、ブラザーの名古屋本社に講習を受けに行ったときのことだ。岩手営業所の社員と一緒に東北本線で東京まで出て、開通したばかりの新幹線に乗った。

「新幹線に乗ったらドアが閉まらないんで、いったいどうしたのかしらと思ったら、『あなたがそこに立っているから閉まらないんだよ』って言われてね。自動ドアっていうものを知らなかったんですよ(笑)」

1960年代のブラザー工業はミシンや編機だけでなく、理美容関係の器具や電動タイプライター、電卓、各種工作機械など、さまざまな工業製品を産み出す大企業だった。

「ブラザーの本社は、名古屋の瑞穂区にあったんです。ブラザー病院、ブラザー不動産って、一区画が全部ブラザーでね。工場見学もしたんですが、工場の中を車がたくさん走っているんで、びっくりしたし、すごいなーと思いました。だって、岩手の町なんて日に何台も車が通らないんですから」

当時の熊谷さんは外で働くことを熱望し、そして、外で働くことは生きる希望だった。

■「結婚して幸せになった人なんて誰もいない」

ブラザーの仕事は楽しくて仕方なかったのに、なぜか熊谷さんは再び呉服店の中で編む仕事に戻っている。

経営者の伯母夫婦の長男(熊谷さんの従兄)が大学を卒業して丁稚奉公を終えると家業を継ぐことになり、配偶者と一緒に店を盛り上げていた。編物の依頼も多くなって、熊谷さんは店を手伝わざるを得なくなったのだ。

「みんな忙しかったから、いいも悪いもありませんでしたよね」

いいも悪いもなく店の仕事に戻りはしたものの、どうしても嫌なことがひとつだけあった。それは結婚だ。周囲は結婚しろ結婚しろの大合唱だったが、どうしても結婚だけは嫌だった。それには深い理由があった。

熊谷さんの父親は、戦争に行って体を壊して復員してきた。体調は改善せず、復員後2年ほどして亡くなってしまったが、亡くなった翌月に熊谷さんの弟(長男)が生まれている。つまり熊谷さんの母親は、夫の実家にいながら「父なし子」を育てることになったわけだ。

「父は長男だったんですが、父の弟たちがみんな食べていけなくて実家に身を寄せてきたんです。母は子どもを3人抱えてどうのこうのって言われて、結局、独身だった父の弟と結婚させられることになった。それで下の弟が生まれたんです。昔はそういうこと多かったけれど、なんでそんなことをするんだろうってつくづく思いました。結婚して幸せになった人なんて誰もいない気がして、だから、私はひとりで生きて行きたかったんです」

■家を出るために結婚を決意

呉服店のために編物はしても、結婚だけはしたくなかった。しかし、店の人たちは強硬だった。「結婚しなければ、家を出さない」と宣告された。当時は、適齢期になっても結婚しない女性が身内にいることは、「家の恥」だった。

いくつものお見合いをパスしたあげく、熊谷さんは32歳で結婚することになった。相手は岩手県の出身で、埼玉で仕事をしているトラック運転手である。住まいが父の実家に近かった。

「優しいというわけじゃないけれど、いろんなことに無関心だったから、あまり怒らない人でね。岩手の店では周りの人がみんな怖かったから……」

熊谷さんは結婚には後ろ向きだったけれど、皮肉なことに、結婚をしたことでそれまで果たせなかった故郷への帰還を果たすことになったのだ。

「あの時代は、本当になんだったんだろうって思いますね」

埼玉に戻ってからも、熊谷さんは相変わらず働き続けることになる。(後編へつづく)

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山田 清機(やまだ・せいき)
ノンフィクションライター
1963年、富山県生まれ。早稲田大学政治経済学部卒業後、鉄鋼メーカー、出版社勤務を経て独立。著書に『東京タクシードライバー』 (朝日文庫)、『東京湾岸畸人伝』『寿町のひとびと』(ともに朝日新聞出版)などがある。
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(ノンフィクションライター 山田 清機)