日本女子バレー界のレジェンド
大林素子インタビュー(4) 

(連載3:高校最後の国体を制覇→全日本入りで驚いた名将のデータバレーと、いつもどおりプレーするための秘策>>)

 日本女子バレーボール元日本代表で、現在はタレントやスポーツキャスター、日本バレーボール協会の広報委員としても活躍する大林素子さんに、自身のバレー人生を振り返ってもらう短期連載。第4回は、ソウル五輪での「打倒・ソ連」対策と結果について語った。


全日本時代の大林さん photo by「バレーボールマガジン」

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――1985年に全日本入りした大林さんが初めて出場したオリンピックは、1988年のソウル五輪でした。当時は「金メダルを獲ることが当たり前」という時代だったと思いますが、オリンピックに合わせた練習もしたんですか?

「山田先生はモントリオールやロサンゼルス五輪の経験から、本番では会場がうるさくて監督や選手の声が聞き取りにくいことがわかっていた。それに慣れさせる発想がさすがなんですが、練習であえて"嫌な音"を流したんです。先生自らわざわざ甲子園に行って、応援や罵声などが交じった球場の音を録音してきて、それを流したりしていましたね。

 リズムが一定ではない音は、動きにもストレスかかり、コート上の声も聞きにくくなります。よりサインプレーの意味が大きくなり、パターンとして30パターンが基本形、派生で100パターン以上のサインの組み合わせがありました」

――対戦チームの対策はいかがでしたか?

「当時はソ連が最大のライバルでしたから、対策は徹底的にやりましたね。パワーの差も考えて、男子コーチ6人を相手に練習していました。

 練習が佳境に入ると、オリンピックの日程に合わせた"リハーサル"をするんです。その数日前から、練習時間、寝る時間なども実際の大会に臨むまでの予定に合わせて、寮の食事メニューも五輪で出される想定メニューにし、本番と同じ試合時間に練習試合を行なっていく。試合ではみんな全日本のユニフォームを着用して、審判は国際大会をジャッジできる資格を持った方に来てもらいました。1988年当時に、そこまで徹底して準備をすることは珍しかったですし、今考えてもすごいですよね。

 もちろん仮想のソ連戦もありました。男性コーチたちにソ連の試合のビデオを何本ずつか渡して、『徹底分析して、ソ連の選手になりきれ』と。コーチたちはそこで団結しちゃって、試合や練習でもロシア語が出たり、ガッツポーズなんかもマネするようになっていましたよ(笑)」

監督がハサミとキリでまさかの行動

――そこまで本番を想定した『仮想・ソ連』の試合結果はどうだったんですか?

「負けてしまいましたね。それでも、試合後に控室で着替えながら、江上由美さんや中田久美さんたちと『本番は頑張ろう』と話していました。ところが、着替え終わったあとにミーティングをすると言われてコートに集められると、そこで山田先生は、マネージャーに『ハサミとキリを持ってこい』と指示したんです。

 とっさに、『髪を切られるのかな?』と思いました。当時はまだ長く髪を伸ばしちゃいけないという風習があったんですが、私はちょっと伸ばしていたんです。大好きだった松田聖子さんのようなパーマをかけていたので、『チャラチャラするな!』とバッサリいかれるのかと。

 そう思っているうちに、山田先生はいきなりネットの紐を1本ずつ切り始めたんです」

――選手たちの反応は?

「何が起きているのか、理解するまで時間がかかりました。私は、選手たちが泣きながら止めに入る中で、キャプテンの由美さんだけが椅子に座ったままそれを見つめていた、と記憶しているんですが......何年か経ったあとにみんなで話したら『逆に江上さんだけが監督を止めようとしていた』という説も出てきて。どちらが正しいかはわからないですが、それくらい混乱していたということだと思います。

 先生はネットを切り終わったあと、今度はキリで神聖なボールに穴を開けていきました。そうしてバレーができない状態にしたあと、山田先生は『お前たち、今日はリハーサルだから負けても次があると思ったんだろう。オリンピックで勝てばいいと思ったんだろう。でも、今勝てなければ本番でも勝てるわけがない。俺は今日がオリンピックだと思ってこの1週間を過ごしてきた。だからもうネットもボールも要りません。ありがとうございます。みなさんのオリンピックは今日で終わりました』と言ったんです」

――その言葉に何を思いましたか?

「先ほども言ったように、私たちはどこかで『本番で勝てばいい』という気持ちがあって、先生はそれをわかっていたんだなと。練習に臨む時に『練習だから』『本番にちゃんとやればいい』という気持ちではいけない。それを正すために、あえて山田先生は自分にとっても一番つらい行動をとって、私たちに教えてくれた。"演出家"というか、世界一の指導者だなと思います。

 それは私だけが感じたことではなくて、その場にいた全員が『すごかった』と振り返ります。それくらい衝撃的なことでした。そこから五輪本番まで約1カ月。『もうあんな思いはしない。絶対にソ連より練習して、絶対勝ってやる!』と、チームが固まった瞬間でしたね」

ソ連戦で膝が震えた瞬間

――そういったことを乗り越えて迎えたソウル五輪はいかがでしたか?

「初戦で、最も対策してきたソ連と当たりました。私はあまり緊張しないタイプなんですが、その試合前はすごく緊張して、更衣室で靴ヒモを結ぶ手が震えていました。隣にいた久美さんも、『私も緊張してる』と言って、やはり手を震わせながらテーピング巻いていました」

――試合にも影響したのでは?

「いえ、コートに出てボールに触れた瞬間に、その緊張はサーッとなくなっていきました。その感覚は今でも覚えています。

 ソ連はダントツで優勝候補でしたから、私たちは挑むだけでした。試合はフルセットまでもつれて、最終セットもデュースという壮絶な展開。試合終盤のタイムアウトの時に、山田先生が『苦しいのは、みんな一緒だ』という話をしたんですが......先生がそこで、夏の合宿でランニングした河原の小石をポケットから取り出したんです。練習時に拾っておいて、それを『ここぞ』という時に見せてくれた。

 その瞬間に私たちは『あんな壮絶な練習を乗り越えてきたじゃないか。私たちは絶対にソ連より苦しんできた』となって、疲労や苦しさなどが一気に吹き飛びました。それも先生の采配の妙ですが、『絶対いける』とスイッチが切り替わり、試合に勝つことができました」

――勝利の裏でそんなことがあったんですね。

「私が『現役生活でもっとも記憶に残っている試合』もこのソ連戦です。最終セットのデュースで『怖い』と思ったこともよく覚えています。ソ連はサーブがよく走っていました。ある選手が打つ瞬間に、初めて『怖っ』と膝が震えた記憶があります。でも、同時に一番好きで得意なサーブレシーブなので、『絶対私は大丈夫』と思い直した瞬間でもありました。

 それ以降、『サーブレシーブが一番得意』という絶対的な自信がつきました。引退するまで、どんなシーンでサーブを受ける時も『あの場面でもサーブレシーブをちゃんと返せた』という思いが私を支えてくれた。私は過去のさまざまな"しんどかった"出来事を糧にして困難を乗り越えてきましたが、ソ連戦のサーブレシーブもそのひとつです。そのくらい、その当時はいろんなものを背負って戦っていた。『そういう時代だったんだなあ』としみじみ思います」

メダルを逃しバッシング

――その後、日本は勝ち進んでいくものの、最終的な順位は4位。メダルを逃してしまいました。

「初戦でソ連に勝ったことで、誰もが『金メダルに手が届く』と思っていました。決勝で再びソ連と当たる予定だったのが、準決勝でペルーに負けてしまった。2セットを先取したあとに2セットを取り返されて迎えた最終セットの終盤で、由美さんがダブルコンタクトの反則を取られてしまったんです。そんな反則を取られることは1度も見たことがありませんでした。

 言い訳みたいに聞こえるのは嫌なんですけど、この時のジャッジは不可解でしたね。汗で滑ったのかもしれませんが、明らかに反則を取られるほどじゃなかった。みんなが『審判にやられた!』となりました。バレーは"流れ"が大事なスポーツなので、その1点が大きく響いて、ペルーに流れが行ってしまいました」

――負けた後のチームの雰囲気はどうでしたか?

「『金メダル、悪くても銀メダル』と思っていましたから、ショックは大きかったです。手ぶらでは帰れないですし、『せめて銅メダルだけは』という気持ちもありましたが、モチベーションを保つのが難しかった。3位決定戦も敗れ、輝かしい"東洋の魔女"のメダル獲得の歴史を途絶えさせてしまいました。失望と、申し訳なさでいっぱいの中で帰国。久美さんと飛行機の中で『もう日本に帰りたくないね』と話したのを覚えています」

――帰国時のバッシングもすごかったんじゃないですか?

「帰国時の空港でも、出国前に声援を送ってくれたファンはひとりもいませんでした。待っていたのは記者の方々だけで、追及がすごかったです。今はそんなことを聞く人はいないでしょうが、『なんで負けたんですか?』『あの一本、なんで決められなかったんですか?』といった感じで。理由がわかっていれば勝てたわけですから、それはわからないんですけど、私は『自分のせいです』と答えていました。私はチームのエースとして出場していましたし、『自分が全部決めれば負けない』とも思っていたので」

――責任を全部負うような形になって、代表でのプレーが嫌になることはありませんでしたか?

「その頃の代表選手、特にスタメンを張る選手の気持ちの強さは他の選手とは段違いでしたから、プレーをやめると考えることもなかったですね。代表選手ならバレーに限らず、スポーツは楽しむものではなくて、国の威信を背負ってやるもの。当時はそれが普通だったので、勝つことを目指すのが当たり前だと思っていました。そこまでの精神で戦っていたのは私たちの世代が最後かもしれませんね。

 私はソウルを含めて3大会連続でオリンピックに出て、メダルは獲れませんでしたが、すべての大会で自分がエースと思って戦いました。(かつて全日本男子の監督などを務めていた)松平康隆さんには『スーパーエース』と呼んでいただきましたが、自分がすべてを背負う覚悟で大会に臨んでいた。女子の代表チームのメダルなしの歴史は、ロンドン五輪で後輩たちが止めて再び時を動かしてくれましたが、それを途切れさせてしまった選手としての悔しさは今でも残っています」

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◆大林素子さん 公式Twitter>>@motoko_pink 公式Instagram>>@m.oobayashi