村田里依さんが会社を変えるまでの経緯とは?(写真:筆者提供)

国立がん研究センターの統計によると、2016年にがんと診断された約100万人中、20歳から64歳の就労世代は約26万人。全体の約3割だ。

だが、治療しながら働く人の声を聞く機会は少ない。仕事や生活上でどんな悩みがあるのか。子どもがいるがん経験者のコミュニティーサイト「キャンサーペアレンツ」の協力を得て取材した。

今回は2014年にがんが発覚し、2019年に再発を経験した村田里依さん(50歳)。一方で、村田さんは再発の翌年に人事総務部長への昇進も果たしている。治療と仕事をどう両立させてきたのか。彼女の試行錯誤を紹介する。

乳がんが発覚して転職、そして……

かつては大手金融グループの証券会社に勤務していた村田さん。当時は、さほど前に出るタイプではなかったと振り返る。

だが、2014年に乳がんの発覚と手術を経験したことが転機になった。片道約1時間半の都心への通勤に疲れ、地元の狭山ケーブルテレビ(埼玉県)に転職。総務課課長代理として着任した彼女は、会社のために何ができるのかを、より主体的に考え始めたという。

グループ総従業員数約8000人企業の視点で、社員数約40人の職場を見回すと、長時間労働や、結婚や出産を機に退職する女性が多かった。

ちょうど同じ部署に出産間近の女性社員がいて、村田さんは育休制度ができれば復職したいか尋ねると、できればそうしたいと本音を明かしてくれた。

「そこで育児や看護、介護休暇制度を作ろうと思いました。前職では当然の権利でしたし、総務課内の女性たちも共感してくれました」(村田さん)

埼玉県が女性の活躍推進のために「ウーマノミクス課」を新設した頃で、彼女は同課を通して、就業規則の改訂を助言できる社労士を紹介してもらう。

すると、他部署の上司から「そんな制度は社員を甘やかすだけだ。それよりも数字(収益)につながる仕事をやってくれ」と、横やりが入った。

だが、村田さんは「育児・看護・介護休暇制度は一部上場企業では導入されていて、地域密着型の企業になるには、社員が長く働き続けられる労働環境にする必要があります」と、一歩も引かなかった。

「……中途入社でよく言えましたよね。当時は無意識でしたけど、病気を機に、『たとえ明日死んでも今日やるべき仕事をやる!』という覚悟が、生まれていたのかもしれません」

高校生ばりの少しかん高い声でそう話すと、村田さんは小さく笑った。彼女の入社から約4カ月後、育児休暇制度が導入された。制度を作っただけでなく、彼女は会社の雰囲気づくりにも気を配った。例えば育児休暇中の女性に職場にも時々顔を出すようにと伝え、母子が訪れると総務課で子供をあやしたりした。

男性社員にも好評だった「看護休暇」の新設

男性社員にも好評だったのが、子供1人につき年間5日使える看護休暇制度。

「朝になって急に発熱した子どもを、病院に連れて行ったりする場合などに利用されています。以前は有給休暇で対応していたようですが、本来の有給は気分転換が主な目的ですから」(村田さん)

同社総合企画部部長の豊泉謙一さん(45)は、当時の職場をこう語る。

「私の子供はそこまで幼くもなく、両親もまだ介護の必要もなかったので、率直に言えば他人事でした。ただ、村田が取り組んでいたことは社員にとっては助かるので、『総務部で頑張ってくれ!』という気持ちでした」

村田さんは、さらに厚生労働省が推奨する女性活躍推進企業(通称「えるぼし」)に認定されることを目指した。従業員数300人以下の企業なら、女性の管理職比率3割や、月の残業時間40時間以内などの認定要件がある。

「全8人の管理職中、私が新たに課長に昇進し、女性が2人になって管理職比率はクリアしました。また、当時の月間残業時間は平均約55時間。これは夕方以降に行われていた会議を、全社的に始業前の30分に集中して行うことで、割と短期間で40時間に減らせました」(村田さん)


いまや会社は数々の表彰を受けるまでに(写真:村田さん提供)

2019年1月、同社は厚労省の「えるぼし」3段目企業に認定。さらに埼玉県の「多様な働き方実践企業」や「健康経営企業」などの認定をとるたびに、全社員の名刺に一連のロゴマークが増えていった。

このことは、営業マンが市内の法人企業に営業したり、新規契約に訪れる顧客に話したりする中で、地元で知られるようになり、社員の働き方改革に積極的な企業としての認知向上につながった。

結果、当初は否定的だった前出の上司も、『村田さんの目指していたことがわかった』と、理解を示すようになったという。

「専門性の高い業務を除いて、仕事の共有が進み、数名が休暇制度を利用しても、業務がとどこおりにくい体制ができてきました。病気や介護についても『誰もが経験することだからお互い様』という社風になりつつあります」(村田さん)

社員の病気や親の介護などの「弱み」を組織の強みに転換し、男女を問わず働き続けやすい職場に変わる過程でもある。


第一生命の所沢市支社でオンライン登壇する村田さん(写真:村田さん提供)

「職場での病気の情報開示は段階的に」が大切

一連の改革が着実に成果を上げていた2019年8月、村田さんはがんの再発を知る。右脇と心臓の近くに転移していてステージ4。抗がん剤治療を再開した。

「2013年に見つかったステージ3の左乳がんは全摘しました。その後は、ホルモン療法を続けながら、年数回の定期検査を受けてきました。その治療が効いていると思っていたので、ショックでした。でも、同時に『負けてたまるか!』という強い気持ちも、むくむくと沸き起こってきたんです」(村田さん)

抗がん剤は、朝晩2錠ずつの内服薬に変わっていた。以前は点滴だったから、体への負担は軽く、仕事を休む必要もないと考えた。

「下痢や発熱などの副作用はありますが、心身ともにつらかった当時の比ではありません。ただ、再発が厄介なのは、抗がん剤を今後ずっと服用し続けなくてはいけないことです」(村田さん)

職場への情報開示は前回同様、段階的に行った。まずは夫と直属の上司に伝えるとともに、治療に必要な情報を収集・整理。担当医の診断もふくめて状況を正確に把握し、仕事と治療の両立を目指すと決めた。そのうえで高校生の長女と勤務先の社長、すべての管理職に順次伝えた。

最後はSNSで友人たちに伝えると同時に、職場の全員には治療と仕事の両立への理解と協力を求めた。

「家族や職場の全員に一度に知らせたり、逆に一部の人たちだけに伝えると、家庭や職場が混乱したり、変な噂が出回ったりする危険性がありました。私自身も多くの情報を集めたうえで、自分にとって最善の選択をする必要があり、段階的な情報開示は欠かせませんでした」(村田さん)

直属の上司に相談する際の判断基準は、日頃から何でも話せる関係があるかどうか。村田さんの考え方だ。ないと思えば人事部にじかに相談するほうが無難と、現在は人事総務部長の彼女は補足した。

上司が非協力的な態度を見せれば、発症直後の本人が心身ともに大きなストレスを抱えてしまう。人事部を経由して、非協力的な上司にもクギを刺せる。


スーツや制服にも似合うケア帽子会社もこの5月に起業した村田さん(写真:村田さん提供)

社長から治療に専念することも打診されたが、村田さんは次のように伝えた。

「私の場合、治療に専念すると自分の体調変化に日々一喜一憂してしまい、むしろ心のバランスを崩す危険性が高いんです。今まで通りに仕事と家事、そして育児と並行して治療を続けたほうが、気分もその都度まぎれます」

この連載の監修を依頼している腫瘍内科医の押川勝太郎さんも以前、仕事との両立が治療にも前向きな効果を与える可能性を指摘している。がんの罹患経験の有無にかかわらず、知っておいていい考え方だ。

「自分と会社の強みに変える」発想転換

がん再発があっても、村田さんは一連の取り組みをやめなかった。がん治療と仕事の両立を推進する企業を表彰する民間プロジェクト「がんアライアワード2019」への応募がその1つ。当初は、自身の病気をPRするようで彼女も戸惑った。

「ですが、介護休暇を利用しながら働いている女性同僚から、誰にでもがんのリスクはあるから大丈夫、といわれて応募を決めました」(村田さん)

村田さんががんの治療と仕事の両立を社内で宣言したことや、女性の活躍推進企業認定などの取り組みが評価され、がん再発から約2カ月後の10月に、がんアライのブロンズ(銅)を受賞。男女を問わず働き続けやすい会社は、がん当事者にも良好な労働環境と評価されたことになる。

村田さんは人事総務部長に昇進後、2019年から新卒の定期採用を目指して昨春1人、今春は2人の内定を決めた。会社設立26年目で初めてだ。前出の豊泉部長は、一連の働き方改革が就活学生にも好評だったと明かす。

「女性の活躍推進への取り組みは弊社HPにも明示していて、アナウンサー志望の女子学生から、その点について質問も受けました。今や学生が企業を選ぶ時代なんだと痛感させられました」


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さらに、がん治療と仕事の両立への取り組みをテーマに、市内にある大手企業の支店で講演するなど、村田さんは会社の認知度向上へPR役も担う。「がんで職場に迷惑をかけるから辞める」ではなく、病名公表を逆手にとり、「自分と会社の強みに変える」発想転換がそこにある。

「正直に言えば、転職当初は会社選びを間違えたかなと弱気になったこともありました。でも、小さな会社でもここまで変われるんだと体感できて、私もとても自信になりました」

中途入社でありながら会社の働き方改革を牽引し、がん当事者としての果敢な生き様と働き方を着々と重ねてきた今、村田さんはそう振り返った。