東京五輪のヒロインはきっと東京で「幸せ」になる!

おかえりなさい、おめでとうございます、池江璃花子さん。4日に行なわれた競泳日本選手権女子100メートルバタフライ決勝にて、3年ぶりの日本選手権出場となった池江璃花子さんが優勝し、400メートルメドレーリレーメンバーとしての東京五輪代表内定を決めました。本番があるのかないのか、リレーの派遣があるのかないのか(他種目であまりに記録が出なければ派遣自体がない場合も)、代表メンバーになれるのかどうかはまだ未確定ですが、池江さんが東京五輪に帰ってきた、そのことは現実です。夢ではないのです。




全体3位で決勝に進んだ池江さんは3レーンでの登場でした。自身が持つ日本記録56秒08は出場メンバーのなかでは飛び抜けた数字ですが、池江さんはそうした数字をすでに心から追い出しています。復帰したあとの池江璃花子が出した数字が自己ベスト。あの病が明らかとなったあとからは、自分はもう別の選手なのだとでも言うように、池江さんは過去との距離を取るようになりました。

新たな池江璃花子としては東京五輪はまだ少し遠くの目標でした。2月の東京都オープンで記録した59秒44から準決勝で出した58秒48まで1秒近く「自己ベスト」を縮めるという急上昇は描いているものの、それでも個人種目としての五輪派遣標準記録57秒10まではまだ1秒以上の開きがあります。世界で戦える選手のみを派遣するとして日本水連が独自に設ける「決勝進出相当」の基準は、それだけ厳しい基準です。

ただ、「100メートル」のレースに関してはもうひとつ可能性がありました。「100メートル」種目でリレーの派遣標準記録を切れば、リレーメンバーとしての五輪代表入りが叶うかもしれない。100メートルバタフライでのリレー派遣標準記録は57秒92。新たな池江璃花子としては未体験の数字を決勝の舞台で出し、かつ万全の状態でここまで進んできたライバルたちに競り勝って上位進出ができれば、もしかしたら東京五輪が現実になるかもしれない。厳しいけれど、可能性がある目標です。

緊張のスタート、池江さんは4番手から5番手で浮上してきます。最大のライバルとなるであろう4レーンの長谷川涼香さんに対しては頭ひとつくらいリードしての前半の泳ぎ。50メートルのターンは5レーンの相馬あいさんが26秒95でトップを取り、池江さんは2番手、長谷川さんが3番手と予選上位勢がそのまま上位を占めての折り返しです。

ターン後の浮き上がりでは池江さんが差を詰めて先頭の相馬さんとほぼ横並びに。池江さんの泳ぎは伸びやかで、ひとかきごとに水面より上でグッと前に伸び、まるでトビウオのようです。75メートル付近ではトップに出たか。中継の画面上にバーチャルで表示される五輪派遣標準記録のラインは池江さんを追い越して前に消えていきますが、これは個人種目としてのライン。まだリレーメンバーとしてのラインには勝っている、はず。

ラスト10メートル、池江さんは身体半分ほどリードしています。このままいけるか、記録はどうだ。タッチしたときに表示されたのは池江さんの1着と、57秒77というリレーでの派遣標準記録を上回る「新たな自己ベスト」でした。それは400メートルメドレーリレーでの東京五輪代表入り内定となる、「おかえりなさい」の瞬間でした。



チカラ強いガッツポーズを水面で作る池江さん。隣のレーンからは長谷川さんが満面の笑みで近づき、池江さんをハグします。涙で顔を歪ませる池江さんと、満開の笑顔で背中を叩く長谷川さん。長谷川さんは「確実な代表内定」を逃して少し残念な瞬間のはずですが、そんなものは吹き飛ぶような素晴らしい笑顔。どちらが勝者でどちらが敗者なのかわからなくなるような不思議な光景です。

プールにたくさんの涙を落とし、陸に上がってからも嗚咽止まらぬまま、インタビューへと向かう池江さん。アナウンサーから第一声をうながす「おめでとうございます」の声を掛けられても、「ありがとうございます」すら発することができず、顔に手をあてて流れる涙を拭うばかり。「今の気持ちを」という池江さんを知る者すべてが聞かずにはおれない問いに、池江さんはようやく言葉を絞り出します。

「まさか100で優勝できるとも思ってなかったですし」

「5年前のオリンピック選考会よりもずっと自信もなかったし」

「自分が勝てるのはずっと先のことだと思ってたんですけど」

「勝つための練習もしっかりやってきましたし」

「最後は『ただいま』っていう気持ちで、このレースに入場してきたので」

「自分がすごくつらくてしんどくても努力は必ず報われるんだなっていう風に思いました」

「予選、準決勝でターンが合わずに改善点が逆にあるなっていう風に思ってたので」

「57秒台は出ると思ってなかったですし」

「リレーも派遣タイムも切れると思ってなかったので」

「すごく嬉しいです」

「正直、この100のバタフライは一番戻ってくるのに時間がかかると思っていた種目でもあったので」

「本当に優勝を狙ってなかったので」

「でも何番でも、ここにいることに幸せを感じようっていう風に思って」

「最後も仲間たちが全力で送り出してくれて」

「今すごく幸せです」

「自分にこの拍手が届いているとは思ってなかったので順位が決まったときはすごく嬉しかったですし」

「本当にもう言葉にできないです」

「(リレーの派遣標準切りは)そうですね…さっきも8秒、あ、7秒出ると思ってなかったって言ったんですけど」

「本当に、出ても8秒1とかかなと思ってたので」

「本当に、本当に嬉しいです」

「(手応えは)そうですね、ものすごく自信のついたレースでもあったので」

「派遣(記録)は切れたんですけど、代表に入れるかどうかはまだわからないので」

「しっかり、100の自由形も残ってますし、あと3本あるので気を抜かずに頑張りたいなという風に思います」

「ありがとうございました」




池江さんが白血病を患ったとき、東京五輪はなくなったと思いました。それだけではなく競泳選手として復帰できるのかさえも危惧されました。退院後のメッセージで「パリ五輪を目標とする」と宣言していた姿は、現実的にそうだろうと思うと同時に、「私にもう東京五輪の話をしないでください」という通告のようにも見えました。砕けた夢を遠ざけずにはおれないような姿に見えました。

ただ、東京五輪は向こうから勝手に近づいてきました。コロナ禍によるまさかの1年延期。池江さんは「目指してはいない」「目標ではない」と何度も繰り返しましたが、時間が経ち、身体と記録と心が戻ってくるなかで少しずつ東京五輪への言葉や態度も変わっていきました。そしてついに、この日本選手権を前にした段では「リレーなら可能性がある」という言いぶりになってきていました。その言葉は自由形のリレーを念頭に置いたものでしたが、少なくとも「東京」は砕けた夢として遠ざける対象ではなく、東京と池江さんが相互に歩み寄って、すぐそこまで近づいてきたのだと胸が熱くなりました。

しかも、ただ近づいてきただけではなく、前よりも強くなって近づいてきたのだと、優勝インタビューを見て改めて思いました。確かに記録は以前の池江さんには及びませんし、世界で勝ち負けをする段階ではありませんが、「前よりも強い」そう思いました。振り返ってみれば、病を患う前の池江さんは東京五輪の重圧というものを強く感じていたようでした。退院後のインタビューで「もう五輪について考えなくていい」「五輪、金メダルっていう言葉から解放された」と語っていた姿には、「悲運のヒロイン」という言葉が浮かびました。期待され、注目され、その重さに押しつぶされてしまいそうな危うさがあったのだ、そう思いました。

しかし、今の池江璃花子さんは明らかに強い。

「何番でも、ここにいることに幸せを感じよう」という言葉、こんな心持ちに至ることができたら、天下無敵です。「勝てたら嬉しい」(=負けたら辛い)ではなく、自分がその目標に向かって進むこと、すなわち生きることそのものが幸せであるという人に、重圧など無縁です。魔物など寄りつくこともできません。記録の面で「病気を患わなかった池江璃花子」に追いつくことができるのかはまだわかりませんが、心の面ではかつての自分を鮮やかに抜き去った、きっとそうだろうと確信します。あるのかないのかも含めて、結果がどうあれ、池江さんの東京五輪は間違いなく「幸せ」なものになるだろうと確信します。

2020年7月24日、東京五輪1年前イベントで「1年後、希望の炎が輝いて」と池江さんは呼び掛けました。自ら何度も原稿を手直しし、何度も伝えるべき言葉を考えてその場に臨んだ池江さんは、聖火を携え、世界のアスリートのために1年後の希望を願いました。おそらくその時点ではまだ「池江璃花子」はそのなかに入っていなかったことでしょう。みんなのために希望を願ったのでしょう。みんなのためだから、願えたのでしょう。自分にとっては「あっても、なくても、目指せない」ものだからこそ、みんなのために強く願えたのだろうと思います。「電通の操り人形」などというおぞましい揶揄にさらされ、「五輪など言語道断」という厳しい批判にさらされながらも、凛として強く。

今この2021年、その希望はちゃんと池江さんのもとにも帰ってきました。「ただいま」「おかえりなさい」と、まるで遅れてきた池江さんを待っていたかのように出迎えてくれました。コロナ禍なんてなければよかったし、池江さんが病を患うなんてことなければよかったですが、ふたつの辛い出来事が重なることで「よかった」と思える新しい出来事が生まれました。すべてが悪いことばかりではなかったと思える出来事が、確かにここにひとつある。

もしかして、この「よかった」があれば、勝てるかもしれない。

コロナ禍によって多くのアスリートが夢を奪われ、失意のなかにいました。あと1年は頑張れないと引退を決める者もいました。生命は有限で、時間は不可逆的です。2020年の夏に見られなかった夢は、二度と戻らないのです。ただ、もしも世界のすべてのアスリートが「2021年でいいよ」「2021年を目指すよ」「そこが最初から目指していた場所だった」と思ってくれるのなら、「2020年だったらよかったのに」という繰り言を強い心で封じてくれるのなら、勝てるかもしれない。

2020年では絶対に叶わず、2021年だからこそ現実になったという「よかった」が確かにひとつここにあり、「2020年だったらよかったのに」がもしもひとつもなければ、「よかった」で勝ち越せるかもしれない。失ったもの、戻らないもの、残念なことはたくさんあります。僕にもあります。かつて見た華やかなりし東京五輪・パラリンピックの夢はもうありません。それでも「2020年だったらよかったのに」とはもう思いません。その繰り言は永遠に封じます。そういう気持ちにさせてくれる出来事が、確かにここにひとつあるのですから。

おかえりなさい、池江璃花子さん。

おめでとう、池江璃花子さん。

そして、ありがとう池江璃花子さん。

希望の炎を燃やす者のひとりとして、心から感謝します。

あなたがいて、よかった!





2021年だから見られる最高の夢を目指して、希望の炎を燃やしつづけます!