群馬県と埼玉県の県境を流れる利根川に、自治体によって無料の渡し船が運航されています。古くから水運の要所であったこの渡し船は、今も重要な意味があります。

航路が県道の一部

 利根川で隔てられた群馬県千代田町と埼玉県熊谷市との間に、渡し船が今も運行されています。

 この渡し船は「赤岩渡船」と呼ばれ、群馬県から委託を受け千代田町が運行しています。赤岩渡船は主要地方道・熊谷館林線の一部とされ、橋に代わる交通手段という扱いのため、誰でも無料で利用することができます。


利根川沿いの2つの県を結ぶ赤岩渡船(乗りものニュース編集部撮影)。

 館林駅と赤岩渡船を結ぶバスは、河川敷の乗船場近くまで乗り入れます。渡船場には定員20名の「新千代田丸」が待機していました。乗船の際に、船内の収納庫からライフジャケットを取り出して着用します。

 運行が始まるのは8時半。訪問したのは平日朝ですが、通勤・通学の時間帯が終わったあとなので、一緒に乗船したのはロードバイクを輪行する40代の男性1名のみでした。この男性は対岸にある利根川サイクリングロードを下り、霞ケ浦を目指すとのこと。渡船を利用するのは今回が初めてと話します。

 およそ5分で対岸に到着。河川敷には熊谷行きのバスが待機中で、両県間を移動する利用客の接続がある程度考慮されているようでした。

 さて、埼玉県側から乗船する際は、対岸に待機中の船頭に知らせるため、黄色の旗を掲げます。今やこのようなアナログな方法で船を呼ぶところは、板を叩いて音を鳴らす「牛川の渡し」(愛知県豊橋市)など、ごく一部しか残っていません。

 船頭は会社員を定年退職し、再就職で千代田町職員としてこの仕事に就き5年目とのこと。1年のうち最も忙しいのはGWで、小屋に戻る暇もなく両岸をピストン輸送しているそうです。渡船客は日常利用よりも町外の観光客のほうが多く、対岸の埼玉県側にある「荻野吟子記念館」を訪れる手段としてもよく利用されていると話します。

歴史は戦国時代から

 赤岩の渡しの歴史は古く、戦国時代の上杉謙信の文献に武士団の輸送路として登場します。江戸時代には、この付近の水深が深いことを利用し、利根川の水運の船着き場として栄えるようになります。明治期には富岡製糸場で生産された生糸を横浜へ運ぶ船の発着場にもなりました。

 その後、鉄道が普及したことで水運の地位は低下するものの、桐生で生産された絹織物などが赤岩の渡し船を経由し、熊谷駅から貨物列車で東京へ輸送されることもありました。

やはり橋が求められている

 利根川に架かる橋はこの地域には少なく、国道407号から利根大堰まで10kmも離れているため、中間に位置する赤岩渡船付近への架橋を望む声がありました。しかし、川幅が広いため大規模な橋梁になることや、隣接するグライダー場により航空法上の建築物の高さ制限が設けられているなど課題が多く、実現には高い壁があります。


新たな橋の建設を求める市民の会の立て看板(乗りものニュース編集部撮影)。

 現在、群馬、埼玉、栃木県内の計10市町で利根川新橋建設促進期成同盟会が結成され、県や国への要望活動が続けられています。また利根川では国による堤防強化事業が順次進められていることもあり、堤防工事と一体で建設を進められることを期待した調整も進められているようです。

もうひとつの渡船は運休中

 ちなみに、赤岩渡船の20kmほど上流には、伊勢崎市が運営する「島村渡船」があります。これは伊勢崎市の境島村地区が利根川によって分断され、南側が埼玉県本庄市の「飛び地」のようになっていることから、市民の市内移動の手段として運行されているもので、こちらは市道の一部という位置づけになっています。

 この島村渡船は2019年10月の台風19号で乗船場などが被害をうけ、2021年3月現在も運休中です。過去にも洪水の影響で幾度となく運休となっていることもあり、存続が問われている状況です。