[画像] 元ホークス島袋が天才と認めた「興南の5番」。 柳田悠岐のような長打力が魅力

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 野球熱の高い沖縄だが、そのほとんどは高校野球だ。だが今、沖縄の社会人野球が地殻変動を起こし、大きな注目を集めている。

 その原動力となっているのが、今年創設されたシンバネットワークアーマンズBCだ。創部わずか8カ月、しかも部員13人で今夏に行なわれた都市対抗九州二次予選で沖縄県第2代表の座を勝ち取っている。その中心メンバーとなっているのが、コーチ兼選手の銘苅圭介(めかる・けいすけ)だ。高校野球ファンならご存知の人もいるかと思うが、かつて甲子園を湧かせた選手のひとりである。


春夏連覇を達成した興南の5番打者として活躍した銘苅圭介

 ちょうど10年前の2010年、興南高校(沖縄)はエース・島袋洋奨の活躍もあり、史上6校目の甲子園春夏連覇を成し遂げた。そのチームの「5番・ライト」として春夏通算42打数17安打(打率.450)9打点を挙げたのが銘苅だった。

 銘苅は甲子園での活躍もあり、東京六大学をはじめ、東都大学リーグや社会人の名門からも誘いがあったが、地元の名桜大学を選んだ。

「もともと大学で野球をやるつもりはなかったので、だったら地元でいいかなと。プロを目指すために野球をやっていたわけじゃないので......」

 そう淡々と話すにはわけがあった。

 銘苅は高校時代に両膝の半月板を痛め、在学中に2度も手術をするほど状態は悪かった。だからといって、周りが銘苅の才能を放っておくはずがない。入学した名桜大学では執拗な勧誘により、1年の夏過ぎに入部を決意。

 すると、メキメキと実力を発揮し、大学九州選抜チームに選ばれ、オランダ遠征では台湾選抜チームから特大の一発を放つなど、誰もが"銘苅健在"を確信し、未来は明るいように思えた。

 しかし、周囲の期待をよそに膝の爆弾を抱えたままプレーを続けることに限界を感じていた。それでも大学卒業後は沖縄の社会人チーム・エナジックに入社し野球を続けたが、膝が限界に達し1年で退部した。

 その後、2年間は野球から離れていたが、沖縄のホテルチェーン「Mr.Kinjo」がクラブチームを創設するということで銘苅に声がかかった。幸い、2年間プレーしなかったおかげで膝の状態はよく、再び野球と向き合うことになった。

 ところが、母体の経営不振がたたって野球部は1年半で廃部となってしまう。普通なら、ここで道は閉ざされてしまうのだろうが、銘苅の野球人生はまだ終わらなかった。

 今年1月に沖縄の物流、広告事業を中心とするシンバボールディングスが社会人野球チームを発足することになり、銘苅はコーチ兼選手として呼ばれた。

 真っさらな状態で一からつくっていく新設のチームといえば聞こえがいいが、部員はたったの13人で、練習場もなし。目の前に艱難辛苦(かんなんしんく)が待ち受けていることは明白だった。

 集まった13人のうち、銘苅を含んだ6人が元Mr.Kinjoのメンバーで、残りの7人も彼らの伝手をたどって集められた、いわば寄せ集めの選手たちである。県内の野球関係者からは気にも留められず、むしろ揶揄される存在だった。

 沖縄の社会人野球チームはクラブチームを含めて6チームあり、そのなかでも都市対抗の常連でもある沖縄電力の1強時代が続いている。なんとかその牙城を崩したく、シンバは照屋信博監督のもと、銘苅を中心に始動することになった。

 銘苅の才能は高校時代から傑出していた。島袋はこともなげにこう語る。

「身体能力の高さでいったら、銘苅はズバ抜けていました。首都圏の大学できちんとした指導を受けていたら、プロの門を開けていたかもしれません」

 ほかの興南メンバーたちも銘苅の素質を認め、異口同音に「野手で一番プロに近かったのは銘苅」と断言する。

 8カ月間指導してきた照屋監督は、銘苅について次のように語る。

「まずタイミングの取り方が秀逸です。どんな投手に対しても自分の打撃を崩されることがなく対応できるのは、教えてもできるものではありません。ボールを捉える能力はイチロー並みじゃないですかね。

 あとは長打力。飛ばすだけの打者はたくさんいます。アウトコースであれば流して、インコースなら引っ張る。しかし銘苅の場合は、アウトコースを引っ張って長打にしたり、インコースを流して長打にできるんです。コースに関係なく、自分のタイミングさえ合えば長打にできる能力は、ソフトバンクの柳田(悠岐)のようですね」

 チームの主軸であり、キャプテンを務める濱田晃成も銘苅のバッティングには一目置いている。濱田は延岡学園(宮崎)2年夏の甲子園に出場し、ドラフト候補に挙げられたほどの選手である。高校卒業後は社会人野球の名門・東京ガスに進み、2年目にレギュラー奪取。5度の都市対抗に出場し、日本選手権では打率4割の記録を残すなど、チームの中心選手として活躍した。

「正直、春夏連覇といっても......というのはありました。自分も東京ガスでやってきた誇りがありましたから。でも、バッティングを見て驚愕しました。飛距離もそうですけど、左腕の押し出しがすごい。自分は右投げ左打ちですが、銘苅さんのように左投げ左打ちの選手と左腕の使い方が違うんです。銘苅さん曰く『サイドスローで投げるような感じで左腕を押し込む』らしいのですが、到底できない芸当です。どこの社会人チームに行っても通用します」(濱田)

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 沖縄県初のプロ野球球団「琉球オーシャンズ」とのオープン戦でも、元プロのピッチャーの球を難なく打ち返す。とにかく、空振りするイメージが湧かない。濱田には一発の迫力があるが、銘苅にはそれ以上の凄みがある。
 
「僕は1年1年が勝負なんです。だから、一生懸命やった結果、この1年で終わっても悔いはないです。プロがどうこうじゃなくて、精一杯できる自分がいる限り、野球はやめない。やめるのは簡単ですから」

 すべてを悟ったかのように、銘苅はそう言った。そんな彼の今後の活躍を期待したい。