【前回までのあらすじ】
 1994年の春に発足したファルカン・ジャパンで、岩本輝雄は日本代表に初選出される。当初は、嬉しさより驚き、楽しみより不安のほうが大きかったが、トレーニングを重ねていくうちに「選ばれたからには、試合に出てみたい」と思うようになっていた。

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<エピソード2>
 ファルカンは、積極的に選手とコミュニケーションを取るタイプの監督ではなかった。テルも「あんまり話すことはなかったかな」と振り返る。ポルトガル語を自在に操るカズ(三浦知良)を介して、「頭を使え、というより、もっと身体を動かせ」と要求されていたという。

 ほぼ週2ペースでゲームをこなすJリーグを戦っていただけに、フィジカル的には多少の疲れはあった。「当時は延長戦もあったし、キツイと言えば、キツかった」。それでも、21歳という若さも武器に、トレーニングから必死にアピールして、2試合が組まれた5月のキリンカップ、最初のオーストラリア戦に臨むことに。

 ファルカン・ジャパンの初陣で、テルは左SBで先発。スタメンでの抜擢に関しては、それまでの練習でも主力組に入っていただけに、心の準備はできていた。

「広島ビッグアーチでね。試合前、グラウンドに出る前にメンバーが紹介される。背番号6の自分の名前がコールされる。さすがに鳥肌が立ったね」

 間違いなく、緊張していた。試合開始直後、浮いているボールをバックパスしたが、「それが緩くて、自陣で相手に奪われそうになった」。だが、危うくピンチになりかけた場面で、同サイドのCB井原正巳が鋭いカバーリングを見せ、事なきを得る。

「行くぞ、テル!」

 自分のミスを救ってくれた大先輩の激に、緊張がほぐれて、落ち着きを取り戻すことができた。今思えば、あのバックパスは消極的な選択だった。井原の完璧なサポートに感謝しつつ、「もっと積極的に行こう」と切り替えて、アグレッシブなプレーを心がけた。
 
 試合は1-1のドロー。テルはフル出場で90分を終えた。

「相手は強かったし、Jリーグとスピードが違ったけど、まずまずできたんじゃないかな。何回か良い形でオーバーラップできたし。緊張はあったけど、いつも通りにやろうって」

 続く国立でのフランス戦では、世界の実力を目の当たりにする。1-4の完敗。この試合でも左SBで先発したが、「自分のサイドからけっこうやられた」と悔しさを滲ませる。

「フランスは相当に強かった。予選で負けて94年のワールドカップには出ていないけど、もうモノが違ったよ。カントナ、パパン、ジノラ、デシャン、ジョルカエフ、デサイー、ブラン……ヤバいでしょ(笑)。ワールドカップに出てたら、優勝してもおかしくないメンバー。サイドチェンジもされまくったし、まるで歯が立たなかった」
 
 主に守備面のパフォーマンスについて「マスコミにもだいぶ叩かれた」が、スタンドを沸かせるプレーも見せた。「ドリブルで3人ぐらい、かわしたんだよね」。だが、心から喜べない。ドリブルの方向が、“前”ではなく“横”だったからだ。

「観衆が『おおっ!』ってどよめいたけど、自分は横にドリブルしただけ。相手からすれば、怖くもなんともない。こっちはゴールに向かって進んでないんだから。ドリブルを“させられた”だけ」

 自らの力不足と世界との埋めがたい差を痛感した。だからこそ、貴重な経験であり、大きな刺激を受けた。「スピード、高さ、強さ、判断。すべてのレベルが違う。だから、もっと頑張らないと、もっと練習しないと、って思った」。

 代表デビューを果たしたこのキリンカップを思い返し、テルは「勉強することばかりだった」としみじみと語る。「練習も、試合も、マスコミの反応も、世界との差も、いろんなことを学んだ」。練習では、ポジショニングひとつとっても、「求められることに応えようと」必死だった。これまでは、所属クラブでのプレーだけに専念していればよかったが、そこに代表での活動が加わる。「リズムを掴むのが難しかったし、遊ぶ暇もなかったね(笑)」と懐かしむ。