私が語る「日本サッカー、あの事件の真相」第14回
早すぎたファルカン招聘。日本代表の失われた1年〜井原正巳(2)

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 雨のなか、国立競技場で行なわれた1994年アジア大会の壮行試合。パウロ・ロベルト・ファルカン監督率いる日本代表のオーストラリア戦は、0−0のドローに終わった。4万4千人のサポーターからブーイングが起きたが、DFラインの中心だった井原正巳はこれを「練習の一環」と考え、それほど気にしていなかった。


アジア大会の壮行試合は、オーストラリア相手に0−0で引き分けた。photo by Shinichi Yamada/AFLO

 この試合、エースのカズ(三浦知良)は不在だった。

 夏にイタリア・セリエAのジェノアに移籍したカズは、開幕のミラン戦でヘディングの競り合いから鼻骨などを骨折し、手術。その後療養し、オーストラリア戦は帰国してまだ2日目だった。だが井原は、カズが合流したことでチームの雰囲気が大きく変わったのを感じたという。

「カズさんがイタリアから戻ってチームに入ると、ピリッとした感じになりました。チームは新しい選手、若い選手が多く、アジアの大会なんで『楽勝じゃん』と甘く見ていたし、気の緩みもあったと思うんです。でも、カズさんがチームを引き締めてくれたし、ファルカンと直にポルトガル語でコミュニケーションが取れるので、監督の考えを僕らに伝えてくれた。カズさんの存在の大きさを改めて感じることができましたね」

 前線は、カズの合流で駒が揃い、エースを軸にした攻撃の練習に切り替わった。コンビを組んだのはカズをよく知る武田修宏で、攻撃的MFには岩本輝雄と前園真聖が入った。しかし、攻撃の練習はつづくが、依然として守備の練習はほぼなかった。

 オーストラリア戦では失点ゼロだったが、井原はアジア大会のグループリーグの初戦で当たるUAE、続くカタールを警戒し、守備の選手だけで話し合ったという。

「両サイドバックの攻撃参加が増えた分、攻撃は活性化されたけど、いざ守備になった時のリスク管理とか、カバーとか、なんの約束事もなかったんです。その取り決めをしないといけないので、結構話をしました。でも初戦までに、攻守両方のアベレージを上げていく作業は本当に難しくて、チームの完成度は50%ぐらい。僕らは優勝が目標だったけど、正直やってみないとわからないという状態でしたね」

 井原は覚悟を決めて、広島に向かった。

 94年10月3日、日本はアジア大会の初戦、UAEとの試合を迎えた。

 スタメンは壮行試合のメンバーだった山田隆裕に代わってカズがFWに入り、ベストメンバーでの布陣になった。

 アジアとはいえ、若手にとっては初めての国際大会である。多くの選手が緊張するなか、いきなり出鼻を挫かれた。前半2分でコーナーキックから失点したのである。日本は動揺し、自慢の両サイドバックは前半、一度も攻撃参加できずに終わった。後半も決め手を欠き、カズがPKを決め、なんとかドローに持ち込んだ。

 続くカタール戦は中盤の構成をスクエアからダイヤモンドに変更し、流れはよくなった。だが、前半21分にまたしてもコーナーキックから決められて失点。後半に高木琢也が同点ゴールを決めて、この試合もなんとか1−1で終えた。

 日本は、2試合2引き分けで、勝ち点2だった。

「カウンターを結構喰らって、しかも2試合ともコーナーからやられてしまった。集中力とかの問題もあるけど、守備がちゃんと機能していなかったですね。あの当時、ゾーンディフェンスをしていたんですが、それって(当時世界最高峰の)ミランがやっていた戦術なんです。ファルカンからすれば日本人ができるのかって思っていたかもしれないけど、日本代表では初めてやったんです。

 最初はゾーンに入って来た選手をマークするという初歩的なことも難しかった。どうしても責任があいまいになってしまう。それに個の力があれば相手を跳ね返すこともできるけど、僕らはそれが足りないので、相手にパワーを持ってゾーンに走り込まれるとやられてしまう。実際、UAEにもカタールにもセットプレーでやられたわけじゃないですか。マンマークでやっていればと思うけど……。ゾーンディフェンスの難しさを感じましたね」

 ファルカンは、個々の能力の問題や大会までの時間的な制約もあり、組織的なゾーンディフェンスを完成させるのは難しいとわかっていたはずだ。それでもやろうとしたのは、理想のサッカーがそこにあったからだろう。しかし、最低限ゾーンで守る意識づけはしたものの、練習不足もあってそれはセットプレーの時ですらハマらなかった。

「ゾーンディフェンスは、まだまだ遠いなって思いましたね。攻撃も、相手に守備を固められると、なかなか崩し切れないところがあった。どこも日本対策をしっかりしてきているなという感じで、これは1つ勝つのも大変だなと改めてアジアの厳しさを思い知らされました」

 井原は、UAEの戦い方を見て、これまでとずいぶん違う印象を受けたという。

「球際の厳しさも含めて守備の意識がすごく高かったですし、日本に勝ちたいという気持ちをぶつけてきた。前に日本で試合をした時は、そこまで積極的な感じではなかったんです。だけどこの時は前から仕掛けてきて、この試合に賭けているみたいな感じだった。そういうのを自分たちが受けてしまったのもあるけど、日本へのリスペクトと同時にライバル心みたいものがすごく強くなった印象がありました」

 実際、UAEは引き分けのあと、負けたかのように悔しさを見せていた。PKが微妙な判定だっただけに、なおさら勝利を奪われたという気持ちが強かったのだろう。92年アジアカップの優勝、93年ドーハでのワールドカップ予選の戦いを見て、国内リーグをプロ化し、着実に強くなりつつある日本サッカーを、中東の国々は警戒していたと思われる。


1994年アジア大会のことを振り返る井原正巳

 グループリーグ最終戦の相手はミャンマーだった。

「大会はスタートから躓いた感があったけど、ミャンマーは力が落ちる相手だとわかっていたので、とにかく勝って決勝トーナメントに進むことしか考えていなかったです」

 日本は、序盤から怒涛の攻撃を見せたが、6人がゴール前に張りついて守るミャンマーをなかなか崩せないでいた。結局、前半は柱谷哲二が挙げた1点のみ。後半8分に高木がゴールを挙げて2−0になった。

 そして、ここからどう動くのか、日本の戦いに注目が集まった。

 この試合前に、カタールとUAEが試合を行なって引き分け。その結果、ミャンマーに勝てば決勝トーナメント進出が決定になった。ポイントになったのは、得失点差によって決まる決勝トーナメントの相手である。このまま2−0で勝てば相手はクウェートだった。だが、3点差以上で勝てば相手は韓国になる。韓国は日本とともに大会の優勝候補。いずれ当たると予想された相手だが、あえてベスト8の段階で戦う必要はないのではないか。そんな声もあった。

 しかし、井原は、ミャンマー戦でチームに勢いを感じたという。

「僕は、どっちでもよかった。いずれ韓国とは当たることになるので、それが早いか、遅いか、どちらにしても勝てばいいだけの話。ミャンマー戦は2点取ってから、『もう点取るのをやめよう』とか、そういう声は一切聞こえなかった。僕は結果的に、5−0で勝てたのはすごく大きかったと思います。2試合モヤモヤしたものが続いていたんで、この勝利でスッキリしたし、チーム状態が一気に上向きになりました」

 それまで、もうひとつ動きが硬かった若い選手にも躍動感が戻り、岩本ら期待された若手がゴールを挙げるなど勢いが出てきた。

「このチームになっていちばんいいムードだった。とくに若い選手に元気が出てきて、チームが盛り上がってきました」

 井原は、92年のダイナスティカップやアジアカップを制した時の雰囲気を思い出していた。その勢いのまま、日本は宿敵・韓国との大一番を迎えることになったのである。

(つづく)