まだ日本がワールドカップ本大会に出られなかった時代、どこか人間臭く、個性的で情熱的な代表チームが存在していたことを是非、知っていただきたい。「オフトジャパンの真実」としてお届けするのは、その代表チームの中心選手だった福田正博の体験談を基に、「ワールドカップに絶対出る」という使命感を背負って過酷な戦いに挑んだ日本代表の物語であると同時に、福田自身の激闘記でもある。今回は<エピソード5>だ。

【前回までのあらすじ】
 92年に発足したオフトジャパンでトップ下に定着した福田は、ダイナスティカップとアジアカップ制覇に貢献。しかし、ワールドカップのアジア1次予選を突破したあと、93年5月にJリーグが開幕すると……。心身ともに余裕がなくなっていった。迎えたアジア最終予選でもサウジアラビア戦に続き、イラン戦でも精彩を欠き、その結果、3戦目の北朝鮮戦でついにスタメンから外れてしまった。

<エピソード5>
 アメリカ・ワールドカップのアジア最終予選、1分け1敗で迎えた北朝鮮戦(1993年10月21日)でハンス・オフト監督はシステムを4−3−1−2から4−3−3に変更し、スタメンを入れ替えた。FWの高木琢也、トップ下の福田、左サイドバックの三浦泰年が外れ、代わりにFWの中山雅史と長谷川健太、DFの勝矢寿延が入った。これを受けての福田の心情は次のようなものだった。

「オフトは『3WIN』、あと3つ勝つしかないと言って、(北朝鮮戦で)メンバーを変えたよね。そこで自分に怒りとかがあれば、1試合目、2試合目でもっとできていたかもしれないね。そういうパワーすらないぐらい、自信を失っていて、思うようにプレーができないような気がした。だから、外されるのは当然だなと思っていた。それぐらい打ちのめされていたから」

 と同時に、「よく俺を代えたと思う。あそこまで頑なに起用してきた俺を」という想いもあった。オフト体制下で、北朝鮮戦を迎えるまで福田はほとんどスタメンで使われている。それはオフト監督が示した信頼の証だが、北朝鮮戦では「福田外し」を決断。「戦える状態ではなかった」(福田)ことを察しての、苦渋の決断だったようにも映った。
 
 結果的に、オフト監督の采配は吉と出る。28分、ラモス瑠偉のFKから三浦知良(以下カズ)がヘッドで叩き込んで先制すると、続く51分には右サイドからのカズのクロスに左足でダイレクトに合わせた中山のゴールで追加点。さらに終盤、ラモスのCKからカズが豪快なシュートを決め、日本は3−0で北朝鮮を下したのだ。果たして、ピッチに立てなかった福田はこの試合をどのような心境で観ていたのか。

「俺が外れて勝って『なんだよ』なんて、そういう感覚になったかどうかも覚えていない。とにかくコンディションを戻さないといけないって。(北朝鮮に)勝てばチャンスが少し膨らむわけだし、当然、勝利を願っていたよ。日本のサッカーのためにという使命感を持って、みんな戦っていたから。だから、(北朝鮮に)勝ったことで変な感情はなかったよ」
 
 10月25日に行なわれた4戦目の韓国戦。福田がピッチの外から眺めるなか、日本は前半から気迫十分のパフォーマンスを披露する。そして59分にカズが奪った1点を死守し、残り1試合でサウジアラビアと同勝点ながらも得失点差で上回り首位に躍り出た。この時のチームの雰囲気を、福田はこう説明する。

「状況が一変した。見えてきたでしょ。韓国に勝って『行けるんじゃないか』って空気になった。チームに笑顔がなく、半分死にかけていたところから這い上がって、良い雰囲気になった。ただ、イラクが強いことはみんなが理解していた」