初めて出かけたW杯は1982年スペイン大会で、初めて出かけた五輪は1992年バルセロナ五輪だった。スペインW杯で最初に観戦した試合は、カンプノウで行われた開幕戦(アルゼンチン対ベルギー)になる。

 もっと言えば、最初に観戦したチャンピオンズリーグ(CL)はバルセロナ対モナコ(92-93シーズン)で、最初に観戦したCL決勝はバルサ対ミラン(93-94シーズン)だった。

 もう少しバルセロナにこじつければ、82年スペインW杯で観戦したベストゲームを言えば、バルセロナのサリアスタジアムで行われたイタリア対ブラジルになる。

 バルセロナに潜在的に特別の思い入れがあったわけでは全くない。しかし結果として、この地に好印象を抱くことになったことは事実である。

 バルセロナ五輪がなによりよかった。コンパクト五輪そのものだった。

 競泳、陸上、体操のメイン競技の施設は、すべてモンジュイックの丘に固まっていた。観戦者には特に喜ばしい構造だ。1日に複数の競技を観戦できる環境が整っていたのだ。2004年アテネ五輪も五輪パークの中に多くの施設が固まる同様の構造だったが、バルセロナの場合は、街の中心地に近い場所にある標高およそ150mの小高い丘の上というロケーションがなによりイカしていた。

 ほぼ徒歩圏内。バスも用意されていたが、ロープーウェイもあれば、エスカレーターもある。もちろん階段もある。下り坂の帰りは、たとえば競泳会場から最寄り地下鉄駅のスペイン広場駅まで、徒歩15分程度で到着することができた。

 スペイン広場にはタクシーが列を成していた。そこからカンプノウまで約3キロ。その脇にあるパラウ・ブラウ・グラナという普段、バルセロナのハンドボール部などが使っている体育館まで、競泳会場から30分あれば到着することを、僕は事前にチェックしていた。

 1992年7月27日。その日、モンジュイックの丘の上にある競泳会場にいた。午前中に行われる予選を見た後、金メダルは堅いと言われていた小川直也が出場する柔道男子95キロ超級を、パラウ・ブラウ・グラナで観戦するつもりでいた。

 14歳と6日。中学3年生の岩崎恭子が出場する女子200m平泳ぎに、特別期待を寄せていたわけではなかった。その時、彼女の世界ランク14位。予選で8位以内に入り、決勝のレースに進出すれば文句なし。メダル候補では全くなかった。ただ親近感は抱いていた。高校のクラスメイトや部活の仲間に、彼女が在籍していた沼津第5中学の出身者が何人かいたからだ。

 午前中の予選。世界記録保持者のアニタ・ノール(アメリカ)と同じ組で泳いだ岩崎恭子は、100分の1秒差で2位となり、全体でも2位のタイムで決勝に進出した。自己ベストを大幅に更新する日本新。記録は後方からジワジワ追い上げ、ラストであわや逆転かという、そのレースぶりも吃驚仰天だった。

 女子の200m平泳ぎはゴールまで2分20数秒を費やす長丁場。レースには展開の妙が隠されている。最初の50m、100mがアテになりにくい種目だ。岩崎恭子は後方から出ていって“まくる”。こう言っては不謹慎かも知れないが、競馬で言うところの追い込み馬になる。100分の1秒差の2位ながら、予選での“末脚”のキレは抜群だった。

 予定を変更し、午後も女子200m平泳ぎ決勝を観戦することに迷いはなかった。しかし取材仲間の多くは、パラウ・ブラウ・グラナに出かけていった。それでも、金メダルが確実視されている小川直也を追いかけようとする人が圧倒的に多かった。

 柔道と競泳と。個人的な趣味の問題かもしれないが、現場で見て面白いのは競泳だ。50mプールが大きすぎず、小さすぎず、視界に綺麗に収まるので、レース展開を理解しやすいのだ。陸上の100mのようにアッという間に終わってしまうこともない。速すぎず、遅すぎず、観戦者の動体視力にとって、ちょうどいいスピード感なのだ。来る東京五輪でもそうであるらしいが、五輪で最も売れ行きがいい観戦チケットが競泳であるという事実には、素直に納得する。