《短期集中連載》
米津玄師が国民的歌手と呼ばれるまでの軌跡をプレーバック! 第2回

【写真】打ち上げでなぜか刑事ルックの菅田、『いだてん』打ち上げのたけしなど

『DAM年間ランキング』歌手別1位など、ランキングで33冠を達成。『紅白歌合戦』では、『パプリカ』『カイト』など楽曲提供した曲が3曲も披露されるなど、2019年は“米津玄師イヤー”となった。なぜ彼は短期間でこれだけの偉業を成し遂げることができたのか。関係者たちの証言で振り返る──。

“ボカロP”の地位を捨て、本名で歌うことを決意

 楽曲提供した『パプリカ』は『第61回 輝く! 日本レコード大賞』の大賞を受賞しただけでなく、令和初の『選抜高等学校野球大会』入場行進曲にも起用。嵐とコラボした『カイト』は2月〜3月のNHK『みんなのうた』の放送曲に決定するなど、今や子どもたちからも愛される存在になった米津玄師。

 世代を超えて支持されるようになるまでには、人知れぬ挫折や苦悩があった。

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 ニコニコ動画への投稿をきっかけにボーカロイドクリエイターとして一躍、人気者になった米津。

「“ボカロP”と呼ばれるニコニコ動画出身クリエイターの人気を音楽業界も放っておかず、多くの“ボカロP”がデビュー。中でもアートワークまで自ら手がけるハチ(旧アーティスト名)は注目度が高かった」(音楽ライター)

 しかし’12年に突如、これまで築いた地位を捨て本名の“米津玄師”名義で自ら歌うことを決意。その理由を過去の音楽誌で、このように語っていた。

《ラクなところにずっと留まっているっていうのも健康的ではないなと思って。(中略)やっぱりひとりでやってちゃダメだよなと思った》

 初めて父親に映画館に連れていってもらった映画『もののけ姫』を見て以来、いつかジブリのような存在になりたいと憧れを抱いていた米津。パソコン画面の向こう側にいる人間ではなく、身近な人たちを喜ばせられる、そして“小学生でもわかるもの”を指針に楽曲を制作するように。

「コミュニケーションをとるのが苦手だった小学校、中学校時代の自分を肯定する作業から始めるなど身を削り、全身全霊でアルバム『diorama』の制作に取り組んだとか」(前出・音楽ライター)

心が折れた米津を救った“映画”

 インディーズながらオリコン週間ランキングで6位に輝くも、音楽誌のインタビューでは、心が折れてしまったと当時を振り返っている。

《出せる限りの力をそのアルバムに詰め込んでやった結果が、自分の望んだものではなかった》

 すべてを注いだアルバムが、1位を取れなかったことにショックを受けた彼は制作意欲も落ちていき、家に引きこもるように。ゲーム実況を見ているだけの生活が1年間ほど続いたという。

 そんなときに北野武監督の映画『ソナチネ』に出会い、大きな影響を受ける。

「どんどん登場人物が死んでいくこの作品を見て、死ぬことがそんなに簡単なら、もうちょっと生きてみようかなと感じたそうですよ」(同・レコード会社関係者)

『CDショップ大賞』入賞が快進撃のきっかけに

 ときを同じくして、全国のCDショップから快進撃の狼煙(のろし)が上がり始めていた。実際にCDを販売するショップ店員が選ぶ『CDショップ大賞』にデビューアルバムが入選を果たし、多くのメディアで取り上げられるように。

《新しい才能の出現を世に知らしめる事は、この仕事の醍醐味(だいごみ)のひとつだと思っています。(中略)聴く人を選ばない良盤として、自信を持ってお薦め出来ます》

 同作を選出した全国のショップ店員たちからは、こんな熱いコメントが多く届いたという。改めて『CDショップ大賞』の事務局に当時のことを聞いてみると、

「『diorama』発表以前より、音楽好きな方の間では話題となっていたと記憶しています。全国のCDショップ店員さんのコメントからも、素晴らしい才能の出現という衝撃があったようです」

 自分の価値が見いだせず、悩み苦しんだ時期に彼を救ったのは、ファンの意見がダイレクトに届くツイッターやニコニコ動画だった。1年間の空白期間があったものの、彼の楽曲を待ちわびる全国のCDショップ店員やファンの思いを受け’13年にシングル『サンタマリア』でメジャーデビュー。

 自分が心地よいものをひたすら追求していたボカロ時代を経て、世代を超えて支持されるアーティストになっていった──。音楽評論家の富澤一誠氏も、米津サウンドの変化をこう語る。

「私が実行委員を務める『レコード大賞』でも、インディーズ時代から彼を候補にあげるメンバーがいたほど、その才能は早くから評価されていました。ただ当時はまだマニアックさが感じられたこともあり、ノミネートからははずれました。しかしメジャーデビュー以降、どんどん曲調がポップになっていったのが印象的です。たくさんの人に聴いてほしいという思いが強まっていっているのが、楽曲からも伝わってきましたね」

MVは1億回再生! 楽曲制作も変化

 ’14年に東京メトロのキャンペーンソングとして『アイネクライネ』を書き下ろすと、YouTubeで公開されたミュージックビデオは1億回の再生数を突破。CDショップ店員たちの“売りたい”熱い思いから始まったムーブメントは新ツールを経由してどんどん大きくなっていく。

「かつてはひとりで行っていた楽曲制作も進化。’17年には女性ボーカル・DAOKOと共同名義で『打上花火』をリリース。アニメ映画『打ち上げ花火、下から見るか? 横から見るか?』の主題歌に起用されたこともあり、ファン層が拡大しました」(前出・レコード会社関係者)

 性格にも変化が表れたと関係者は続ける。

「菅田将暉とコラボした『灰色と青』は“この曲は菅田くんでなければ絶対に成立しない”と、自ら熱烈なオファーをして制作されたもの。同曲を含むアルバム『BOOTLEG』(’17年)では池田エライザを起用した曲もあるなどコラボや楽曲提供を積極的に行うようになりましたね」

 内向的な青年は音楽を通じてひとりの人間としても成長し始めていた──。