今はイオングループに吸収され消滅してしまったマイカル。時代の寵児ともいえる存在でした(撮影:尾形 文繁)

なぜ一時代を築いた企業は破綻に至ったのか。日米欧25社の「倒産」事例を分析した新著『世界「倒産」図鑑 波乱万丈25社でわかる失敗の理由』を上梓した荒木博行氏が全3回で3社のケースを読み解きます。

第3回は「マイカル」編。1963年、大阪で生まれた総合スーパー「ニチイ」がその前身です。1970年代、流通の主導権が百貨店からスーパーへと移る時代に業績を伸ばし、その後のスーパー冬の時代に失速した同社は1988年、「マイカルグループ」とその名を変え、安売りから生活づくり、街づくりへとコンセプトの舵を切ります。しかし大きく広げた風呂敷を畳み切れずに2001年、会社更生法申請に至りました。その道のりから、私たちが学ぶべき教訓とは?(本稿は荒木博行著『世界「倒産」図鑑』の一部を再編集したものです)

「時間消費型」へと業態革新したイノベーター

1963年、大阪・天神橋筋商店街の「セルフハトヤ」、千林商店街の岡本商店という衣料品店が中心となり、背広の製販問屋の「エルピス」、京都の「ヤマト小林商店」を併せた4社の合併によって総合スーパー「ニチイ」が誕生しました。

日本の流通業界初の大型合併であり、「ニチイ」という社名は「日本衣料」、もしくは「日本は1つ」を略したものだと言われています。そして「セルフハトヤ」の社長だった西端行雄氏が初代ニチイの社長となり、残りの3人が副社長という体制で発足しました。

合併当初は4社合計12店舗、年商27億円だったニチイはその後も合併を繰り返しながら、1972年には全国129店舗、年商1000億円を突破するまでに至りました。1974年には、念願の株式上場(大阪証券取引所第二部)を果たします。

まさに総合スーパーの全盛期。日本の高度成長に合わせるように、1960年代に生まれた総合スーパーは、「チェーンストア理論」(本部で大量に仕入れて、各チェーン店舗で一律のものを大量に安く販売する方法)を背景に、百貨店に代わり小売業の主役になりました。

1972年にはダイエーの売り上げが三越を抜き、小売業の日本一に。このニチイの成長期はそんな背景があったわけです。しかし、ニチイの転機は成長を支えた初代社長の西端氏が他界したタイミングに訪れます。

1982年、西端氏の後を継いで「ヤマト小林商店」の小林敏峯氏が就任します。しかし、当時スーパーは冬の時代を迎えていました。大手スーパーは軒並み減益となり、ニチイもその例外ではありませんでした。

 小林社長は脱スーパー路線を掲げ、都市の若年層を対象にしたファッション専門店「ビブレ」を全国展開するとともに、郊外のニューファミリー層を対象とした生活百貨店「サティ」の全国展開をスタートします。1988年にはグループの名称を「マイカルグループ」に変更し、「マイカル宣言」を行いました。

MYCALとは、Young & Young Mind Casual Amenity Lifeの頭文字をアレンジしたものであり、「若年層及び若い気持ちを持った人の気軽な快適生活」ということです。つまりは、若手から中高年まで幅広いターゲットのライフスタイルを支える、という考えがベースにあります。単なる安売りから決別し、生活づくり、街づくりを事業対象にし、生活文化産業集団に脱皮する、というチャレンジが名称変更に込められました。

そして、その象徴的な一歩が、翌1989年の未来都市「マイカルタウン」構想に基づく、マイカル本牧の出店でした。スーパーとはまったく次元の異なる巨大商業施設であり、サティを核店舗にしながら、映画館、スポーツクラブ、カーディーラー、金融機関などを収容した「時間消費型」のショッピングモールを出店したのです。

そしてバブル崩壊後は地価下落を背景にしながらマイカルタウンに対する積極投資を続けます。1995年にマイカル桑名、97年にマイカル明石、98年にマイカル大連商場、そして99年にマイカル小樽と、矢継ぎ早に投資が続きました。マイカル小樽への投資額は600億円を超える巨額なものでした。

このようにして、マイカルは大型のショッピングモール事業へと変身を遂げていったのです。

質を追求した大型店舗の出店が消費者ニーズに逆行

マイカルタウンは出店当初はにぎわいをもたらしましたが、やがてそのブームは下火になります。出店攻勢とは裏腹に、1990年代後半のマイカルの売り場は、総じて勢いのあるものではありませんでした。「店舗は広い割に、買いたいものがない」という状況だったのです。

1990年代後半は、デフレの時代。ユニクロや100円ショップが大きく飛躍してきた時期と重なります。消費者側としては、安くていいものを求める、という潮流がありました。しかし、その当時マイカルが追求していたのは、「量よりも質」。消費者のニーズとは異なる方向に走っていたのです。

しかも、複合型の店舗については、「自前化」が前提でした。つまり、マイカルタウンに入る店舗はできるだけマイカルやその関連会社で賄おうとしたのです。結果的に、マイカルタウンが追求した「質」の観点においても、消費者にとっては極めて中途半端な存在に陥りました。

安いものを大量に販売するという量販店モデルに限界を感じ、質の方向に舵を切ったマイカルでしたが、時代の流れは完全にマイカルの戦略に逆行しました。1990年代後半のマイカルシティは、巨額なコストが計上される一方で、売り上げは立たず、売り場効率は大幅に落ち込み、すべての店舗で大きく赤字を垂れ流す結果となっていたのです。

水面下の噂だったマイカル危機説は、1998年秋にアメリカ会計基準で670億円の赤字が表面化してから一気に広がりました。しかし、マイカルがリストラに本格的に着手し始めることができたのは、「マイカル宣言」を推進していた小林氏が1999年12月に急逝してからです。ワンマンで経営を引っ張ってきた小林氏の方針を誰1人変えることができなかったのです。

その後は宇都宮浩太郎氏が社長になりますが、メインバンクであった当時の第一勧業銀行からの融資は難航します。結果的にはメインバンクからの調達を諦め、外資系金融機関を頼り、店舗の証券化といった手法を通じて資金確保に走りますが、格下げ、株価低迷といった市場の評価を変えられず、事態は悪化するばかりでした。

最終的には、2001年9月、民事再生法※、そして11月に会社更生法を申請し、イオンのスポンサードにより再生を目指すことになったのです。負債総額はグループ合計で1兆9000億円。当時、戦後第4位の規模の倒産であり、小売流通業では戦後最大の倒産劇となりました。

(※最初から会社更生法を選択せず、民事再生法とした背景にはウォルマートからの買収を期待した一部の幹部陣の暴走がありました。結局その計画は頓挫し、会社更生法を選択せざるをえなくなったのですが、そのドラマはここでは割愛します)

器は次々と作ったが、肝心の魂を入れ忘れた

マイカル倒産の直接的な原因は、1980年代後半から舵を切った「マイカルタウン」の推進であることは間違いありません。「街づくり」というコンセプトの下に抱えた大きな負債が、10年の時を経て爆発したわけです。しかし、競合であるジャスコ(イオン)やイトーヨーカ堂も店舗の大型化を推進していました。方針そのものに違いがなかったとすれば、本質的な差はどこにあったのでしょうか。

その差は、「現場の緻密さ」にあります。大きな「店舗の形態」もさることながら、店舗の最前線の現場で消費者ニーズを見極めながら、モノが売れるような仕掛けをどれだけ試行錯誤してきたか、ということです。

例えば、ヨーカ堂においては、仮説検証を繰り返しながら、商品数の絞り込みと販売量の確保にこだわってきました。ジャスコにおいては、デフレニーズを踏まえて、圧倒的な低価格販売にこだわり、現場レベルで「どこよりも安い」というブランドイメージの形成に努めてきたわけです。

しかし、マイカルは、日本の高度成長時代に形成された「置けば売れる」という成功体験に基づく大雑把な販売手法から抜け切れませんでした。「マイカル宣言」に見られるような大きなコンセプトに走り、一方で必要な現場の緻密なマーケティング施策が疎かになっていたのです。

結果的には、消費者目線レベルでは、どれだけ店舗が大きくても、「何かいつも新しい変化がある売り場」に引っ張られていきます。マイカルが本当にやるべきだったのは、新しく次々に大型店の器を作り続けることではなく、作った器1つ1つにしっかり魂を入れていくことだったのでしょう。


時に私たちは大きな戦略構想を立てる場面にぶつかります。そういう場面で問われているのは、いかにして既存の延長線上にない構想を描くことができるか。つまり、「風呂敷を大きく広げる力」が求められます。

しかし、同時に忘れてはならないのが、広げた風呂敷を最後まで畳み切ること。オペレーションレベルまで細部を描き切り、そしてうまくいくまでフィードバックサイクルを回し切っていくことなのです。戦略づくりにおいては、ややもすると、風呂敷を広げた張本人が注目されがちですが、本当に重要なのは、その風呂敷を畳み切った人です。

私たちは、はたして風呂敷を畳み切っているでしょうか? このマイカルの事例からは、長期的な現場レベルの緻密な設計の価値が問われていると感じます。