みなさん、狐に憑かれた経験はあるだろうか?

近年“狐憑き”はめっきり減ったと聞く。
「1965年以降人間は狐にだまされなくなった」という学説を唱える人もある。
狐はかつての妖しい力を失い、現代人にとっては犬や猫と変わらぬ“普通の動物”になってしまったのだろうか。

しかしながら、である。

「日本人の狐離れ」が進行する一方で、90年代の東京で突然、憑かれたように稲荷神社に通い、膨大な数の「狐の彫刻」を撮影し始めた人物がひとりいた。写真評論などの分野でよく知られる文筆家、大竹昭子さんである。

今回は、驚くほど多様な狐の姿を捉えた銀塩写真とともに、アノニマスな彫刻を見るおもしろさについて、大竹さんに寄稿していただいた。江戸時代に多くつくられた狐の彫刻からは、石工の技巧や遊び心、そして長い歴史の中で培われてきた日本の信仰の在りようが垣間見えるという。

「なんでこんなに撮ったのかよくわからない…」
本人さえそう振り返るほど大量の写真群から、厳選してお届けしよう。
文・写真/大竹昭子
デザイン/桜庭侑紀
「あなたはもう彫刻を無視できない」一覧
街でもっともよく見かける動物はなんだろう。犬? それとも猫?

どちらも駅に行く道々、見かけぬ日はないくらいよく出くわす。

では、彫刻した動物はどうかと考えてみると、思いつくのは渋谷のハチ公、あるいは上野公園の西郷さんが連れている犬。猫となるとまるで浮かばない。そもそも、動物を彫刻の対象にすることが少ないように思う。

ところがあるとき、そうではないと気がついた。彫刻された動物に必ず出会う場所がある。それはどこか? 稲荷神社の境内である。鳥居をくぐれば石の狐が座っているのである。焼き物の狐もいれば、鋳造の狐もいて、それらを集めたらかなりの数にのぼることはまちがいない。
神社の狛犬はどうだ、という人がいるかもしれないが、数でいうならば狐のほうがダントツに多い。都心の神社をさんざん巡った体験から自信をもってそう断言できる。

それはひとえに稲荷社の数が多いからである。王子稲荷のように有名なものから、銀座の路地奥にひっそりとあるもの、デパートの屋上に祀られているもの、屋敷の庭先にあるものと、数えきれないほどの稲荷社が東京にはあって、そこには必ずや狐が待っている。まさに狐だらけと言っていい。

とりわけ魅力的なのは石で彫られた狐である。大量生産で姿形が似かよっている瀬戸物バージョンとちがい、びっくりするほどバリエーションに富んでいる。まず表情がおかしい。ものすごくけったいな顔をしているのだ。
口を開けて笑っているもの、気の弱そうな垂れ目をしているもの、上目遣いに恨みがましく見上げるもの、カッコつけて気取っているもの、物思いに沈んでいるもの、いまにもしゃべりだしそうなもの、真面目顔、ヤンキー、おちゃめ、ずっこけ、ひょうきん者、と驚くばかりに表情がばらばらで、人間社会の縮図を見ているような気がするほどである。

狐といえば、上がり目で、鼻がとがって、狡猾、というイメージが強いが、それが大胆にも裏切られている。四本脚に耳としっぽがついてりゃいいんじゃないの、と言わんばかりのアバウトなつくりで、その自由奔放ぶりはまさに町のポップアート。元ネタが中国にある狛犬は類型的でこうはならない。
▲吹上稲荷(文京区・大塚)
記事のトップで使用したのは、護国寺の近くにある吹上稲荷の狐である。前脚を踏ん張って座っているさまが律義で、この前に立つと、思わず、お疲れさま、と頭を下げてしまう。口の表情は狐というよりはカバみたいで、ひそかに「ムーミン」と呼んでいる。目は鑿(のみ)で細く削られていて、寄り目気味だ。

参道をはさんで反対側にいるもう一匹は口を開けていて、あ・うんのペアだ。でも口が開いていると真面目さが引っ込んでいたずらっ子みたいで、反対側の律義者とはだいぶ表情がちがう。
▲王子稲荷(北区・岸町)
王子稲荷の狐もはなはだしく容姿のちがうペアである。こちらは彫刻のスタイルそのものが大きくちがい、もしかして別の彫り手がつくったのではないか、と疑いたくなるほどだ。一方は瞳の形がはっきり描かれ、鼻筋がとおり、額が張って、とても利発なそうな顔をしている。

もう一方は目が八の字にして笑っていて、口は横に線をひっぱっただけで、それも針金の先で彫ったみたいに稚拙なラインだ。でも、稚拙なりにとぼけた味わいがあり、出来のいい優等生とひょうきん者、という漫画チックなコンビなのである。

使われている石を見ると、吹上稲荷の狐は硬い石だと一目でわかる。そうでなければ小さな目のラインはとっくに消えてなくなっているだろう。王子稲荷の狐はそれより粗い石で、摩滅が早そうだ。
▲三囲稲荷(墨田区・向島)
これまで見てきたなかでもっとも上等な石が使われていたのは、向島の三囲(みめぐり)稲荷の狐である。二匹の描写にも統一感があり、目尻の垂れた三角目で、しかも眉毛が描かれている(だから目の辺りだけを見ているとニンゲンに見えてくる!)。おでこについている大きなイボのようなものは宝珠の玉。意のままに願いを叶える霊力の象徴だ。

台座には越後屋と彫られている。越後屋は三井家が創業した江戸時代でもっとも大きな呉服屋で、後の三越である。伊勢国(三重県)から進出した際に、三囲が「みつい」とも読めることからこの神社を崇敬し、奮発して豪華な狐を寄進したのだった。

東京にお稲荷さんが増えたのは江戸時代のことである。「伊勢屋、稲荷に、犬の糞」と川柳にうたわれている。市中を歩けば、伊勢屋という屋号と、お犬さまブームで増えた犬と、商売繁盛を願って祀られた稲荷神社がいたるところにあったのだ。

稲荷社に石の狐を祀るようになったのも江戸期と思われるが、それは石像がたくさん作られるようになったのがこの頃だからである。きっと狛犬のパロディーのつもりで狐を彫って神社に置いたところが、稲荷ブームに乗じてはやりだし、江戸中に増殖していったのではないだろうか。
ところで、稲荷社にはなぜ狛犬ではなくて狐がいるのだろうか。

根本的な問いにもかかわらず、これに答えるのは容易なことではない。稲荷が変遷してきた道のりは複雑で、資料によって解釈がまちまちなのだ。いや、容易でないからこそ好奇心をかきたてる。ミステリーと同じで謎は多いほどおもしろく、独自の見立てができるというものだ。
稲荷神社に言い分によれば、狐は稲荷神のお遣いである。狐を拝んでいるわけではありません! と強い調子で答える。どうやら、狐を拝んでいるなんて邪教だ、と非難する人がいるらしいのだ。

稲荷神社に祀られているのは「ウカノミタマ」という食物の神さまで、日本にあるさまざまな神社なかで稲荷はもっとも歴史が古い。それゆえアニミズムの影響を色濃く残している。

それがわかるのは、古くからある由緒ある稲荷神社は狐が棲んでいたような場所にあることが多い、という事実だ。典型的なのは王子稲荷で、境内は傾斜地にあり、崖のところには狐の住み処だった穴が祀られている。本殿のうしろにあるので見落としがちだが、ぜひ裏手に回って見て欲しい。その穴の場所が神社のはじまりだったのがわかる。

もうひとつ、小石川の伝通院の横の慈眼院にある澤蔵司(たくぞうす)稲荷も紹介しておきたい。くぼ地になっていて、周囲にうっそうと木々が生い茂り、ひんやりした空気が都心にいることを忘れさせる。斜面は草に覆われ、そこの穴からひょっこりと狐が出てきてもおかしくないような異界の雰囲気に満ち満ちている。そうか、稲荷神社はもともとこういう場所に祀られたのだな、と当時の様子を想像してはにやりとさせられる、とっておきの場所である。
▲澤蔵司稲荷(文京区・小石川)
狐は山と人里の境に棲み、かつては人家に出没して鶏を襲ったりしたようである。ワナをかけてもうまくすり抜けたり、人を見てもすぐに逃げずに相手をうかがうそぶりを見せたりする。人をくっているというか、大胆というか、得体が知れない賢者という感じがしたのではないだろうか。

このことは狐とよく対比される狸を考えるとわかる。狸も人里近くに出没し、人を化かすと言われるけれど、抜けたところがあってすぐにボロが出る。神のお使いなど、とても務まりそうにないのである。 

もうひとつ気に留めたいのは、狐が古墳や墓に生息することが多かったという事実である。土が盛られた死者の住み処に出入りする狐たちを見て、この生き物は異界とこの世をつなぐ神の化身だ、と考えたとしても不思議はない。

しかも巣穴の中には4、5メートルもの長さの複雑な構造をもったものがあって、狐の家族が代々使ったりする。これはもう立派な建築物と言える。そういう狐の文化度の高さに触れるたびに、むかしの人は感心したり、畏れを抱いたりしたのだろう。

狐は稲が実ると山から降りてきては里を徘徊した。刈り入れされる前に米を失敬するためだが、それを見て田の神の先触れとして崇めるようになったという説もある。しっぽの形が稲穂を思わせ、毛の色も稲に似て黄金色をしている。たしかに豊かな感じを与えたかもしれない。

このように狐に霊的なイメージを抱いたことが、その穴にお供えをして豊饒を祈るという行為につながっていったのだろう。そして稲荷信仰とその素朴なイマジネーションがいつしか交じり合い、稲荷社といえば狐がつきものとなっていったのではないだろうか。

時代がくだり、農業社会から商業社会に移行すると、稲荷神は広く生業一般を司る神となり、御利益の内容も多様化していく。
▲穴守稲荷(大田区・羽田)
越後屋が三囲神社を拝んだように、商人は必ず稲荷神の社を建てて手をあわせるようになる。また芸能者にとっても欠くことのできない神さまだった。そのことは銀座の歌舞伎座の楽屋に稲荷が祀られていたことからもわかる。社のある場所が下っ端の役者が使う大部屋の近くだったことから、彼らのことを「稲荷町」と呼ぶ業界用語すらできたほど親しい存在だったのだ。2013年に新しくできた歌舞伎座の楽屋にだってきっと祀られているはずである。

また、かつて花街だった場所には必ず稲荷神社が見つかるというのもおもしろい。芸者や遊女たちが信仰したからだ。お客さんがたくさんつくようにという願かけもあっただろうけれど、それだけではなかったような気もする。狐が化けて人間の男と結婚する「狐女房」の話があるように、狐は妖艶な女をイメージさせる。そういう力にあやかりたいという思いも、ひょっとしたらあったのかもしれない。
三囲神社や吹上稲荷の狐は足を踏ん張って座っているが、ほかにもいろいろなスタイルがあり、狐を探すときの楽しみになっている。
たとえば空から着地したように後ろ足を宙に蹴り上げているものがいる。「飛び狐」という。

狐は人間ができないことを軽々とやってくれる存在だったらしく、大切な品物を届ける飛脚の役をする話が各地に残っている。江戸とのあいだを2、3日で往復するらしいのだが、それには地面を走っていては無理で、空を飛ばなければならないわけだ。
▲飛木稲荷(墨田区・押上)
押上の飛木稲荷には、本殿の裏手に石を積み上げて狐塚がつくられており、その上のほうに、狐とは思えないようなアニメチックな顔をした狐が後ろ足を蹴り上げて岩にしがみついている。彼のニックネームは「パーマン」。周囲にいる瀬戸物の狐たちがクラシックな顔なので、ポップさが目立つ。

早稲田の水稲荷も狐と因縁が深く、新しい社殿を造るときに旧社地にあった狐穴を移し変えたほどだが、そこにも飛び狐がいる。太めのからだを前脚だけでバランスよく体重を支えているさまがオリンピック選手並だ。

つくるのに相当に技術が要りそうだが、そうやって新しいスタイルに挑戦して成功すれば、まず石工たちのあいだで評判になったはずで、そうなれば本人は鼻が高いし、遠くから人が見に来るので神社もありがたい、というわけで、チャレンジングな石工が競い合うように広めていったのかもしれない。
▲水稲荷(新宿区・早稲田)
口に物をくわえている狐にもときどき出会う。私が見てきたものでは、宝珠の玉、巻物、米蔵の鍵などがあるが、宝珠は残念ながら玉には見えなくて、パン食い競争に出場中、みたいな顔になることが多い。ほかにも子狐をはべらせていたり、稲束を背負っていたりと、そのイマジネーションたるや限りなく遊び心に満ちている。

つくられた時代を比べると、古いものほど「足踏ん張り型」が多い。おそらく、最初は座っているだけだったのが、しだいに連想ゲームのようにいろいろな要素が付け加えられていったのだろう。

そんなところもポップアートの面目躍如でおもしろく、つくり手の気持ちが素直に出ているところにアールブリュット的な魅力もあって、町歩きの最中に稲荷神社を見つけると、入って確かめずにはいられないのである。
*参考文献
五来重『稲荷信仰の研究』(山陽新聞社)
宮田登『江戸の小さな神々』(青土社)
『柳田國男全集』(筑摩書房)16巻、24巻
大竹昭子(おおたけ・あきこ)
1980年のはじめにニューヨーク滞在中に写真に出会い、魅了される。現在、メインの仕事は文筆だが写真も撮る。週末のたのしみはカメラをさげて街を歩くこと。都心の起伏を足裏で確かめながら散策する。最新刊は『東京凸凹散歩』(亜紀書房)。主な著書に『彼らが写真を手にした切実さを』(平凡社)、『この写真がすごい 2』(朝日出版社)、『間取りと妄想』(亜紀書房)、『須賀敦子の旅路』(文春文庫)など。トークと朗読のイベント〈カタリココ〉を定期的に開催中。http://katarikoko.blog40.fc2.com/
【次回予告】
次回のテーマは素晴らしき植物彫刻、「生垣」の世界。「生垣ってw」なーんて、甘く見ないでいただきたい。「トピアリー」と呼ばれる園芸ジャンルを補助線としてみると、映画に音楽、さらには現代アートに至るまで、生垣が世界中の文化に多大な影響を与えてきたことがよくわかるはずだ。
「あなたはもう彫刻を無視できない」一覧