早稲田大学の「人形メディア学」という授業をご存知だろうか。学生アンケートでは人文科学系学部の「面白い授業」2年連続第1位。『トイ・ストーリー』の世界観や、ガチャピンとふなっしーの違いについてなど、身近なテーマから「人間と人形の関係」を読み解いていく、超人気科目だ。

その講義を担当するのが菊地浩平さん。若手気鋭の人形研究者である。今回は彫刻特集(全10回)の一環として、菊地さんに人形の生命感=《生きてるみ》について寄稿していただいた。

「羽生結弦選手の演技後に投げられる『くまのプーさん』のぬいぐるみは生きているか、死んでいるか?」

人を食ったような問い掛けから始まるこの論考では、大多数の人がプーさんのぬいぐるみに《生きてるみ》を感じるという、驚きの事実が明らかにされている。

さらに記事の後半では、彫刻作品である銅像から脚立やポケットティッシュなどの日用品に至るまで、人間はあらゆるモノに生命感を見出し得るというアンケート結果が提示されていく…。

ふざけてるみたいだけど、大真面目。

いったい、私たちにとって人形とは何なのか? 菊地先生と一緒に考えてみよう。
文/菊地浩平
デザイン/桜庭侑紀
企画/飯田直人(livedoorニュース)
写真/gettyimages

菊地浩平
(きくち こうへい)

1983年、埼玉県生まれ。人形研究者。大学院生時代には一時よしもとクリエイティブカレッジ(吉本興業)にも入学したものの、研究者の道に進む。2014年から早稲田大学文化構想学部で講義を行う他、首都大学東京などでも非常勤講師を務める。
早稲田大学で人形文化を扱う講義を担当し始めたのが2014年。あれから約5年が経った。

2018年9月に、その講義のなかから入門的な内容の回を選び収録した拙著『人形メディア学講義』(河出書房新社)を刊行したこともあって、意外な出会いも増えた。そうした機会が、ふとした瞬間に忘れられぬものとなることも少なくない。

例えばとある中学校で出張講義を頼まれたときのこと。

中学生相手にどんな内容を話すか悩んだ私だったが、グループワークを取り入れてほしい旨のリクエストがあったのをいいことに、講義冒頭にこんな問いかけをしてみた。
「フィギュアスケートの羽生結弦選手の演技後、スケートリンクに大量に投げ込まれるくまのプーさんは、生きているか死んでいるか? 死ぬとしたらどの瞬間か? 皆で話し合ってください」
はじめ中学生たちはきょとんとしていたが、どうやらこのおじさんは本気で言ってるようだと察して、少しずつ議論を始めた。
写真:getty images

「プーさん、生きてるみあるよね」

こんなばかげた議題を出したのは、人形文化について考えるためにまず、われわれがいかに非合理なものの見方を内面化しているかを知ってもらいたかったからだ。プーさんが生きているかどうかについて、全員が納得できる明確な答えなどあるわけない。それぞれの人が、どれひとつ同じでない主観的な視点を持っている。

案の定、「あたしの家のプーさんは生きているけど、リンク上のプーさんは死んでる」とか、「羽生選手に手渡されたものは無事だけど他は死んじゃう」とか(※著者注 回収されたプーさんは会場の近くに住む子供たちに寄付される)、「プーさんは下半身裸で変態に違いない」とか、「もともと生きてるとか死んでるとか言うべき存在じゃないだろ」とか、さまざまな意見が飛び交い、大いに盛り上がった。

だがその次の瞬間、ある学生たちが口にした言葉に、私は心動かされてしまう。
「袋に詰められて運ばれてくプーさん、生きてるみあるよね」
「あーたしかに」
「てか人形って基本、生きてるみあるんじゃね?」
「あるねー」
「〜み」というのは、若者たちのいわばスラングのようなもので、「わかりみが深い」とか、「つらみがある」とかいった具合に使われる。

さすがに私は口にしないが、大学生でも使っている者は少なくないので耳なじみがあった。

彼らだって、これがいわゆる正しい日本語でないことは百も承知だ。

その上で、プーさんに生命的なる何かを見出しつつ、あくまでもそれが主観に過ぎない曖昧なものであることを自ら茶化しながら表明する言葉として、彼らは《生きてるみ》と言ったように思う。

《生きてるみ》って、案外人形文化をとらえるにあたって有用な言葉なのではないか。中学生相手の講義を終えてからしばらく経った今でも、そう思えて仕方がない私がいる。
じゃあ折角の機会だから、試しにプーさんの《生きてるみ》について考えてみよう。
と思ったが、一人では何とも心もとない……。

そこで協力をお願いしたのが、人形ゼミの皆さんである。

人形ゼミとは、私の講義後に、人形に対する並々ならぬ思いを持った学生たちだけを集めて行なわれる秘密の集まりのことだ。

講義ではとても流せないような資料を見たり、よそではできないような一見ばかげたテーマについて激論を交わす、ささやかな秘密結社である。

来るものは拒まず去るものは追わないルールなので、人形ゼミの全体像を把握するのは私ですら困難だ。だが彼らとの主な連絡ツールであるグループLINEを覗くと、既にメンバーが50名以上いるではないか。

これを使わない手はない。そこで、LINEの投票機能を使いこう呼びかけてみた。
羽生結弦のプーさんはいつ死ぬのでしょうか?
先述した中学生たちがあげていた意見も踏まえつつ、次の5択を用意した。読者の皆さんもせっかくなので、自分だったらどれを選ぶか考えてみてほしい。
A 観客がリンクに投げ込む前
B リンクに転がったとき
C キッズスケーターにリンクから回収されたとき
D 羽生結弦に手渡されたとき
E プーさんは死なない

人形に並々ならぬ思いを抱く人形ゼミの面々からは続々と投票が寄せられた。以下に、票数と彼らによるコメント、わたしの寸評を載せておく。

プーさんの《生きてるみ》に関する人形ゼミの見解

A 観客がリンクに投げ込む前…2票
そもそもプーさんのぬいぐるみに生命感を感じない。だからこそ、氷の上に無造作に投げ込まれる所業も可能なのだと思う。
プーさんはディズニーの中でしか生きられない熊なんですよ。夢の国だから永遠に蜂蜜だけを食べて暮らしていけるんです。そんな空間から連れ出された時点で餓死しますし、そこにいるのはプーさんの形をした、ただの傀儡(かいらい)です。

何かが宿った場合は、持ち主が何かを宿しただけなので、プーさん本人ではありません。プーさんはリンクに投げ込む前に、ディズニーという夢の国から連れ出された時点で死んでいます。
こちらはいわば「プーさんはすでに死んでいる」派。「プーさん本人」というパワーワードには、ディズニーガチ勢の怖さもにじんでいて味わい深い。
B リンクに転がったとき…2票
単純に、氷の上に倒れ伏した様子が死を連想させます。また、直前までサポーターがそれぞれの思いを込めていた個別のプーさんたちが、リンク上で区別のつかない「プーさんの山」に回収される有様も、背筋の冷えるものを感じさせます。
演技後のプーさんたちから死体の山を想起する人は多く、前述の中学生たちの多くもこの意見だった。
C キッズスケーターにリンクから回収されたとき…0票
個人的にあの手際の良さには毎度感動するけど、それはまた別の話。
D 羽生結弦に手渡されたとき…1票
正確に言うと、「地元の子供たちに寄付されると決まったとき」だと思います。羽生結弦に渡されるために購入されたプーさんが、その目的を果たした(あるいは果たせなくなった)瞬間に一度死ぬ。

…と思いましたが、あくまでそれはプーさんの人生(プー生)においての「最大の絶望」に過ぎず、プーさんは死ぬことはないのだと気づきました。なので、やっぱり「プーさんは死なない」です。
E プーさんは死なない…19票(実質20票)
プーさんがリンクに投げ入れられて「いてぇ! ばか!」とか言ってるのが想像できる。人形はきっと死ねない。
「プーさんという概念」は死なないという考えです

「プーさんのぬいぐるみの個体」という視点で見るとまた答えは変わってくると思いますが、観客は「プーさん」を羽生結弦に向かって投げ、羽生結弦は「プーさん」を受け取るので、「プーさんという概念」は死にません。

プーさんという概念が死ぬのは、ディズニーやプーさんを知らない人が「このぬいぐるみは私のクマの“ベアちゃん”!」などと名付けたときなのだろうなあと。
プーさんはぬいぐるみなので投げたり拾われたりする程度では死なない。羽生にも勝てる。羽生の部屋で自我を持って待っているとおもう。
「以前の(あるいは自分が知っている)その人ではない」という意味で「死んだ」を使うことがありますが、それは見る人の主観であって、その人自身はずっと生きています(死体ですらその可能性があると思います)。その意味では、物質的に消滅するまで「プーさんは死なない」のではないでしょうか。

死ぬことを、どこかわからないところにいってしまってもう会えないことであるとすれば、投げ込んだ側からは投げ込んで見えなくなった瞬間が「死んだ瞬間」であると考えられます。しかしそれはあとから振り返っての今生の別れであって、その時点ではまだ自分の知っているプーさんが死んだわけではない。なので「死につつある」が一番近い表現かなと思います。プーさんは、誰かの心の中で「死につつある」のではないでしょうか。
ご覧の通り、「プーさんは死なない」派が圧倒的マジョリティ。なぜか「羽生にも勝てる」と言いきる者までいる。
もしいま私が誰かに「人形ゼミとは何か」と聞かれれば、「羽生結弦のプーさんはいつ死ぬのか」と問われてここまで熱心に考えられる人たちである、と答えよう。

同時にこの投票結果からわかるのは、彼らの多くがプーさんを死物とはとらえず、言ってみればそれぞれの視点から《生きてるみ》を見出しているという事実だ。

中学生の言っていた通り、羽生結弦のプーさんには《生きてるみ》がある。そう結論付けるほかない。

しかしそうなってくると、他の人形の《生きてるみ》も気になってくる。中学生も「てか人形って基本、生きてるみあるんじゃね?」と言ってたし。

というわけで、人形ゼミのメンバーに改めて《生きてるみ》について説明した上で、次のようにたずねてみた。
次の中から《生きてるみ》を感じるものをひとつ選んで教えてください。
彼らには「銅像」「食品」「日用品」の3部門に分けて、選択肢の中で最も《生きてるみ》を感じるものを選んでもらった。もちろんこの投票が、学術的に価値がある代物だ、などとは口が裂けても言えない。

だが、私は今後長い時間をかけて、われわれはどういった人形に生命的な何かを見出し得るのか/得ないのかを考えていきたいと思っている。そのための小さいが確かな第一歩として、ひとまず《生きてるみ》をキーワードとして集めた、独断と偏見にまみれた投票結果をご紹介したい。

読者の皆さんも、是非自分ならどれを選ぶか考えながらご笑覧いただけたら幸いだ。

《生きてるみ》調査① 銅像部門

大隈重信像
人形ゼミには早稲田大学出身者が多い。なので大隈重信像にはなじみがあるはずだ。
高田馬場駅前の平和の女神像
よく見ると1974年建立とあるが、存在自体を知らない人がほとんど。それがいかに票に響くか。
人形ゼミメンバーの実家にあるひいおじいさんの銅像
親族の銅像がこの世に存在する人というのが世間にどれほどいるかはわからない。だが当のご家族にとって、遺影を飾るのとはまた違う親近感を覚えるのだそう。
第3位
大隈重信像
…3票
生きていた、知っている人がモチーフだから。
挨拶するとしたらこれだから。道端の祠(ほこら)みたいな感じ。
意外と票がのびず。「写真を撮ってる人が多くて人気があるので推せない」という意見も。センターより後列のアイドルを応援するみたいな感覚だろうか。
第2位
平和の女神像
…8票
女神像は、(ごめんなさい、ふだんあまり存在を認識していなかったのですが)強く彼女に対する悲哀を感じました。
私個人としては「捨て置かれたもの」に《生きてるみ》を感じやすいので、選択肢の中で最も見向きもされなさそうな彼女に1票入れました。
駅前にあるが目立たないという意見が多く、それだからこそ悲哀を感じ、結果《生きてるみ》を感じるということのようだ。
第1位
ひいおじいさんの銅像
…9票
ちゃんと「人の像」として認識されていそう、というのが理由です。大隈重信像、平和の女神像は「そういうオブジェ」として認識されていそう。銅像のもととなった人が誰か、というのは意識されていないような気がして。
そもそも銅像というものは「無機物であることを前提にした複製」としか見られない。だから銅像が動く系のホラー話には単純に生理的恐怖を感じるそんな中、この像はなんだか一番愛せる雰囲気があった。唯一友達になれそう。
僅差で1位。本人に会ったことはなくとも、背景を想像して親近感を覚えるケースは案外あるようだ。見向きもされないことでかえって《生きてるみ》が生じてしまうケースがある一方で、それなりの存在感を発揮し、家族と「同居」していることによって《生きてるみ》が見出されるケースもあるというところが興味深い。

《生きてるみ》調査② 食品部門

ハリボーのグミ
世界中で販売されているグミ。見るとわかるが、抽象的なクマの輪郭だけで、顔がついていない。その点を識者たちがどう評価するか。
笑点メンバーをかたどった人形焼き
まだ桂歌丸師匠(故人)がラインナップに入っている。味は普通においしい。
天然たい焼き
養殖ではなく天然という点がポイントか。焼くときに一匹ずつ専門の器具で焼くことから天然と呼ぶとのこと。こちらを天然と言われると、ハリボーや人形焼きは養殖かも知れないが…。
第3位
笑点メンバーをかたどった人形焼き
…1票
生きてる人をモチーフにしているから。たい焼きも鯛がモデルだが、鯛のイメージを感じない。「たい焼き」という食べ物にしか見えない。ハリボーは硬いので論外。熊がモチーフなのを知らなかった。そうだとしても、あれはテディベアであって生き物ではない。
モチーフが誰であるかを重視する勢というのがいるようだ。ちなみにこの回答者、先ほどは大隈重信像に一票投じており、知ってて生きてる人がモデルであるかどうかという基準を一貫して持っていることがわかる。
第2位
天然たい焼き
…7票
『およげ!たいやきくん』のイメージから。あの歌詞でたい焼き食べづらくなった人多いと思います。
「頭と尻尾どちらから食べるか」という問いが一般に浸透しているので、自然と「生きた魚」のイメージを重ねる癖がついているようです。
『およげ!たいやきくん』のようなあちらの事情がわかると胸が痛い、というのはどんな事象でも起きがち。ハリボー派からは、「たい焼きは焼き魚なので死んでいる」という辛辣な意見もあった。
第1位
ハリボーのグミ
…13票
形態がクマであるために感情移入がしやすい(動物としてヒトと近い存在。魚は遠い)。またグミそのものが透明であることと、硬質であることとが生命が宿る可能性を感じさせる。人形焼、たい焼きは空洞がなく(中にはあんこがぎっちり)、宿る余地がないと感じる。
つまめる小ささ、微妙に現実離れした色使いをベースにしつつ「顔がない」のが一番の要因かもしれない。笑点人形焼きは、すでに顔がある以上自分の想像力で進化させることができない(顔だけの歌丸さんが動いている想像などおぞましくてとてもできない)

しかしハリボーは顔がない。生物っぽい形だけど絶妙にアブストラクトなものなので頭の中で「生かす」余地がある。色と大きさの二要素は、「生きていてほしい」「生きていたらどんなんだろう」という願望を持たせるモチベーターになる。
この2つの見解は興味深い。物質としての《隙間》が想像性を託すための余白になり、それがあるからこそ《生きてるみ》を見出すことができるという考え方。
個人的な事前の予想では、桂歌丸師匠が亡くなってから間もないということで笑点の人形焼きが票を集める気がしていたのだがそうでもなかった。

実在の人物をモデルにしていることを評価する人がいる一方で、簡素で抽象的な形状であることを重視する人も結構いる。今回は深追いしないが、おそらくこうした見解が出て来るのは対象が食品で、自分がそれを口に入れるとしてどう感じるかを自然と連想してしまうこととも深く関係しているはずだ。

《生きてるみ》調査③ 日用品部門

ほうき
脚立
こたつ
ポケットティッシュ

3つ目の部門には変わり種を揃えた。
優れたプロレスラーはほうきやはしご相手でも一流の試合ができるといわれる。またDDTプロレスリングなどでこたつがチャンピオンベルトを何度も防衛するのを見たこともある。

さらにこの曲者ぞろいのラインナップにポケットティッシュも加えた。というのも、かつて学生たちと話していた時、東京都内でもらったティッシュを地元に帰って捨てるのに抵抗を覚えるという者がいて(遠くに連れていかれるのがかわいそう、というようなことらしい)驚いたからだ。

また、先日このティッシュの話をとあるベルギー人俳優にしたら、強い共感を示していた。今ではわたしもすっかり、ティッシュは案外無視できないんじゃないかと思っている。

ちなみに人形ゼミ生たちによるコメントが最も活発だったのもこの投票。どうかしてるぜ。
第4位
脚立
…3票
無機物萌えなので、最も迷いました。脚立にしたのは、「立ってる」という事実がいじらしいからです。倒れた時に最も哀愁を感じるのも脚立ではないでしょうか。カシャカシャと軽い硬質な音を立てる点も儚げです。
他のどれも形態そのものに感情移入の余地はあまり感じないが、脚立については人をのせる、人に踏みつけられるという職業柄(?)、慮ってしまうところがある。「痛そう、重そう」。ギシギシ鳴ることもあるがそれがまた悲鳴めいている。
音を発するというのは銅像や食品部門には見られなかった特徴かもしれない。脚立のギシギシを悲鳴だと思い始めると生きづらい気もするけれど…。
第3位
ポケットティッシュ
…4票
使う度にその命が減っていく感じがするから。個人的には分離されたティッシュペーパー1枚はすでに《生きてるみ》を感じない死体に感じます。抜けた髪の毛みたいな気持ちの悪さ。
ポケットティッシュには変形要素がある。柔らかいので、ちょっと真ん中を沈めて谷にしてあげると、あたかも四つの角が手足に見えて、真ん中が不完全な顔の様相を呈す「謎モンスター」感が出る。ここもまた顔がないのが重要で、無生物という範囲の中でそれでも生物っぽさが出るというアンビバレントな感覚の合間でティッシュが泳ぐことになる。小さい頃、こういったものを人形に見立てる夢想をしていたのが懐かしい。
ティッシュ派はコメントが熱心だった。人を熱くさせる何かがあるのかも。ティッシュを全体でひとつととらえるか、個々に独立したものたちの集合体ととらえるかが人によって異なる点も面白い。
同率1位
ほうき
…7票
ほうきは動きがあってこそ仕事をする。他のものは動かない。
ティッシュ派に比べると、ほうき派は票数に反してコメントの熱量は低め。コメント者1名。しかもメンバーの母。お子様にはいつもお世話になっております。
同率1位
こたつ
…7票
温度が人肌に近いし中身が隠されているから。
なんといっても温もり。何を差し置いても温もりです。ほうき、ポケットティッシュは木材を切って加工した感があり、死んでるみが強いです…。

電源が切れたこたつは死んでるみがあるかもしれない(人が亡くなって体温が感じられないときのひんやり感に似ている気がします)。
温もりが一定の評価を得た。温度変化により生死が切り替わるという点は興味深いが、ここにきて《死んでるみ》という新たな概念が提起されてやや混沌としてきた感も。
銅像のような見るからに人の形を模したものよりも、そこからかけ離れたものの方が議論は白熱するという事態が発生。というかこんなばかげた投票に熱心に答えてくれた人形ゼミの皆さんにお礼を言いたい。

結論「人形と呼べぬものなどない」

ここからひとつの結論を導き出すということはなかなか難しい。

しかし収穫もある。それは《生きてるみ》といういかにも軽薄なスラングを使って学生たちの意見を募った結果、人形というものの指示範囲が無限拡張していく可能性を目の当たりにできた点だ。

もはや、人形と呼べぬものなどないのではないだろうか。

またそれにともなって、一方に生き物を模した人形や銅像があり、他方にティッシュやこたつやグミがあるとして、どちらにわれわれが生命的なものを見出すか。というまるでばかみたいな問いにも、それなりの意義や面白さがあることを示せたはずだ。

そもそも人形と人間の関係というのはとても曖昧なものだ。「プーさんはいつ死ぬのか」という問いだって、生でも死でもない領域でプーさんを捉えている者を、「生か死か」という安易な二元論的な思考に誤誘導してしまう危険をはらんでいる。

だからこそ、人形とわれわれの間に生じる個々の曖昧な関係性を、それぞれ曖昧なままに慈しみながら議論するためのタームとして今回は《生きてるみ》を採用した。

客観的な意見とは言い難いしそんなものは目指すべくもなかったわけだが、少なくとも、一定の自由度を確保した上で様々な角度から意見を募るという目的はある程度達成できたと自負している。
 
もちろん人形文化を巡る思考はこれからも続く。

そのための小さな第一歩として《生きてるみ》は、案外悪くない。少なくとも私は大まじめにそう思っている。

<あなたはもう彫刻を無視できない特集>、次回のテーマは「身体改造」。タトゥーを入れたり、おでこにツノを生やしたり、舌を2本にしたり…あれ? 人間の体ってもしかして、見方によっては彫刻の“素材”なんじゃないのか? そんな疑問を日本一の身体改造ジャーナリスト・ケロッピー前田さんにぶつけてみました。(4月上旬公開予定)
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